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婚約者の浮気相手は、私の刺繍の大ファンでした  作者: 他力本願寺


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第12話『正しさにも、許可がいる』

セリアが「内輪」と思って会員に書き送った報告は、すでに配達済みだった。


「リゼットさん、これは一体どういうことかしら」


 十月十一日の午前。白枝工房の戸を開けて入ってきたマリアンヌ様の声は、静かだがはっきりとした怒気をはらんでいた。


 彼女の手には、上質な便箋に清書された会員宛ての報告が握られている。知人に見せられたというそれは、昨夕セリアが持ってきた報告の写しと同じ文面だった。


「マリアンヌ様。それは……」


「昨夜のお手紙は読みました。今朝には、知人から『大変だったわね』と声をかけられたのです。私がロラン・ベルティエに騙されて無断受注の被害に遭い、返金を受けたこと。そして、新たにあなたと二百四十銀貨で契約を結び直したこと……こんな私的な金銭のやり取りが、なぜ他人の名前で配られているのですか」


 マリアンヌ様が鋭い視線を向けた先には、昨夜からの回収状況を報告しに来ていたセリアがいた。セリアは血の気を引き、戸惑ったように目を瞬かせた。


「あ、あの……マリアンヌ様。私はただ、白枝先生の濡れ衣が晴れたことと、先生の素晴らしい新作が記念会に飾られることを、皆様に早くお知らせしたくて……。それに、報告を送ったのは私の鑑賞会の会員だけで、少人数の内輪です。書いたことも、すべて事実ですし……」


「事実なら、他人の財布の中身を勝手に言いふらしていいとでも思っているの?」


 マリアンヌ様の冷ややかな一言に、セリアはびくっと肩を震わせた。


 私は、思わず眉間を揉んだ。セリアには悪意がない。ただ純粋に、私の名誉を回復し、作品を宣伝したいという善意だけで動いている。だが、だからこそ始末が悪い。


 一瞬、私の胸の奥に『だから恋敵など信用できないのだ』という冷たい感情がよぎった。けれど、昨日『広告に載せる時は』と答えた彼女に、会員への手紙も同じだと私は言い足さなかった。あの返答で安心せず、確かめるべきだった。それでも、お客様の許可なく書き送ったことを、内輪だからと済ませるわけにはいかない。


「セリアさん」


 私は感情的な反発を腹の底に押し込み、はっきりと彼女に向き直った。


「あなたのしたことは、お客様の信用を裏切る行為です。正しい情報であっても、お客様の金銭事情や契約の細部を、許可なく他人に公開していい理由にはなりません。……あなたとの共同広報は、本日をもって一時停止します」


「先生……っ」


 顧客を前にあらためて告げた言葉に、セリアは唇を震わせた。彼女は唇を噛み締め、マリアンヌ様の前に進み出ると、深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした、マリアンヌ様。私の配慮が足りませんでした。会員宛てに出した報告は、引き続き私の自費で回収を求め、訂正とお詫びの手紙を送ります。戻ったものと、まだ戻らないものもご報告します。今後の広報についても、必ずお客様と工房主の書面による事前許可を得ます。どうか、お許しください」


 必死に謝罪するセリアを、マリアンヌ様は静かに見下ろした。


「……一度漏れた情報は、完全には取り消せませんよ。あなたの言葉を今すぐ信じることはできません。訂正と回収の結果を見てから、判断させていただきます」


 マリアンヌ様は即日の和解を保留し、身を翻して工房を出て行った。


 取り残されたセリアは、今にも泣き出しそうな顔をしていたが、すぐに「急いで回収の手配をしてきます」と言い残し、逃げるように外へ駆け出していった。手放しの全肯定で結びついた関係は終わり、私たちの間には初めて、仕事を通じた摩擦と責任がのしかかっていた。


 重い空気が漂う工房に、入れ替わるようにしてやって来たのは染色職人のノアだった。


 だが、彼が机の上に広げたのは、私が期待していた吉報ではなかった。


「……不合格です」


 ノアは低い声で言い、一枚の白い布切れを提示した。それは、《星雨の掛布》の上部十八センチの帯を濃藍で密に埋めるため、彼の手持ちの藍糸で行った簡易的な湿布試験の布だった。


 白い布には、青い染料がうっすらと移ってしまっていた。


「この試料は、予定していた洗い方では色移りを止められませんでした。この糸を密集させて使う図案のままでは、基準を満たせません。納期まで時間がない以上、安全を確保するためには、危険な濃い青の糸の使用量を大幅に減らすべきです」


 ノアは安全を最優先し、図案そのものの変更を提案してきた。


 だが、私にとってあの上部の帯を深い夜空の色で埋めることは、《星雨》という作品の美しさの核だった。夜空が薄っぺらな青になってしまえば、そこに浮かべる星まで頼りなく見えてしまう。


 私は、手元にあった糸札を取り、試験布の端に『十月十一日・不採用』と日付を書き込んでピンで留め、引き出しにしまった。


「……糸の使用量を減らせば、私の思い描く夜空にはなりません」


「しかし、お客様の服や壁紙を汚してしまえば、作品の価値はゼロになります」


「それは分かっています。ですが、私は、美しさを捨てるためにあなたに染めを頼んだわけではありません」


 私の冷たい声が、工房の空気を凍らせた。


 ノアは言い返そうとして口を開きかけたが、私の頑なな目を見て、ふっと小さく息を吐いた。


「……分かりました。今日はこれでお暇します」


 彼はそれ以上は何も言わず、持ってきた鞄を提げて工房を出て行った。二人の間に初めて生じた、仕事上の険悪な空気。彼が去った後の静寂が、やけに重く感じられた。


 すっかり日が落ちて、薄暗くなった工房。


 私は作業台の上のランプに火を灯し、先ほど引き出しにしまった不採用の試験布を取り出した。


 ランプのオレンジ色の光にかざすと、鮮やかな青が、うっすらと隣の白糸へにじんでいるのがはっきりと見えた。


 美しさと、安全。そのどちらも妥協できない職人の意地が、にじむ青の中で絡み合ってほどけない。明日は、私から彼の染色工房へ出向こう。近いうちに伺うと言った約束を、こんな形で果たすことになるとは思わなかった。この青をどうすれば布に留められるのか、答えを出さなければならなかった。

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