21、ベールの下の願い?
orz 前後のエピソードの調整が下手で今回ちょっと長くなっちゃった…
◆黒いベールの下の願い
── 奴隷が働く採掘場で病が発生したとカラスの情報から知らされたセレン ──
「ほう、蝙蝠病か」
今日は老教師に勉強を教えてもらう予定がなかったセレンは、直接ジンク老師の住まいを訪ねて行くことにした。アーサニクと、姿を隠したマーキュリーを伴ってだが。
彼の家は、貴族街よりやや貧困街に近い場所に建っているこじんまりとした家だと、その辺りを縄張りにしている猫や鳥たちに教えてもらいながら訪ねた。
出迎えたジンクは今日は勉強の予定がないのに、一体どうしたのかと一瞬驚いた様子だったが、すぐにいつもの優しい笑顔で、セレンたちを温かく迎えてくれた。
書斎は、古い本と薬草の香りに満ちていた。
70歳を超えるという白髪の男は、セレンの説明を静かに聞き終えると、琥珀色の瞳を細めて遠い記憶をたどっているようだ。
窓辺の鉢植えに触れながら、彼はゆっくりと語り始めた。
「ふむ。自分が若い頃にな、あちらこちらの国々をぶらぶらと旅行していたことがあるんじゃ。何十年も前ではあったが、辺境の地で見たことがある。その時の病も、洞窟の蝙蝠から蚊を媒介して広がる熱病じゃった。どうやら今回の病も、確かに同じ病気のようじゃな。儂が治療に携わった時も、当時の患者は1週間は高熱にうなされ、体力のない子供や老人などは3日と持たずに息絶える者も少なくなかった病なんじゃよ」
セレンの息が止まる。
しかし老教師の口元に、かすかな微笑が浮かんだ。
「じゃがな、その地では、ちゃんとした治療法があったんじゃ。ただしその国では、材料となる植物が少なかった上に、当時亡くなった患者のほとんどが貧民であったためじゃ。金の力にものを言わせた貴族たちや、富豪の商人などにしか、薬が行き渡らなかったんじゃよ。悲しいことにな。
ただし、何十年も前の話だから、今ではその国では治療法どころか、対策までしっかりとできておるわい。
しかも偶然にもだが、この病気に効く薬草は、この帝国内の貧困街の路地に最も多く生えている雑草なんじゃ。『ミドリハコベ』 ―― 多年草で1年中手に入るもんじゃ。これに、帝国の丘陵地で採れる『ヤマブキ草』の根、そして市場で売られている『レモンバーム』を混ぜ合わせて煎じれば、特効薬ができるはずじゃ」
※ミドリハコべ。ヤマブキ草。レモンバーム:現実世界にもあるが、効能は異世界の病気に対する架空の効果です。
「本当に治療法があるのですね?」
思わず声を上げてしまい、セレンは口を押さえた。
老教師は彼女の反応に、深い皺の刻まれた顔をさらに和らげた。
「貧困街の人々が無事な理由も、これで説明がつくのう。彼らは貧しさゆえ、食べられる草は何でも口にする。もちろん彼らの口伝で、毒草と知らなくとも食べたら身体がおかしくなるとか、下手をすると死ぬことがある草などは、食べないようにと教えられているようじゃ。
それで自然に普通の食用になる草だけでなく、知らず知らずのうちに、ミドリハコベのような、薬草になる草などを日常的に摂取しておるのじゃろう。自然の予防接種のようなものじゃな」
なるほど……もしかして、老医師はそのことを調べるために、貧困街に近いこの土地に、邸をかまえたのかしら? それに、貧困街の人への口伝も、老医師が広めたりしてるのかも。彼らの中には、文字を学べる機会がない人が多いはずだから……
それはさておき、セレンの胸に希望が灯った。
