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婚約者の浮気相手は、私の刺繍の大ファンでした  作者: 他力本願寺


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第3話『その作品、裏側を見せてください』

『ベルティエ工房製』。セリアから預かった案内紙の文字が、翌朝も頭から離れなかった。


 作業台の上に広げたのは、彼女から預かってきた一枚の案内紙と、私の分厚い原図帳だ。案内紙に擦り出されているのは、細密な木立と、その間を漂う霧の風景。原図帳に描かれた線と照らし合わせるまでもない。それは間違いなく、私が一針一針縫い上げた《山影の額布》の図案だった。


 右下の余白に目を落とすと、昨夜読んだ『ベルティエ工房製』の文字が、やはりそこにあった。


 ロランの工房の名だ。


《山影》は、七十五銀貨の価格をつけて彼に販売委託品として預けてある。買い手がつけば彼に一割の手数料が渡るという契約だが、布と図案の所有権は依然として私にある。それを、彼はあろうことか白枝の銘を伏せ、自分の作品として客に売り捌こうとしていたのだ。


 恋愛における裏切りは、昨日私が叩きつけた婚約解消の通知で終わる。だが、仕事と名義の裏切りは、私の生計と職人としての存在そのものを否定する行為だ。


 静かな怒りが、指先から冷たく全身へと広がっていく。しかし、現物はロランが預かっており、私はその場で裏面を確認することもできない。彼が勝手に「売ったつもり」になっていようと、法的な所有権を主張するためには確実な証拠が必要だった。


 私はすぐにセリアに手紙を書き、指定の場所で落ち合った。


「お呼び立てして申し訳ありません」


 私が口火を切ると、彼女は緊張した面持ちで小さく首を振った。


「昨日お預かりした案内紙の件です。……あれは私の作品を、彼が自分の名義に偽ったものです。私はこの件を組合に訴え、現物の照合を求めます。そこで、あなたに一つお願いがあります」


 私が求めたのは、セリアが愛用している《冬灯の手袋》の購入時期に関する証言だった。九十六銀貨で彼女がそれを私から直接購入したのは、ロランが販売取次を始めるずっと前のことだ。


「証言は、好意とは切り離して考えてください。彼が昔から私の作品を監修していたわけではないという事実だけを、組合で明らかにするためです」


 私が釘を刺すと、セリアは不安げに目を伏せた。


「証言はします。白枝先生の作品が別の人の名義にされるなんて、絶対に許せません。……でも、彼との恋愛の顛末や、私の私生活まで人前で晒すのは嫌です」


「それで構いません。私が守りたいのは仕事の事実だけです。恋愛話の公開は求めません」


 私の明確な線引きに、彼女は安堵の吐息を漏らした。


「それにしても」


 張り詰めていた空気が緩んだ途端、セリアの瞳に特有の熱が宿り始めた。


「あの案内紙の図案、本当に信じられません! 印刷の線はのっぺりして平坦でしたが、実際の《山影の額布》は、もっとこう……霧の表現が立体的で、布の奥から浮き上がるような深みがあるはずです!」


 彼女は身を乗り出し、止まらなくなったように言葉を紡ぐ。


「《冬灯》も、手に取って裏返したら、表の印象とまるで違っていました。あれだけ枝が重なるのに、指に結び目が当たらないんです。この木立の裏はどうなっているのでしょう。ああ、ぜひ実物の裏側を見せていただきたいです!」


 私は呆気にとられ、思わず口を半開きにしてしまった。


「……裏側が、そんなに気になりますか?」


「ええ。表だけでは分からないことが、たくさんありますから。もちろん、《山影》はまだ見ていませんけれど」


 彼女の言葉に、私は自分の原図帳のページを思い返していた。確かにそこには、一度ほどいて修正した明確な指示が書き込まれている。


 ハッと我に返り、顔を赤らめる彼女を見て、私は不思議と心が軽くなるのを感じた。


「す、すみません。私、つい……」


「いいえ」私は彼女が手袋をそこまで見てくれていたことに、胸が温かくなった。「《山影》には、一度ほどいて縫い直したところがあるんです。原図帳にも指示が残っています。現物が戻ったら、確かめられますね」


「本当ですか!?」


 セリアは戸惑いながらも、オタク特有の隠しきれない喜びを顔いっぱいに広げていた。恋敵だったはずの女性との、初めての仕事上の共同作業。その皮肉な巡り合わせに、私は内心で少しだけ苦笑した。


 彼女の協力を得た私は、その足で職人組合の窓口へ向かった。


 原図帳の訂正跡が残るページの写し、工房の在庫目録、そして七十五銀貨の価格が記されたロランへの預託控えの写し。これらを揃え、組合の担当職員に提出し、ロランが保有しているはずの《山影の額布》の現物照合を正式に依頼した。


「現物と原図帳、そしてこの預託記録を照合すれば、所有権がどこにあるかは明白です」


 担当の職員は淡々と書類を受け取り、手続きを進めることを約束してくれた。


 工房への帰り道、私は染色職人ノアの工房の近くを通りがかり、そこの見習いの少年に伝言を託した。


「ノアさんに伝えてちょうだい。先日いただいた藍糸見本を《雨燕》に使う前に、明日にでも試験の相談をしたいと」


 美しい青だった。それでも、普段使いの肩掛けに刺す以上、洗った後の色まで確かめてから使いたい。


 工房に戻り、ミナに作業の指示を出していると、表の扉が慌ただしく叩かれた。


 配達人から手渡されたのは、赤い封蝋で閉じられた一通の手紙だった。差出人はロランだ。


 嫌な予感を覚えながら封を切ると、中には焦りに満ちた文面が並んでいた。


『リゼット、騙されてはいけない。セリアが君の偽の品を売り捌こうとしている。僕が必ず止めるから、君は何もせず僕に任せておきなさい』


 ……息を吐くのも馬鹿らしくなるような言い訳だ。


 すると今度は、セリアの使者が血相を変えて飛び込んできた。


「先生! お嬢様から至急のお手紙です!」


 受け取った手紙には、セリアの震えるような筆跡でこう書かれていた。


『先生、彼から手紙が来ました。「リゼットが君を名誉毀損で訴えようとしている。僕が君を守る」と。これはいったいどういうことですか?』


 私宛ての手紙と、セリアからの報告。それぞれの言葉を並べれば、彼が互いを警戒させようとしているのは明らかだった。


 彼は私たちを疑心暗鬼に陥らせ、分断して、再び自分に依存させようと足掻いているのだ。私は手元にあるロランからの手紙と、セリアが送ってきた文面を並べ、ただ冷たく視線を落とした。

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