第2話『恋敵に、婚約書を見せる日』
恋敵と向かい合うテーブルに、私は婚約書を置いた。
職人組合の喧騒から離れた、市内の静かな喫茶室。開店直後の人目に付かない奥の席で、向かいに座るセリア・オーベルの視線が、テーブルの上の羊皮紙に釘付けになっていた。
「これが、私とロランが交わした婚約書の原本です。少なくとも昨日まで、私たちの婚約は続いていました」
私は淡々と告げ、さらに二枚の紙をその横に並べた。
「そしてこちらが、ほんの十日前にロランと連名で発注した、結婚式の招待状と調度品の請求書です。彼が費用の半分を負担する同意の署名も入っています」
セリアの顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。
彼女の震える手が、テーブルの反対側に置かれた一通の手紙に伸びる。それは彼女が持参した、ロランから彼女宛てに送られた便箋だった。日付は今から約四十日前。そこにはロランの流麗な筆跡で、こう記されていた。
『以前の婚約は円満に解消した。僕の心は自由になり、今ようやく君の元へ向かうことができる』
「そんな……嘘、だったんですね」
セリアの大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
両手で顔を覆う彼女を見て、私の胸にも重苦しい痛みが走った。彼女もまた、ロランの甘い言葉に騙されていた被害者の一人だ。あの四十日前の手紙を受け取った時、彼女は彼が誠実な人間なのだと信じてしまったのだろう。
だが、だからといって「私たちは共に騙された友だちね」と手を取って慰め合うほど、私の心は割り切れていなかった。昨日、応接室で彼らが口づけを交わしていた光景は、まだ私の網膜に焼き付いている。
「一つだけ、教えてください」
私はティーカップには手を伸ばさず、静かに問いかけた。
「あなたは私の《冬灯の手袋》を持っていて、白枝の銘も知っていた。なぜ、作者である私の顔を知らなかったのですか?」
セリアはハンカチで目元を拭い、声を震わせながら答えた。
「手袋は、家の使いに受け取りを頼んだのです。お手紙と購入票は大切に持っていますが、お顔を拝見する機会がなくて。その後、彼が……私の小規模な工芸品の鑑賞会に、白枝工房の窓口だと名乗って近づいてきました。私は白枝先生の作品が大好きで、お会いしたいと何度もお願いしたんです。でも彼は、『作者は極度の人見知りで、絶対に人前には出ない。誰にも会わせられないと約束して取次を引き受けている』と……」
なるほど、辻褄が合う。ロランは私の職人としての性質を誇張し、セリアとの間に壁を作っていたのだ。白枝の窓口という特権的な立場を利用して彼女の興味を引き、作者本人には決して接触させないようコントロールしていた。
私は小さく息を吐いた。
「分かりました。お互いが聞いていた事実の違いは、これで明確になりましたね。……この婚約書と請求書、それからあなたの便箋、互いに写しを作って交換しませんか」
「写し、ですか?」
「ええ。あなたが私を陥れようとしていたわけではないと理解しました。ですが、私たちはまだ知り合ったばかりです。言葉だけでなく、相互に確認できる事実だけを手元に残しておきたいのです」
私の冷ややかな提案に、セリアは少し寂しそうな顔をしたが、やがて力強く頷いた。
私たちはその場で便箋と婚約書の写しを取り交わした。彼女は涙を拭い、私を安易に「友人」とは呼ばなかった。その距離感が、今はただありがたかった。
「……先生」
帰り際、立ち上がったセリアが鞄の中から一枚の印刷物を取り出し、テーブルの上に置いた。
「彼とのことは、私自身できちんと終わらせます。……これは、以前彼から渡された案内です。これも先生の作品ですか?」
彼女が指差した図案は、《山影》だった。
「ええ、私の作品です。お預かりしてもいいですか。今日は先に、彼へ通知を届けなければならないので」
セリアが頷いたのを確かめ、私は印刷物を鞄にしまって喫茶室を後にした。
*
工房に戻った私は、下地縫いをしている徒弟のミナに声をかけた。
「ミナ、少し付き合ってちょうだい。大事な書類を届けるのだけど、立会人が必要なの」
「はい、リゼットさん。どこへ行くんですか?」
「ロランのところよ」
私の硬い声に、十九歳のミナは空気を察して黙って立ち上がった。
街の中心部にある、ロランが仕事場として使っている伯爵家の別棟。私とミナが予告なしに訪れると、彼はひどく狼狽した顔で出迎えた。
「リゼット! 来てくれたのか。昨日は君もどうかしていたんだ。誤解は解ける、今ならまだ組合への申立ても取り下げられるし……」
「誤解ではありません。今日は、これをお渡しに来ました」
私は鞄から二通の分厚い封筒を取り出し、彼の胸元に突きつけた。
「一つは『婚約解消通知』。そしてもう一つは、『販売取次契約の解約通知』です」
ロランの顔が引きつった。
「ば、馬鹿なことを言うな! 僕が窓口を外れたら、君の工房なんかすぐに干上がるぞ! 富裕層の顧客を誰が紹介していると思ってる!」
「ええ、影響はあるでしょうね。ですが、私の名前と作品を好き勝手にされるよりはマシです」
私は感情を一切交えず、ただ事務的な手続きとして言葉を紡いだ。
「取次契約の解約は、この通知が到達した翌日から三十日間の予告期間が必要です。ですから、正式な契約終了は三十日後の終業時となります。ですが、昨日組合で仮停止の手続きを済ませましたので、あなたは昨日の受理時点から、白枝の名でいかなる窓口行為も新規受注もできません」
「リゼット、頼む、考え直してくれ! 結婚の準備だって進んでいるじゃないか!」
「結婚に関わる共同購入品や招待状のキャンセル費用については、記録と帳簿をすべて保管してあります。後日、清算の場を設けましょう。……さあ、ここに受領の署名を」
私はミナを前に出し、彼に有無を言わせず控えの書類にサインを求めた。「受け取ったことだけだ。君の言い分に同意したわけじゃない」
ロランはそう言い置き、羽根ペンを握った。私は頷いた。必要なのは、通知が届いたという記録だった。
二通の受領控えを鞄に収めた時、ようやく私の心から『彼に依存していた自分』が剥がれ落ちるのを感じた。顧客網を失うという恐怖よりも、自分の足で立ち上がったという確かな実感が、胸の奥を満たしていた。
*
工房へ戻り、ミナに労いの言葉をかけて作業に戻らせた後、私は一人で作業台の前に座った。
婚約を終わらせる意思は、もう揺らがなかった。それでも、結婚式の請求書をしまう手は少し震えた。信じていた時間まで、今日一日で片付くわけではない。
だが、安堵の息をつく暇はなかった。私は鞄から、今朝の喫茶室でセリアから渡された一枚の印刷物を取り出した。
それは、私がロランに販売を委託して預けていた《山影の額布》の案内紙だった。
灰青の木立と、あえて縫い残した霧。間違いなく、私の図案であり、私の手で縫い上げた作品だ。セリアは「これも先生の作品ですか?」と尋ねた。
案内紙の右下、作者名が記されるべき場所に視線を落とす。
そこには『白枝』の銘はなく、はっきりとしたインクでこう印字されていた。
『ベルティエ工房製』
私はゆっくりと目を閉じた。
彼がついていた嘘は、二股という私生活の裏切りだけではなかった。彼は私の作品の名義を奪い、自分の手柄として売り捌こうとしていたのだ。
これはもう、恋のいざこざではない。職人の誇りと、生計を懸けた戦いだ。
私は作業台の引き出しを開け、静かに《山影》の原図帳を取り出した。




