第1話『浮気相手が、私の針目を知っていた』
婚約者が口づけていた相手は、私ではなかった。
「……ずいぶん、お忙しそうね。ロラン」
私の静かな声が響いた瞬間、応接室の豪奢なソファに腰掛けていた二人の身体が、弾かれたように跳ね上がった。
九月最後の日。今日はただ、彼に預けてある私の作品《山影の額布》の伝票を取りに来ただけだった。来訪を取り次いでもらう間、少しだけ開いていた扉の隙間から見えた光景。あの《山影》は、霞の一本まで私が神経をすり減らして縫い上げたものだ。それなのに、目の前の光景からはどんな糸も抜けない。胸の奥が、乱暴に引きつれるような痛みを覚えた。
「リゼット、これは、その、違うんだ」
「言い訳は後で聞きます。まず、その方にお名前を伺わせて」
すがりつこうとするロランの言葉を冷たく遮り、私は彼に抱き寄せられていた赤褐色の髪の令嬢を見据えた。彼女は血の気を失い、蒼白になっている。だが、怯えたように私を見返した彼女の視線は、なぜか私の顔ではなく、腰元に提げた仕事道具の針袋でぴたりと止まった。
「……その模様。まさか」
彼女の震える指が、私の針袋を指差した。隅に刺繍された、三又の白い枝の意匠。
彼女の瞳に、怯えとは全く質の違う熱が灯る。
「白枝先生? 《冬灯の手袋》の、あの裏糸の始末を考えた方ですか?」
唐突な問いに、私は息を呑んだ。
彼女が両手に嵌めているのは、白絹に銀糸で細やかな枝と六角の灯りをあしらった手袋だった。確かにそれは、数年前に私の工房から直接販売した《冬灯の手袋》に違いない。
あんなに細い絹糸を、裏面にほとんど結び目を作らずに継いでいくのは至難の業だ。私の刺繍の裏側に隠された、誰にも見えないはずの職人の苦労。そんなことまで知っている人に、よりにもよって婚約者の浮気現場で出会うとは思わなかった。
「ええ。私が縫いました」
「ああ、やはり! ずっとお会いしたかったんです! あの見事な針目は……」
「……けれど、あなたがどんな方かは存じません。私はロランの婚約者です」
頬を紅潮させて身を乗り出してきた彼女の言葉を、私はあえて冷ややかな声音で切り捨てた。
自分の作品の熱烈なファンに出会えたことは、職人として純粋に嬉しい。だが、傷を負わされたばかりの心が、相手と和やかに笑い合うことなど許さなかった。
私の言葉を聞いた令嬢は、勢いよくロランを振り返った。
「婚約者? ロラン、あなたは以前の婚約はもうないと……」
「待ってくれ、セリア! 君にはちゃんと説明する!」
二人の間で認識が決定的に食い違っている。だが、焦りから顔を引きつらせたロランは、令嬢――セリアを宥めるのを諦め、矛先を私へと向けた。
「いいか、リゼット。ここで声を荒らげるな。客との話は僕が管理しているんだ。白枝工房の商談も任されている。今それを止めたら、困るのは君だぞ」
その瞬間、胸の痛みに重なるように、冷ややかな氷水のような危機感が全身を駆け巡った。
彼が販売の取次を担ってくれているのは事実だ。だが、私の工房の主は私であり、彼の下働きではない。彼が自分の保身のために工房の管理権を自称し、勝手に商談を進めるようなことがあれば、私の名前と作品そのものが取り返しのつかない危険に晒される。
男の不誠実さを嘆いている場合ではなかった。私は職人だ。自分の針目には、自分で責任を持たなければならない。
「……新しい注文を、絶対に私の名で受けないで」
はっきりと警告を残し、私は踵を返して応接室を出た。ロランが何か喚いていたが、振り返りもしなかった。
屋敷を飛び出した足で、私は職人組合の建物へと急いだ。
彼との販売取次契約は、一方の書面通知で解約できる。だが、相手に通知が到達した翌日から三十日間の予告期間を置かなければならない決まりだ。その間、彼が既存の窓口として注文書を預かってしまえば、私の承諾がないのに、客には注文が通ったと思わせてしまう。断った時に傷つくのは、私の工房の信用だ。
私は足早に歩きながら、針袋の内ポケットを探った。今日は《山影の額布》の伝票を照合するつもりだったため、工房の登録銘の写しと取次契約の控えを肌身離さず持っていた。
組合の窓口に滑り込むと、担当の職員に契約書控えと登録銘を提示した。
「取次人であるロラン・ベルティエが、工房主の承諾なく管理権限を自称し、不正な窓口行為を行う具体的な懸念があります。ただちに、当工房の取次業務の暫定停止を申し立てます」
早口で告げられた私の言葉に、職員は淡々と書類を確認し、私が聞いた言葉と時刻を申立書に記すよう求めた。ロランには通知とともに反論の機会が与えられ、正式な判断は双方の話を聞いてからになるという。彼との婚約解消や不貞の事実は、組合の裁定には関係ない。あくまで「商売上の権限逸脱の危険」だけを事務的に訴えた。
ほどなくして、受理の証である赤い仮停止印が押された控えが私の手に戻ってきた。これで彼は、今日この時間から白枝の名で広告を打つことも、新規の客を取ることもできない。
彼が繋いでいた富裕層の顧客網を失うことになる。工房の経営は傾くかもしれない。それでも、自分の名前を他人に握り潰されるよりはマシだった。
喧騒の残る大通りを抜け、私が小さな借り物の白枝工房へと帰り着いた頃には、すっかり日が傾いていた。
薄暗い作業場に火を灯すと、作業台の上に小さな包みが置かれていることに気がついた。私が直接頼んでいた、新しい作品のための藍色の糸見本だ。
包みに押された見知った印――染色職人ノアの工房のものだ。包みを開くと、深く静かな夜の空を思わせる、美しい青の濃淡が現れた。滑らかな糸の束にそっと指で触れると、張り詰めていた心がわずかにほどけるような気がした。
その時、表の戸が控えめに叩かれた。
扉を開けると、そこには見知らぬ使いの少年が立っていた。
「白枝工房のリゼット様ですね。セリア・オーベル様からの伝言です」
少年は一呼吸置いて、私を真っ直ぐに見て言った。
「『以前の婚約は解消したと書かれた手紙があります。明日、原本をお見せします』……とのことです」
私はゆっくりと頷き、少年を帰した。
ロランは私に「婚約している」と振る舞い、セリアには「婚約は解消した」と語っていた。あの男がどこまで嘘を重ねているのか、私と彼女が聞いていた事実を切り分ける必要がある。
静まり返った工房の中で、私は手元の藍糸をもう一度見つめ、明日の面会へ向けて静かに決意を固めた。




