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婚約者の浮気相手は、私の刺繍の大ファンでした  作者: 他力本願寺


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第10話『白枝工房の主は、私です』

組合の審理。調停責任者のオルガは各資料の成立時期と署名を確認し、セリア、マリアンヌ様、私、そしてロランの発言機会を平等に確保して、淡々と議事を進めた。


 十月九日の朝。職人組合の重厚な扉に閉ざされた調停室には、乾いた緊張感が漂っていた。


 オルガが問いただしたのは、ロランの取次越権と、アヴェリーヌ家に対する《星雨の大掛布》の無断受注についてだった。組合は浮気という私生活のトラブルは裁かない。焦点はあくまで「登録取次人としての規約違反」と「顧客が支払った前金の行方」に絞られている。


 ロランはマリアンヌ様の前金領収書と、私の承諾署名がない注文控えを前にしても、悪びれることなく堂々と胸を張った。


「リゼットからは、事前に口頭で承諾を得ていたんです。その時は結婚予定でしたからね、いちいち夫婦間で署名を交わすなど馬鹿げているでしょう」


 彼は私を横目で見下し、冷笑を浮かべた。


「彼女は商売の素人です。自分が縫ったこともない大きな注文に怖気づいて、勝手に納期を恐れて仕事を投げ出しただけだ。悪いのは、契約を一方的に反故にした彼女の方です」


 その侮蔑の言葉に、隣に座るセリアが息を呑んで立ち上がりそうになるのを、私は机の下で彼女のドレスを引いて制止した。


 私はゆっくりと立ち上がり、オルガに向かって淡々と証拠を並べた。


「私が組合に登録している白枝の銘の写しと、当工房の受注帳です。《星雨》という注文を受けた記録はどこにもありません。また、先日ギャラリーが自主訂正した小品展の広告校正紙も提出します。彼は以前から『ベルティエ工房監修』と私の名義を意図的に混同させ、継続的に権限を詐称していました」


 そして、私はロランを正面から見据えた。


「私は職人です。自分の目の届かないところで、他人に自分の仕事を勝手に約束させたりはしません。私の名前は、私自身のものです。白枝工房の主は、私です」


 私の明確な拒絶に、ロランは舌打ちをしてセリアの方を向いた。


「セリア! 君からも言ってやってくれ。僕がどれだけ彼女の工房のために走り回っていたか。君との結婚だって……!」


「ロラン様」


 セリアは静かに、だが氷のように冷たい声で口を開いた。


「あなたが私生活を利用して、『結婚したら白枝工房をベルティエ工房に統合する』と吹聴していたのは事実です。この便箋にそう書かれていますから」


 彼女は提出済みの便箋を指差した。


「ですが、あなたがリゼット先生から《星雨》の商談の承諾を得ていたかどうか。そんなことは、私は知りませんし、見たこともありません」


 事前に打ち合わせていた『知っている範囲のことだけを語る』という徹底した線引き。都合の良い目撃者に仕立て上げようとしていたロランの思惑は、ここで完全に崩れ去った。


 双方の主張と証拠を聞き終えたオルガは、台帳に目を落としたまま無機質に告げた。


「……ロラン・ベルティエ氏。口頭承諾の裏付けはなく、取次人としての権限逸脱が認められます。よって、アヴェリーヌ家が支払った前金百二十銀貨は、あなたに返還の義務が生じます。本日中にお支払いください」


 だが、ロランはさっと顔色を失い、額に脂汗を浮かべた。


「そ、それは……今は手元にない」


「どういうことですか」マリアンヌ様が鋭く問い詰める。「私のお金はどこへやったの!」


「だから、あなた方に白枝を売り込むために使ったんだ! 十月二十八日に開催される秋季工芸市の出展枠を僕の名義で確保し、その案内作成の支払いに……っ!」


 帳簿が確認され、事実が判明する。彼は自分の名義で出展する工芸市の費用に、無断で受けた前金をそっくり流用していたのだ。その枠は返金不可であり、今月のギャラリー委託展とも、マリアンヌ様の記念会とも全く無関係の、彼個人の資金繰りだった。


「枠の支払期限が先だったんだ。大口が決まったと聞けば、リゼットも寸法を調整して引き受けると思った。納品して残金が入れば、次も回せたのに」


 ロランは押し殺した声で言った。私が喜んで従うという見込みで、まだ受けてもいない仕事の前金を使ったのだ。私は首を振った。客にも私にも確かめずに進めた責任を、今になって渡されても受け取れない。


 本人が即日支払えないことを確認すると、オルガは組合の規約に基づき裁定を下した。


「取次人本人が弁済不能であるため、ロラン氏が取次登録時に組合へ預託していた保証金百五十銀貨の中から、百二十銀貨を明朝、アヴェリーヌ家へ『立替弁済』します」


 私が借金を背負うわけでもなく、被害者であるマリアンヌ様は組合の保証制度によって正当に救済された。


「さらに本処分として」


 オルガは一切の容赦なく言葉を続ける。


「ロラン・ベルティエ氏の販売取次資格を一年間停止します。それに伴い、十月二十八日の工芸市への営業出展も不許可となります。保証金の残額三十銀貨は規定により預託保管とし、不足した百二十銀貨の保証金補填義務をロラン氏個人に課します。また、あなたが配布済みの全ての誤表示広告に対し、自費で訂正通知を出すことを命じます」


 それは、彼が自らの行いによって、信用と販路の一部を失い、使った金の補填まで負うことになった瞬間だった。ロランは反論する気力も失せ、崩れ落ちるように調停室を後にした。少なくとも一年間、彼は登録取次人として商売を続けられない。


*


 重苦しい審理を終えて組合の建物を外に出ると、秋の澄んだ空気が火照った顔を冷ましてくれた。


 ふと視線を上げると、建物の陰にある石畳の通りに、見慣れた大柄な人影が立っていた。染色職人のノアだ。


「ノアさん。どうしてここに」


「……染料の買い付けのついでです」


 彼は短く答え、私の表情から結果を察したように小さく頷いた。


「終わったんですね」


「はい。前金は彼の保証金から明日お客様へ返還されることになり、私はあの無茶な注文を引き受けずに済みました」


「大きな仕事を断ることも技術だ。あなたは正しい判断をしました」


 ノアの静かな声が、心に沁み込んだ。彼は私が失った売上を哀れむのではなく、職人として責任の線を引いた決断そのものを評価してくれた。それが、何よりも嬉しかった。


 ここで彼にすがりつくようなことはしない。私たちはまだ、取引相手という対等な立場なのだから。


「では、私は工房へ戻ります。《雨燕》の糸、大切に使わせていただきますね」


「ええ。仕上がりを楽しみにしています」


 ノアと別れ、通りを歩き出そうとした私の背中に、明るい声がかけられた。


「リゼットさん!」


 振り返ると、組合の窓口で翌朝の返金手続きを確認したマリアンヌ様が、晴れやかな顔で駆け寄ってきた。


「明朝、前金が戻ることになりました。その上で……」


 彼女は私の手を取り、真剣な眼差しで見つめてきた。


「本当にあなたが作れる一枚を、あなたと直接決めたいの。明日、工房へ伺ってもよろしくて?」


 看板や誰かの嘘を通さず、このお客様と初めて向き合う注文。


 私は深く頷き、「はい、お待ちしております」と力強く答えた。

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