第5話『私の名前は、私が縫ったもの』
印刷前の広告に、私の工房とは違う名前が載っていた。
ギャラリーから届けられた小品委託展の校正紙。そこには、灰青の木立をあしらった私の《山影の額布》の図案が美しく刷り出されていた。だが、その下にある製作者の欄を見て、私は思わず赤鉛筆を握りしめた。
『ベルティエ工房監修/白枝の刺繍』
一見すれば、ロランのベルティエ工房が主導し、私がその下働きとして刺繍を担当したかのように読める。巧妙に私の屋号を混同させる悪質な表記だった。
十二日後に開催されるこの小品展は、ギャラリーが自費で主催する委託展示だ。月末にロランが個人名義で出展枠を確保しているという秋季工芸市とは、資金も企画も全く無関係である。彼は単に、このギャラリーへ《山影》の掲載を申し込んだ一介の仲介人に過ぎない。それなのに、さも自分が私の作品の権利者であるかのように振る舞い、読者の目に入る作者名を奪おうとしている。
私は迷うことなく、校正紙の誤表記に赤鉛筆で太く線を引いた。
その足で、私は街の目抜き通りにあるギャラリーへと向かった。
奥の事務所で対応に出た広告担当者は、私の申し出に困惑したように眉を寄せた。
「しかし、リゼット様。この表記は、作品を持ち込まれた仲介人のロラン氏から直接確認を受けたものです。印刷所へ回す直前の今になって、表記を覆されては困ります。ベルティエ工房の箔がつくからと……」
「箔など要りません。その表記は事実に反しています」
私は鞄から三つの書類を取り出し、担当者の前のデスクに並べた。
「これが職人組合に登録されている『白枝』の銘の写し。そしてこれが私の原図帳と預託の控え。最後に、こちらをご確認ください」
担当者の目が、赤い印の押された一枚の紙面で止まる。
「数日前、私は組合へ販売取次人である彼の権限逸脱を申し立て、暫定停止の措置を取りました。現在、彼は白枝工房の名でいかなる窓口行為も禁じられています。彼には私の作品を『監修』する権利などありません」
担当者は息を呑み、書類と私を交互に見た。組合の仮停止は不正を断定する判決ではないが、彼が窓口として機能していないことを証明するには十分だ。
「これは組合からの命令ではなく、ギャラリー様への直接のお願いです。私の責任のもと、表記の訂正をお願いします」
私が署名入りの書状を差し出すと、担当者は観念したように頷いた。
「……承知いたしました。広告は『製作者・問い合わせ先:白枝工房リゼット』に変更し、ロラン氏の名前は外しましょう。ただし、彼からの委託が白紙になる以上、作品の展示についてはどうなさいますか?」
「数日後、組合の立会いのもとで彼から《山影》の現物を返還してもらう予定です。返還後に私からお貸しする条件で、今日、展示貸与契約を結ばせてください」
「直接、ですね」
「はい。展示会の会場で売買契約は行わず、購入の問い合わせはすべて私の工房へ回してください。その代わり、展示の準備と当日の在廊は私が責任を持って引き受けます」
私と担当者は展示貸与の書面を交わした。ロランの出展費や彼が動かすお金には一切頼らない。当日の負担は確実に増えるが、自分の名前と作品を自分自身の手に取り戻すためには、安い代償だった。
ギャラリーでの交渉を終え、ほっと息をつきながら工房に戻ると、表の戸が静かに開いた。
「リゼットさん。昨日の試験結果を持ってきました」
染色職人のノアだった。彼の表情はいつも通り淡々としていたが、机の上に広げられた白い布を見て、私は思わず声を上げた。
「これは……」
布には、三段階の藍の濃淡で染め上げられた糸の束が置かれていた。最も濃い夜空のような藍から、雨上がりの空のような淡い青まで。
「湿布試験の結果です」ノアは短い言葉で告げた。「この見本では色移りはありません。納品する糸でも、同じ条件を確かめます。一番濃い色は点景に留め、淡い色を重ねてみてください。長く鳥が雨の中を飛べるように」
彼は誇ることも、自らの技術を恩に着せることもなかった。ただ、事実として最も安全で美しい結果だけを提示してくれたのだ。
「ありがとうございます。これで、お客様を悲しませずに済みます」
私が深々と頭を下げると、彼は「では、これで」と踵を返した。
自分の意見を押し付けることなく、仕事の成果だけを置いて去っていく彼の広い背中。引き戸に手をかけた彼を、私はもう一度呼び止めたいような、胸の奥が熱くなるような衝動を自覚した。
尊敬から、もう一歩踏み込んだ感情。だが、それを言葉にする前に、彼と入れ違いになるようにして工房へ飛び込んできた人影があった。
「先生! いらっしゃいますか!」
セリアだった。彼女は勢いよく飛び込んできたかと思うと、私の机の上にあった赤鉛筆の入った広告校正紙を見つけ、目を輝かせた。
「ああ、やはり! ギャラリーに行ってらしたんですね! 『製作者:白枝工房リゼット』……素晴らしいです! さすが白枝先生です、これでみんなに本当の作者が分かります!」
彼女は自分のことのように興奮し、両手を組んでうっとりと校正紙を眺め回している。
「ちょっと、セリアさん。声が大きいです」
「だって嬉しいじゃないですか! 彼を通さなくても、先生の作品はちゃんと評価されるんですから!」
そこへ、開け放たれた戸口から配達人の男が顔を覗かせた。
「白枝工房さん、お届け物……おや」
配達人は、息を弾ませて校正紙を拝み倒しているセリアと、それに困惑している私を交互に見比べた。
「お二人は、ずいぶん熱烈なご関係なんですねぇ」
変に勘ぐったような配達人の言葉に、私は慌てて否定しようとしたが、セリアが「ええ、私は先生の作品の大ファンですから!」と胸を張って答えてしまった。
配達人が目を丸くして荷物を置いて去っていくと、残された私たちはふと顔を見合わせた。
数日前まで、私たちは一人の不誠実な男を巡る恋敵だったはずだ。それが今や、一緒に広告の訂正を喜び、配達人に奇妙な誤解をされている。
あまりの状況のちぐはぐさに、私は思わず吹き出した。セリアもきょとんとした後、つられたように肩を揺らして笑い始めた。事件が起きてから、私たちが初めて自然に声を上げて笑い合った瞬間だった。
だが、職人として最初の小さな勝利と平穏を味わえたのは、ほんの束の間のことだった。
笑い声が収まり、セリアが帰った後の静かな工房。私は、先ほど配達人が置いていった立派な封筒を手に取った。
差出人の欄には、市内で名の知れた富裕層である『アヴェリーヌ家』の紋章が押されていた。嫌な胸騒ぎを覚えながら封蝋を割り、中の便箋を取り出す。
『白枝工房 リゼット様。先日お願いした《星雨の掛布》についてですが、二十四日の納品は予定通りでしょうか?』
私は便箋の文字を何度も読み返した。
二十四日。つまり、今日から数えて二十日後。
だが、何度思い返しても、そして慌てて開いた工房の受注帳のどこを探しても、アヴェリーヌ家から『星雨』などという注文を受けた記録は存在しなかった。




