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婚約者の浮気相手は、私の刺繍の大ファンでした  作者: 他力本願寺


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第6話『受けていない注文の、前金百二十枚』

照会の注文番号を白枝工房の受注帳で探すが、どこにも存在しなかった。


 何度ページをめくっても、インクで記された行を指でなぞっても、結果は同じだ。


 翌朝もう一度読み返した、アヴェリーヌ家からの問い合わせ状には、『星雨の大掛布、三百六十銀貨、十月二十四日納期』と記されていた。そんな大規模な注文、受けていれば絶対に忘れるはずがない。


 嫌な汗が背中を伝う。ロランは窓口権限を自称し、裏で一体どれだけの客と勝手な約束を交わしていたというのか。私は事態を正確に把握するため、アヴェリーヌ家へ宛てた返状のペンを急いで走らせた。


 だが、手紙を書き終えるより早く、工房の表の戸が荒々しく開け放たれた。


「手紙の返事など待っていられなくてよ!」


 豪奢なドレスの裾を揺らし、怒り心頭といった様子で踏み込んできたのは、依頼人であるマリアンヌ・アヴェリーヌ本人だった。


 彼女は私の作業台の前に立つなり、一枚の分厚い紙を叩きつけた。


「どういうことですか、リゼットさん! 先ほど取次人のロランへ催促の使いを出したら、彼はおかしなことを言うのです。『今は窓口業務を停止させられているから、工房に直接聞いてくれ』と!」


 私は叩きつけられた紙――注文の控えに目を落とした。


 そこには確かに、星雨の大掛布の仕様と、三百六十銀貨という代金が記されている。そして下部には、前金として百二十銀貨を受け取った旨のロランの署名と、組合の登録取次人章がしっかりと押されていた。


 しかし、一番肝心なものは欠けていた。


「……マリアンヌ様。この注文控えに、白枝工房主である私の承諾署名はありません」


「署名がない?」


 マリアンヌは目を吊り上げた。


「ロランはあなたの婚約者で、工房の窓口でしょう? 彼にお金を渡せば契約は成立したも同然ではありませんか! 私は二十四日の記念会で、客の目を奪うような白枝の大作をお披露目すると、もう各所に案内を配ってしまったのよ!」


 ヒステリックな声が工房に響く。


 自分の催事を成功させたいという彼女の焦りは理解できる。だが、物理的に不可能なことを引き受けるわけにはいかない。


「マリアンヌ様。客の目を奪うような大作を縫い上げるには、私が針先を見つめて目がかすむほど糸を数え、刺し続ける時間が必要です」


 私は真っ直ぐに彼女の目を見て、泥臭い職人の実務感覚で返した。


「この規模の掛布ですと、図案の決定から下地作り、刺繍の完了までに最低でもひと月はいただきます。あと十九日で仕上げるなど、どうやってもお約束できません」


 美しい社交辞令を期待していたのか、私のあまりに現実的な「目がかすむほど糸を数える」という言葉に、マリアンヌは一瞬ポカンと口を開け、毒気を抜かれたような顔をした。


「では、私がいま配っている案内はどうなるの! 払った百二十枚の銀貨は!」


「当工房はこの注文を承諾しておらず、制作の義務を負えません」


 私は冷たく突き放すのではなく、誠意を持って言葉を継いだ。


「ですが、登録取次人の印がある以上、組合の『顧客返金申立制度』が使えます。非会員のお客様でも、承諾されず納品もされない契約の前金は、組合を通じて取次人に返還を求めることができます。この控えと領収書を組合へお持ちください。当工房が承諾していないことは、私からも書面を出します」


 その時、組合へ出す資料を届けに来ていたセリアが、奥の部屋からたまらず出てきた。


「ひどい……あの男、こんな詐欺まで働いていたなんて! 先生、私たちについた嘘も話せば、皆さんに分かってもらえるのではありませんか!」


「待って、セリアさん」


 私は興奮する彼女を手で制した。


「彼があなたや私についた私生活の嘘と、この商取引の違反は別問題です。マリアンヌ様のお金を取り戻す手続きに、私たちの感情を混ぜてこじらせるべきではありません」


 私の言葉に、セリアはハッとして口をつぐみ、マリアンヌ様も注文控えを手元に戻した。「では、その書面をください」と求められ、私は事情を書き添えた。彼女はそれを受け取り、組合へ向かっていった。短期的に『白枝は注文をすっぽかした』という悪い口コミが広がるリスクはあるが、無理な無償納品で自分を安売りするよりは正しかった。


 嵐のような時間が過ぎ去り、私はどっと椅子に腰を下ろした。


「……また厄介なことになっているみたいですね」


 開け放たれた戸口から、藍染めの前掛けをしたノアが静かに入ってきた。ちょうど約束していた打ち合わせの時刻だった。今後の染色スケジュールの相談に来た彼に、私は今しがた起きたことを手短に説明した。


「三百六十銀貨規模の掛布を、十月二十四日納品?」


 ノアは呆れたように息を吐き、手元の帳簿をパラパラとめくった。


「その面積を埋める藍糸の染色と色止めだけで、天候が良くても一週間はかかります。乾燥の工程も省けない。今からそんな注文を受けるなど、物理的に完全に破綻していますよ」


 冷徹に数字と工程を並べ立てるノアの言葉。


 以前の私なら、「私なら徹夜してでも縫える」と頭ごなしに否定されたように感じ、挑戦心を傷つけられて反発していたかもしれない。


 しかし今は、彼の言葉が純粋に品質と安全を守るための基準であることを知っている。専門家としての妥当な拒絶を、私は敵意ではなく、自分の判断を裏付けてくれる頼もしい事実として受け止めることができた。


「ええ。だから、お断りしました」


 私が小さく微笑むと、ノアは少しだけ驚いたように瞬きをし、それから「正しい判断です」とだけ言って帳簿を閉じた。


 その日の午後、職人組合から使いの者が工房を訪れた。


 マリアンヌが返金を申し立てたことでロランに確認が入り、彼が組合へ反論書を提出したという知らせだった。


 使いの者が読み上げたその内容は、私の耳を疑うものだった。


『リゼットから口頭で承諾を得ていた。商売の素人である彼女が、勝手に期限を恐れて仕事を投げ出しただけだ』


 どこまでも自分の非を認めず、私に責任を押し付けようとするロラン。


 私は静かに目を伏せ、彼が張り巡らせた見え透いた嘘の糸を、一本残らずほどいてやる決意を固めた。

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