しかし……ハタと気付いた。すぐに現実が彼女を打ちのめしたからだ。皇妃として動くには、皇帝の許可が必要だろう。自分の娘をこそ、正妃や側妃にしたいと狙っている、貴族派閥たちの目もある。彼女が何かを提案すれば、それは必ず「陰謀」と歪められて返ってくるかもしれない……
「儂が協力しよう」
老教師の声が、彼女の迷いを断ち切った。
「この腕は、宮廷の御典医どもより頼りになるはずじゃ。じゃが問題は、どうやって薬を届けるかじゃな。今のままでは、採掘場には近づけまいて」
セレンは唇を噛んだ。確かに、ただの町娘「リン」では説得力がないだろう。だからと言って皇妃の立場は……今は形骸化していた。
「……宰相リード公爵に相談してみます」
彼女はそう言ったが、内心では期待しなかった。桃金色の髪をした宰相は常に合理的な人物だが、彼もまた「傲慢な皇妃セレン」という評判を信じている1人だから。
*****
予想通り、事態は難航した。
宰相リードを通じて皇帝に報告を試みたセレンは、簡潔な返答しか得られなかったからである。
「疫病の件は、すでに陛下も御典医も調査しております。皇妃殿下はご静養を」
眼鏡の奥の桃色の瞳は、礼儀正しくても冷たい。
元側妃クローリンたちが去った後も、貴族派たちの影響力が、ここにも及んでいた。
皇帝シルバーに直接訴えることも考えたが、彼は談話室での件と、クローリンのネックレスの件依頼、1度もセレンの元を訪れてはいない。
『お前は何もするな』
―― 婚礼の時に宰相を通して告げられた言葉が、今も彼女を縛っているのだから。
「どうすれば……」
*****
掘っ立て小屋に戻ったセレンは、硬い木の椅子に腰を下ろし、うつむいた。
窓の外では、護衛騎士のアーサニクが、男装のまま警戒の目を光らせている。幼馴染であり乳姉である彼女だけが、セレンの真実を知っていた。
《セレン》
突然、低く優しい声がした。振り向くと、そこには黒豹のマーキュリーがいた。金色の瞳が、暗闇の中で微かに光る。
「黒豹様……?」
《街のカラスたちが言っていた。採掘場の奴隷たちが、次々に倒れていると》
動物と心を通わせる能力が、今、彼女に情報をもたらす。
「結局、皇帝陛下に……直接訴えるしかないのかな……」
マーキュリーの声は、意外にも穏やかだ。
《だが今、皇帝は視察のために出払っている。戻るのは3日後だ》
3日 ―― その間に、どれだけの命が失われるか。セレンは拳を握りしめた。
「待てない……待てないのよ」
彼女は立ち上がると、簡素な机の上にある薬草の束を手に取る。老教師ジンクから分けてもらったミドリハコベだ。
「アーサ!」
声をかけると、すぐに扉が開いた。焦茶色の髪を短く刈り込んだ騎士が、橙の瞳を輝かせて現れる。
「何かご用ですか、セレン様」
「私を採掘場に連れて行ってほしいの」
アーサニクの表情が一瞬硬くなったが、すぐに覚悟を決めたようにうなずいた。
「危険です。疫病が広がっている場所なんでしょう」
「だからこそ行かないと。私は皇妃なんだもの。見て見ぬふりはできないわ」
彼女の赤い瞳には、かつてない決意が燃えていた。前世で、病に苦しむ患者を救えなかった後悔。今世で、何もできないお飾りとして嘲笑われる屈辱。それらが1つの意志へと結晶する。
「わかりました。ですが、1つ条件を」
アーサニクは真剣な面持ちで言った。
「私が作った防護用の布と、薬草湯も持参してください。老教師から教わった方法で、感染を防ぎましょう」
セレンはほっとしたように微笑んだ。心強い味方がいる。老教師ジンク、アーサニク、そしてマーキュリー。彼らだけが、今の彼女を支えていた。
「ありがとう、アーサ」
「とんでもありません。私は幼い頃から、セレン様をお守りすると誓いましたから」
