第11話『看板ではなく、手で受ける注文』
旧注文が解消し返金が確定した後、マリアンヌ様が白枝工房の作業台へやって来た。
十月十日の午後。組合の審理を経て、ロランが流用して返金不能となっていた百二十銀貨は、彼が預託していた保証金からマリアンヌ様へ立替弁済される形で決着した。ロランの嘘によって結ばれた架空の注文は、これで完全に白紙に戻った。
狭い工房には、マリアンヌ様が相談への同席を認めたセリアと、藍糸の打ち合わせのために滞在していたノアの姿もあった。
「リゼットさん」
マリアンヌ様は、私の作業台の前に立ち、真剣な眼差しを向けてきた。
「お金の問題は片付きました。その上で……彼を通さない、本当のあなたとの契約を結びたいの。二十四日の記念会に飾る一枚を、あなたと直接決めたい」
その言葉に、胸が熱くなった。看板の威光や嘘の虚飾が剥がれ落ちても、彼女は私の作るものを求めてくれたのだ。
「ありがとうございます。ですが、マリアンヌ様」
私は喜びをぐっと堪え、職人として最も現実的な壁を口にした。
「十月二十四日までは、あと十四日しかありません。以前の注文書にあったような、百五十×二百センチメートルもの大掛布は、今からではどうやってもお約束できません」
「それは……そうよね。でも、どうしても白枝の刺繍を飾りたいの。どうにかならないかしら?」
期待と焦りの混じる彼女の声に、私は手元の原図帳を開いた。
「寸法と図案の構成を変えさせていただけるなら、可能です」
私は新しいページに、素早く初案のラフを描き出した。
「布の全体サイズを、六十×九十センチメートルの小型に縮小します。そして図案は布全体に散らすのではなく、上部の高さ十八センチの帯状の領域――全体の約二割の面積に限定します。その帯の領域だけを、濃藍の糸で密に刺し埋め、夜空の流れを表現する《星雨の掛布》です」
私が描いたラフを見て、マリアンヌ様は息を呑んだ。面積を絞ることで、逆に夜空の深みが凝縮されたような印象を与えられる。
「これなら、弟子のミナが十月十四日までに下地準備を十時間で終わらせ、私が十月二十二日までに最大三十六時間の刺繍作業枠を確保すれば間に合います。価格は二百四十銀貨でいかがでしょうか」
私は自分の処理能力と時間を正確に計算し、嘘偽りのない工程を提示した。
「ただし、この濃藍の糸を密集させる図案は、色止め試験に合格することが絶対条件になります。……ノアさん」
私が視線を向けると、壁際で話を聞いていたノアが一歩前に出た。
「十四日までに使う糸を全量検査します。濃さが基準を通らなければ、薄い色を使う図案への変更が必要です。合格した糸の主要分は十四日に、残りは十六日に引き渡す。染色料は二十四銀貨です。それでよろしいですね」
「はい。お願いします」
私たち職人同士の淀みないやり取りを見て、マリアンヌ様の顔に安堵の笑みが広がった。
「ええ。その条件で、ぜひお願いするわ。図案を変える必要が出たら、先に見せてちょうだい」
私が新しく書き上げた白枝工房の注文書に、マリアンヌ様はご自身の手で直接署名をした。前金となる六十銀貨の重みが、私の掌にしっかりと乗せられる。それは、誰の嘘にも依存しない、私の名前と手で直接受け取った仕事の証だった。
「さすが先生です! これで名誉挽回ですね。すぐにでも案内状を作って、皆に知らせなきゃ!」
マリアンヌ様を見送る際、セリアが興奮気味に身を乗り出してきた。ロランの嘘が暴かれたことで、彼女もまた私の名誉回復のために意気込んでいる。
「セリアさん。お気持ちは嬉しいですが、顧客名や新契約の細部を載せるなら、必ず本人の事前承認を得てくださいね。不用意な公表は、お客様にご迷惑をおかけしますから」
私が念を押して釘を刺すと、セリアは「ええ、もちろん! 広告に載せる時は、必ずお見せします」と頷き、マリアンヌ様の馬車を見送るために外へ出ていった。
工房には、私とノアだけが残された。
私は作業台の上に散らばった色糸のサンプルを片付けようと、息を吐いた。
「……大きな注文に目が眩んで一発逆転を狙わず、引き受けられる寸法を自分で決めたんですね」
ノアの静かな声が、工房の空気に溶け込んだ。
「ええ。作れないものを約束するのは、嘘をつくのと同じですから」
「立派な判断です」
彼が手を伸ばし、作業台の上の糸の束を拾い上げようとした。私も同時に同じ束へ手を伸ばしてしまい、指先がふわりと触れ合った。
あっ。
普通なら「すみません」とすぐに手を引っ込める場面だ。けれど、私はなぜか手を引くことができず、彼もまた、糸を掴んだまま指先を離そうとしなかった。
ほんの数秒。けれど、確かに意味のある沈黙が流れた。彼の指の無骨な温もりが、私の皮膚を通して伝わってくる。
「……濃藍の染色は」
不意に、ノアが少しだけ早口になって口を開いた。顔は見えないが、耳の端がわずかに赤い。
「今回の濃さは定着が難しいので、洗剤の濃度や洗い方を決めて試す必要があります。乾燥の温度も、布の縮みを計算して……」
この甘い空気の中で、いきなり安全検査の項目ばかりを数え上げる彼の不器用で几帳面な様子に、私はこらえきれず「ふふっ」と吹き出してしまった。
「ノアさんは、本当に真面目ですね」
私が笑うと、彼もばつが悪そうに目を伏せ、ようやく指が離れた。
だが、そんな穏やかな時間が一変したのは、その日の夕方のことだった。
「先生! 鑑賞会の会員宛てに書き送った報告の写しをお持ちしました!」
工房の戸を開け、意気揚々と駆け込んできたセリアから一枚の紙を受け取った瞬間、私は血の気が引くのを感じた。
「セリアさん……これは……」
「はい! いつもの会員三人に、先生の濡れ衣が晴れたことと、新しいお仕事をお知らせしようと思って。家の者に届けてもらったんです!」
彼女は善意百パーセントの笑顔だった。だが、そこに清書されていた文面は、私の背筋を凍らせるのに十分な破壊力を持っていた。
『マリアンヌ・アヴェリーヌ様に対する旧契約の返金経緯について』
『白枝先生の真の新作《星雨の掛布》、二百四十銀貨にて正式契約!』
そこには、マリアンヌ様の名前はおろか、ロランの不正による返金の経緯、さらには新契約の具体的な価格までが赤裸々に記されていた。
「公の広告ではなく、いつもの会員へのご報告のつもりでした……」
セリアの笑顔が、私の顔を見て消えた。私はすぐに配布先を書き出してもらい、これ以上回さないよう知らせを出すよう頼んだ。マリアンヌ様へも、その夜のうちに事情とお詫びを書き送った。だが、すでに人の手に渡った紙を、全部その場で取り戻すことはできなかった。




