第4話『嘘の手紙と、落ちる藍色』
同じ封蝋で閉じられた二通の手紙は、互いに逆のことを告げていた。
翌朝、私の工房を訪れたセリアと共に、作業台の上に二枚の便箋を並べた。
一方は私宛て。「セリアが君の偽の品を売り捌こうとしている」。
もう一方はセリア宛て。「リゼットが君を名誉毀損で訴えようとしている」。
どちらもロランの流麗な筆跡で綴られ、同じ赤い封蝋で閉じられていた。使者に確認したところ、送達時刻もほぼ同時刻だ。
「……私たちを争わせて、どちらも自分にすがらせようとしたんですね」
セリアが震える声でぽつりと言った。彼女の顔には、昨日までの戸惑いとは違う、はっきりとした怒りの色が浮かんでいた。
彼は私が名義を奪われた不安につけ込み、セリアには身分や好意を利用して「僕が守る」と恩を着せようとした。分断して孤立させれば、女は男の庇護を求めて言うことを聞く。そんな思い込みがあるのではないか。二枚の便箋を見比べるほど、そう思えてならなかった。
「彼の手口は分かりました。私たちは、これに乗る必要はありません」
私が手紙を端に除けたその時、表の扉が遠慮がちに叩かれた。
「リゼット、僕だ。入ってもいいかな」
聞こえてきたのは、渦中のロランの声だった。手紙の効果を確かめに来たのだろう。
私はセリアと目配せをし、彼女を作業台の奥に留めたまま、一人で入り口の扉を少しだけ開けた。
「何の用ですか」
「君を心配して来たんだ。手紙は読んだだろう? 彼女は白枝の銘を騙って悪事を働こうとしている。販売のことは僕に任せろ。君は今まで通り、奥で刺繍だけしていればいいんだ」
私の顔色を窺いながら、甘い声で囁くロラン。私は彼を、職人の神聖な領域である工房の土間には一歩も入れなかった。
「あなたの手紙なら読みましたよ」
私の背後から、静かだが凛とした声が響いた。
ロランが驚いて目を丸くする。薄暗い工房の奥から、セリアが姿を現した。
「セリア!? なぜ君がここに……いや、リゼットに無理やり連れてこられたのか? 僕が助けるから……」
「いいえ、自分の意思で伺いました」
セリアはロランの言葉を冷たく遮った。
「互い宛ての手紙も、二人で確認しました。あなたの嘘はもう結構です」
「嘘じゃない! 僕はただ、君たちを……!」
「あなたとは、もうお会いしません」
セリアは、彼との私的な交際の終了を、自分自身の口で明確に告げた。ロランの顔が屈辱と焦りで歪む。これ以上、彼がどちらかを取り込む余地はない。
「……後悔するぞ。僕が窓口を外れれば、二度と大きな注文なんて取れないからな!」
捨て台詞を吐き、ロランは足早に通りへと消えていった。
静寂が戻った工房で、セリアは小さく息を吐いた。彼女の肩が少しだけ震えていたが、その表情は晴れやかだった。決別を口にするまで、彼女も怖かったのだろう。私は何も尋ねず、水を一杯差し出した。
その直後、今度は迷いのない足取りで工房を訪れる影があった。
「リゼットさん、いますか」
藍染めの前掛けをした大柄な青年――染色職人のノアだった。昨日、私が藍糸の試験について伝言を残していた相手だ。
「ノアさん。先日は糸を届けていただいて……」
「挨拶は後でいいです。これを見てください」
ノアは手早く鞄から白い布切れを取り出し、机の上に広げた。
それは、仕立屋のエマから受けている《雨燕の肩掛け》のため、先日届けられた藍糸見本と同じ糸で試した布だった。湿らせて重ねた白い布には、うっすらと青い色がにじみ出ている。
「湿布試験の結果です。見た目はきれいに染まっていますが、洗濯で移ります。あの藍糸は、そのままでは使えません」
私は息を呑んだ。《雨燕の肩掛け》の納期は十月二十日、つまりあと二週間少ししかない。目の粗い布に糸を沈ませず、春雨を横切る紺の鳥を表現する。そのための特別な藍糸だった。
失敗を隠して納品を急がせ、「私が染めたのだから大丈夫だ」と言い張る職人はいくらでもいる。しかしノアは、自らの工房の利益や面子よりも、その糸が使われる最終的な品質を優先し、自らの手で色移りを暴露したのだ。
「……見た目が美しいだけで、お客様の服を汚すなら意味がありません。あの糸は使いません」
私は即座に決断した。納期は厳しいが、品質をごまかすことはできない。
「試験と修正をお願いします。追加の費用は……」
「要りません」ノアは即答した。「当初のお見積もり通り、通常の染色・色止め費の十八銀貨の範囲でやります。色止めというのは、水に流れてしまう約束を、布の中に落ち着かせる工程です。それを果たせていない以上、追加をいただく理由がない」
彼の淡々とした、しかし職人としての矜持に満ちた言葉に、私は強く心を打たれた。
「あの肩掛けは、春雨の風景を刺すんですよね」
ノアは私の受注書に目を落としながら言った。
「単一の濃い藍色だけで鳥を表現しようとするから、染料が定着しきらずに落ちる危険が増す。……三段階の藍の濃淡を使いませんか。最も濃い色は点景に留め、淡い色を重ねて鳥の輪郭を出せば、色移りのリスクを下げつつ、立体感を出せます」
「……三段階の濃淡」
「その青を、何年も残したいんでしょう。なら、安全な糸で刺すべきです」
彼の提案は、私の図案の表現を制限するものではなく、むしろ技術によって意図を深めようとするものだった。
私はノアの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。ロランが振りかざしたような虚飾の庇護ではなく、技術と事実だけで仕事の困難を分かち合える存在。
「ええ。その方法で、もう一度糸を作ってください。あなたにお任せします」
私が頷くと、ノアは小さく「すぐにやります」とだけ言って、足早に工房を後にした。去り際の彼の広い背中を、私は無意識のうちにもう一度呼び止めたいような、不思議な衝動を感じて見送った。
だが、安堵の余韻に浸る時間は長くは続かなかった。
ノアと入れ違いに、ギャラリーの使いの者が一枚の書類を届けてきたからだ。
それは、十三日後に開かれる小品委託展のために刷られる予定の、掲載広告の確認(校正紙)だった。
そこに刷られていたのは、私が昨日組合に現物の照合を依頼したばかりの《山影の額布》の案内。そしてその横に、嫌な予感の通り、見過ごせない文字が大きく印字されていた。
『ベルティエ工房監修/白枝の刺繍』
仮停止より前に彼が持ち込んだ表記が、まだ印刷されようとしている。止めたつもりで放っておけば、この名前で世に出てしまう。
私は届いたばかりの校正紙を強く握りしめ、赤鉛筆を手に取った。




