第8話『預けた額布を、取り返す』
組合の調停責任者であるオルガと両当事者が預託目録を読み合わせ、ロランの店で《山影の額布》の現物を広げた。
街の中心部にある、伯爵家の別棟を利用したロランの豪奢な店。普段は富裕層の客を招き入れるその場所に、今日は冷ややかな空気が満ちていた。
大きなマホガニーのテーブルを挟み、私と、証人として付き添ってくれたセリアが立つ。向かいには、苛立ちを隠そうともしないロラン。そして上座には、分厚い台帳を開いたオルガが感情の読めない顔で控えていた。
「白枝工房からの預託品目録、第七番。《山影の額布》、一点。販売価格七十五銀貨。……現物はこちらで相違ありませんか」
オルガの淡々とした声が響く。
テーブルの中央には、灰青の木立をあしらった私の刺繍が、立派な木製の額縁に収められた状態で置かれていた。販売委託品として彼に預けたままで、まだ売れていない品だ。
「待ってください。確かにそれは白枝の作品ですが、今すぐ渡すことはできません」
ロランは額縁の上に両手を置き、囲い込むようにして言った。
「近々、有力な顧客にこれを見せる展示の予定があるんです。それに、この立派な額装は僕が自費で手配したものだ。勝手に持っていかれては困ります」
彼は作品を保管しているという実務的な立場を人質に取り、返還を拒もうとしていた。だが、オルガは台帳から目を上げることもなく言い放った。
「ロラン・ベルティエ氏。あなたは現在、白枝工房の取次業務の暫定停止中です。この作品を新たに展示販売することは禁じられています」
「……っ、しかし、額縁は僕の所有物です!」
これ以上、無駄な時間を費やすつもりはなかった。
「なら、額縁はあなたの所有物としてここへ残していきます」
私は組合に提出した在庫目録と、私の署名が入った預託控えの写しをロランの前に滑らせた。
「委託している以上、布と図案の所有権は私にあります。代わりの額装費は私が自分で負担しますから、中身の布本体だけを今すぐ返してください」
私が冷徹に告げると、ロランは唇を噛み締め、忌々しげに額縁の裏板の留め金を外し始めた。
裏板が外され、ピンと張られていた《山影》の布地がふわりとテーブルの上に降ろされる。その裏面には、原図帳に記した修正指示と完全に一致する、細い木目を表現するために「一度ほどいて縫い直した痕」が克明に刻まれていた。
これこそが私の手仕事の証だ。だが、私は職人の技を魔法の鑑定のように振りかざすことはしない。ただ、預託記録と在庫目録という揺るぎない事務的な事実によって、布の返還を完了させた。
「ああ、やはり!」
額から外された《山影》の裏面を目の当たりにした途端、隣にいたセリアが甲高い声を上げた。
彼女はテーブルに身を乗り出し、興奮に頬を紅潮させている。
「この木目の裏側の始末、想像以上です! 表の霧の立体感を生み出すために、あえて裏の糸の張りを不均一にしているんですね!」
熱に浮かされたように語りながら、セリアが布の裏面にそっと指を伸ばしかけた。
「お嬢さん。確認中の証拠品に触らないでください」
すかさず、オルガの氷のような声が飛んだ。
「あ、すみません! でも、ここ、この結び目の角度が……!」
セリアは慌てて両手を後ろに組んだ。それでも視線だけは布から離れず、少しずつ首を傾けて別の角度から覗き込んでいる。
「……返還の確認が終わったら、近くで見てもよろしいですか」
オルガは私へ視線を向けた。私は小さく頷いた。
張り詰めた引き渡しの場で繰り広げられたそのやり取りに、私は思わず肩の力を抜き、小さく息を吐いて微笑んだ。自分の作品を無事に取り戻せた安堵感が、ようやく胸に広がっていく。
*
無事に《山影》を回収し、組合の立会いを終えて工房に戻ると、染色職人のノアが荷物を抱えてやって来た。
「リゼットさん。《雨燕の肩掛け》に使う糸です。染めと乾燥を終え、試験を通った糸だけを持ってきました」
彼はそう言って、三段階の藍の濃淡で染め上げられた美しい糸の束を机の上に置いた。
先日の見本だけで済ませず、納品する分も確かめてきたのだ。すべての工程を省かず、安全を確認したものだけを届けてくれる。
「ありがとうございます、ノアさん。これなら、すぐに刺繍に取りかかれます」
私は糸の束を受け取りながら、ふと、彼が日頃どんな環境でこの美しい色を生み出しているのかを知りたくなった。それに、これから濃い藍を使う仕事を受けるなら、よりシビアな藍色の管理が必要になる。
「あの、ノアさん」
帰り支度を始めた彼の背中に、私は初めて自分から声をかけた。
「一度、ノアさんの工房へ伺ってもいいですか? 実際の作業環境を拝見して、色落ちを防ぐための条件を、一緒に考えたいのです」
これまでは彼が私の工房へ足を運んでくれるばかりだった。私がそう申し出ると、ノアは少しだけ驚いたように目を丸くし、手元の荷物を持ち直した。
「……ええ。うちの干し場は少し匂いがきついですが、構わないなら」
「はい。近いうちに必ず伺います」
「……お待ちしています」
彼は静かに頷き、どこか足取りも軽く工房を後にした。
ノアを見送り、買ってきたばかりの新しい額縁に《山影》を収め直していると、表の戸が叩かれた。
配達人が差し出したのは、またしてもロランからの手紙だった。
『リゼットへ。婚約指輪の返還について話し合いたい。私物に関わることだから、セリアや組合の人間は入れず、こちらの応接室で二人だけで会って清算しよう』
文面を読み、私は冷めたため息をついた。
明後日には、組合での正式な審理が控えている。仕事の権利を失いつつある彼が、今度は婚約指輪という私的な関係の清算を口実にして、二人きりの状況を作ろうとしているのは明らかだった。
彼が何を企んでいようと、もはや私の心は揺らがない。私はロランへの返事を書くため、冷たいインク壺にペン先を浸した。