2人はすぐに準備を始めた。老教師の指示通り、薬草を煎じ、布を薬液に浸す。マーキュリーは闇に紛れ、彼女たちの見張り役を買って出た。
夜が深まる頃、いつものように、彼女たちはこっそりと小屋を抜け出した。月明かりだけを頼りに、採掘場へと向かう道を急ぐ。
その道中、セレンはふと思った。
もしこれが皇帝に知られたら、どんなお叱りを受けるだろうか。あるいは、貴族派閥に利用されるかもしれない。
それでも ――
彼女は夜空を見上げた。星々が冷たく瞬く。
私は薬剤師でもあるんだ。患者を救うことが、私の役目なんだ。
前世の記憶が、彼女を優しく後押しする。どんな立場になろうと、どんな評判を受けようと、彼女の本質は変わらない。命を救いたいと願う、1人の人間だ。
採掘場の明かりが、遠くに見える。
苦しむ人々がいる。
彼女は歩みを速めた。
この行動が、やがて帝国の誰かの目に留まる日が来るだろうか。それとも、闇に葬られる無謀な行いに終わるだろうか。
答えはまだ見えない。
だがセレンは、初めて自分らしい1歩を踏み出した。お飾り皇妃ではなく、命を救う者として ――
*****
「だったら、直接動くしかないじゃない」
老教師の言葉や、アーサニク、マーキュリー、そして動物たちにも背中を押され、セレンは決意した。初めて、黒いベールをかぶった皇妃の姿のまま、民衆の前に立つことを決心したのだ。
疫病が広がる地区の広場で、彼女は蝙蝠が原因であること、治療法があることを説明した。
しかし、待っていたのは冷たい視線と罵声だけだったのである。
広場のざわめきが、セレンの鼓動を打ち消すかのように響く。黒いベールが顔を覆い、視界は細かい網目を通してぼんやりとしか見えない。それでも、民衆の敵意は肌で感じる。冷たい視線が、ベールの生地を貫いて彼女の皮膚を刺すようだ。
「お飾りの嫌われ者の悪女の言うことなど聞けるか! 帰れ帰れ!」
最初の罵声が飛んだ時、セレンの背筋が一瞬硬直した。前世の記憶 ── 日本の薬局で、患者に丁寧に説明していたあの日々 ── が脳裏をよぎる。あの頃は、こんなに露骨な憎悪にさらされることなどなかった。
「むしろお前が病気を呪いか何かでまき散らしてるんだろ! 消え失せろ! 呪われた女め!」
次の声は、より鋭く、より個人的に響いた。
セレンの胸の奥で、何かが軋んだ。皇帝に嫁いだ日、あの冷たい宣告を思い出してしまった。
『公務行事は側妃が、子作りは愛人がやるから、お前は何もするな!』
何もするな。ただそこにいろ。飾り物であれ。
だが、彼女はもう飾り物ではいられない。採掘場で広がる謎の病 ── コウモリが媒介する感染症 ── を、彼女だけが知った。老教師ジンク元侯爵の知識と、彼女自身の薬草に関する記憶が結びつき、治療法がわかっているのだ。
「蝙蝠が原因なのです」
セレンの声は、意外にもしっかりと広場に響いた。
「薬草から特効薬を作ることができます。私が ──」
石が飛んできた。
小ぶりな石が、彼女の左頬を打った。ベールと薬液布のマスクがクッションになったが、衝撃は確かに伝わった。拳や棒までもが振り上げられる。痛みよりも先に、ある記憶が蘇った。前世、病院で誤解から患者の家族に押し倒された時のこと。その無力感をも。
そして今、この世界でも。かつて皇帝に叩かれた記憶をも呼び覚ました。彼女の内から、静かな怒りが湧き上がる。
アーサニクは剣の柄に手をかけ、老教師が彼女を庇おうとしたが、セレンは軽く手を挙げて止めた。
「わかった。いいだろう!」
彼女の声が変わった。静かだが、鋭く、広場の喧騒を切り裂くように響き渡る。セレン自身も驚いた。この声は、本当に自分の声なのだろうか?
