第9話『指輪を返して、証拠は返さない』
私は公衆の立会所を指定し、婚約関係の物品を一度で清算することにした。
立会所へ向かう前に、セリアからも短い手紙が届いていた。受け取っていた贈り物は自分で送り返し、受領の知らせも届いたという。
ロランが手紙で求めてきたのは、「二人だけで会いたい」という要求だった。だが、明日に組合の審理を控えた今、彼と密室で顔を合わせるなど愚の骨頂だ。丸め込まれるか、あるいは言いがかりをつけられるのが落ちである。
だから私は、人目が多く、必要ならすぐに立会人を呼べる街の公衆立会所を指定した。
昼下がりの喧騒の中、小さなテーブルを挟んで対面したロランの顔には、隠しきれない焦りと不満が浮かんでいた。
「リゼット、こんな人目のある場所でどういうつもりだ。僕たちはまだ話し合えるはずだろう?」
彼は周囲の視線を気にしながら、声を潜めて身を乗り出してきた。
「君はセリアに騙されているんだ。彼女は白枝の銘を狙っている。明日の組合の審理で僕を訴えるような真似をすれば、君の工房こそ不利益を被ることになるぞ」
私は彼を冷ややかに見据えながら、テーブルの上に小さなベルベットの箱を置いた。
「あなたが私に贈った婚約指輪です。お返しします」
「リゼット、話を聞いてくれ! 僕は君のためを思って……!」
「そしてこちらが、連名で手配していた結婚式の招待状のキャンセル費用の請求書です。合意していた通り、費用は各自で半分ずつ負担します。私の分の支払いは既に済ませました」
私はロランの言葉を一切無視し、淡々と書類を並べた。
胸の奥では、激しい怒りが渦を巻いていた。私の名前を無断で使い、偽の広告を打ち、受けたこともない大規模な注文の代金を受け取っておきながら、どの口が『君のため』などと言えるのか。今すぐここで、彼の嘘を一つ残らず並べ立てて罵倒してやりたい衝動に駆られた。
だが、ここで感情的に言い返せば、それは単なる痴話喧嘩に成り下がる。彼が望んでいるのは、私が感情を乱し、私的な関係の延長で彼と議論を交わすことだ。私はその土俵には絶対に乗らない。
「……婚約解消の事実は変わりません。これで、私たち個人の私的な関係の清算はすべて終了とします」
私は立会人を呼び、書類に清算完了の署名を交わさせた。ロランは悔しそうに唇を噛んでいたが、公衆の面前で暴れるわけにもいかず、震える手で乱暴にサインを書き殴った。
立会所を出て、乾いた秋の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
彼との清算がひとつ片付いたことで、私の心は思っていたより軽くなっていた。怒りも、信じていた時間の痛みも残っている。それでも、今日は自分で話を終わらせられた。
誰かの婚約者ではなく、ただ一人の独立した刺繍職人として、私は通りを歩き出した。
工房へ戻ると、そこには染色職人のノアが来ていた。
「リゼットさん。昨日お渡しした《雨燕》の糸を、実際の布で確かめに来ました」
私は昨日受け取った糸を作業台に並べた。濃い夜空のような藍から、雨上がりのような淡い青まで、美しく染め分けられている。
私生活の清算をひとつ終え、仕事に気持ちを戻そうとしていた私は、その鮮やかな青を見て深い安堵の息を吐いた。
「素晴らしい色です。これなら、色移りを防ぎながら、立体感のある春雨の風景を刺せます」
ノアは、私が先ほどまでどこで何をしてきたか、私生活の事情については一切尋ねようとしなかった。彼はただ、仕事の取引相手として、静かにそこに立っていた。
「どの色から、肩掛けの端布に刺して確かめますか」
彼が糸の束を整理しながら問いかける。ふと見ると、それぞれの糸の束には色番を記した札が付けられていたが、彼が用意した配色確認用の札にだけ、ノアの几帳面な字で小さな言葉が添えられていた。
『あなたが選んで』
それは、彼が私の職人としての決断を尊重し、決して主導権を奪おうとしないことの、ささやかで不器用な証だった。
自分の意見を聞かれるまで口を挟まず、私が自分で選び取るのを静かに見守ってくれる。その適度な距離感と誠実さに、私はロランとの関係では決して得られなかった、個人的な強い安心感を覚えた。
「……そうですね。まずは一番濃い、この色からお願いします」
私が糸の束を一つ手に取ると、ノアは小さく頷き、静かに端布の準備を始めた。
工房の片隅には、明日使うための書類を収めた鞄が置かれている。
中に入っているのは、販売取次契約の原本と、組合の登録預託記録の写しだ。ロランが取次人として納めたはずの、百五十銀貨の保証金の記録もある。
明日の組合の審理で、私は彼の不誠実な商売の越権行為を、この手で正す。準備はすべて整っていた。




