第13話『縫わない星の作り方』
以前の約束を果たし、私はノアの染色工房を訪れた。
十月十二日の朝。案内された工房の中庭には、少しツンとする独特の染料の匂いが漂い、朝日を浴びて幾筋もの藍色の糸や布が整然と干されていた。
作業台の前に立った私たちは、昨日私が『十月十一日・不採用』と書き込んだあの簡易試験布を広げた。
「定着の処理が甘かったわけではありません」
ノアは手元の分厚い検査帳を開き、私の目を真っ直ぐに見て言った。
「ですが、この濃さの藍糸を、予定の密度で刺した試料は、摩擦と水気で隣の白糸に色が移りました。この納期で、さらに濃い色の条件を探し続ける余裕はありません」
彼は失敗を隠すことも、取り繕うこともなかった。記録の数値とともに、ごまかしのない事実だけを突きつけてくる。昨日、私は彼と険悪な空気を漂わせてしまったが、今は彼がこうして限界を明言してくれるからこそ、私は安心して別の選択肢を模索できるのだと思い直していた。
「……分かりました。私が意地を張って、美しさのために安全を犠牲にするところでした」
私は大きく息を吐き、鞄から原図帳を取り出した。
「図案を、根本から変えます」
私は原図帳の白紙のページに、素早く新しいラフを描き込んだ。
「上部十八センチの帯という位置と寸法は維持します。ですが、濃藍で密に面を埋めるのはやめます」
鉛筆を走らせながら、ノアに説明する。
「その代わり、淡藍の細い流線を幾重にも重ねて、夜の気配を作ります。そしてその間に、地の生成り色を『刺さずに残した』一本の抜き線を走らせるんです」
ノアがラフを覗き込む。
「縫わない余白を……星の通り道として見せる、ということですか」
「はい。これなら、今回の試験で問題の出た濃藍の糸を減らし、淡い糸で確かめ直せます。針目の細かな線と始末に時間はかかりますが、私が三十六時間の枠内で必ず仕上げます」
ノアは少しの間ラフを見つめ、やがて視線を試験台の上の費用表に移した。
「……淡藍中心の新しい比率なら、手持ちの糸と試験記録を使えます。染色と乾燥を終えた淡藍を選び、新しい図案の密度で再試験をしましょう。十月十四日に結果を確かめ、基準を通ったものを納めます」
「費用の追加は?」
「当初の染色契約である二十四銀貨のままです。契約の条件は変えずに対応します」
ここで別の染色工房へ持ち込めば、条件の説明からやり直しになる。失敗の記録も見せてくれた彼と、最後まで確かめたかった。
図案の方向性が決まり、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
干し場に並び、再試験に使う手持ちの糸を分けながら、私たちは初めて、仕事以外の少し柔らかな声色で言葉を交わした。
「……昔、無理に濃い色を定着させようとして、釜を一つ駄目にしたことがあって」
不意に、ノアがぽつりとこぼした。
「それ以来、安全側に寄せすぎる癖がついたんです。昨日は、あなたの表現を頭ごなしに否定して、すみませんでした」
不器用な謝罪に、私は小さく首を振った。
「私の方こそ。危険を指摘して止めてくれる人が必要なのに、意地を張りました。でも、これで……」
私は干された藍色の糸の束を眩しそうに見上げた。
「縫わずに残す線で、夜空の深みを表現できます」
少しだけロマンチックな響きを込めてそう言った私に対し、ノアはすぐさま手元の帳簿を開いた。
「そうですね。淡藍の濃淡は三段階、洗濯の耐久条件は洗剤の濃度を変えて、指定した洗い方を繰り返し……」
あまりに色気のない、細かな試験条件を読み上げ始めた彼を見て、私は今度こそこらえきれずに声を上げて笑ってしまった。
「ふふっ、ノアさんは本当に、どこまでも真面目なんですね」
私が笑うと、ノアは少し目を丸くした後、つられたように微かに目元を和ませた。
*
昼前、工房へ戻った私は、変更見本を清書してアヴェリーヌ家へ届けた。マリアンヌ様は、濃藍の面を細い線に変える理由と、星の道の幅を確かめてから、承諾の署名をくださった。告知の件で笑い合えるほどには戻っていない。それでも、作品の話には向き合っていただけた。
工房へ帰り、署名の入った見本を原図帳に挟んだ。
技術的な独自性が生まれ、仕事の軌道がしっかりと修正された安堵。
だが、その平穏は、慌てた様子で飛び込んできたセリアによって打ち砕かれた。
「先生! 申し訳ありません!」
彼女は顔面を蒼白にさせ、息も絶え絶えに私の前に立った。
「さっき、私の鑑賞会員の一人が謝罪に来たんです。内輪だけのつもりだった一昨日のあの報告を……ロランに転送してしまったと!」
私は手にしていた針を取り落としそうになった。
「彼に、転送した……?」
「はい……っ、本当にごめんなさい! 私が安易に配ってしまったせいで!」
セリアは直ちに私へ報告の義務を果たしてくれた。だが、事態は最悪だ。ロランが『マリアンヌ様の名前』『返金経緯』『新作価格二百四十銀貨』という情報を、確実に手に入れた経路がここで確定してしまった。
「彼は今、組合から窓口の資格を停止されているはずです。表立って私の邪魔はできない」
私は動揺を隠すように、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……でも、あの男がこの情報を握って、何もせずに大人しくしているはずがない」
背筋に冷たいものが走る。彼が具体的にどう動くか、悪意の風評がどこまで広まっているかは、この時点ではまだ知る由もなかった。