ベールの奥で、彼女の赤い瞳が輝いた。炎のように。
「私が信用できず、呪いをまき散らしていると思う者たちは!」
1歩前に出る。民衆が一瞬、後ずさりする。
「全員蝙蝠の巣穴の洞窟に放り込んで封じ込めてさしあげよう!」
場が水を打ったように静かになった。誰もが息を呑んだ。
「そこで私の呪いだと思い込んだ感染症にさっさとかかって、勝手に呪いだと信じたまま死ねばいい!」
沈黙が広がった。
その沈黙の中、セレンは民衆の中の不自然な動きを見逃さなかった。数人の男が、わざとらしく怒りを煽るように動いている。服装は質素だが、手の綺麗さ、姿勢の堅さ ── 騎士か、少なくとも訓練を受けた者たちのようだ。公爵家の手先に違いない。
「逆に」
セレンの声が再び響く。
「蝙蝠が原因の感染症だと、私の話を信じる者は、病気の治療を受けについて来なさい!」
「あいつらだ!」
突然、子供の甲高い声が響く。ニッケルだ。茶髪の少年が、民衆の中から飛び出すように前に出て、先ほどの男たちを指さす。
「ずっと悪さをあおってた! 妹とずっと見てたんだぞ!」
クロムも兄のそばに立ち、小さな拳を握りしめていた。2人の瞳には、大人たちへの失望と、セレンへの信頼が混ざっていた。
民衆の視線が一気に変わる。煽り役の男たちに向けられた。男たちが慌てて逃げようとした瞬間 ──
「逃がすかよ、この野郎!」
労働者風の大柄な男が、1人の手先の腕を掴んだ。それを合図に、他の民衆も動いた。怒りの矛先が、セレンから彼らへと完全に移行した。
「陛下到着!」
その時、憲兵たちの声と共に、馬の蹄の音が近づいてきた。
白銀の鎧をまとった騎士たちに囲まれ、皇帝シルバーが現れた。空色の髪が午後の陽を受け、碧眼が広場の状況を一瞥する。
騒動はすぐに鎮圧された。手先たちは憲兵に押さえられ、民衆は少しずつ静まっていった。
シルバーの視線がセレンに向けられる。ベールをかぶった皇妃の姿。彼の目には、困惑と何か他の感情 ── 評価のようなもの ── が浮かんでいるようだ。
老教師ジンクがゆっくりと皇帝の方へ歩み寄った。白髪が風に揺れる。
「やっと来おったか」
老教師の声は穏やかだが、その目の奥には鋭い批判が潜み失望で曇った。
「事実確認のため後手に回っていたと? それとも、わざと皇妃が民衆の反感を一身に浴びるのを見ていたのか?」
シルバーの眉がわずかに動いた。
「バークリュム元侯爵、その言い方は ──」
「幼子の成長を見守るようにもそっと優しく言ってやろうか」
老教師は言葉を続けた。
「見守るだけでは足りない。時に手を差し伸べ、時に前に立って導かねばならない。それが為政者の務めだ」
皇帝の顔に一瞬、少年のような悔恨の表情が走ったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「疫病の対策はすでに指示した」
シルバーの声は事務的に聞こえる。
「騎士団と冒険者たちが蝙蝠の巣窟を掃討している。御典医たちも薬草の調達を開始した」
「今さらのこのこと」
ジンクはため息をついた。
「しかし、皇帝の権力がなければこれほどの迅速な対応はできなかったのも事実だ。では、せっかくの機会だ。陛下にも直接、治療の現場をご覧いただこう」
シルバーは一瞬躊躇したが、うなずいた。
*****




