第19話『星雨は、私の名で掛かる』
十月二十二日に刺繍を完了し、十月二十三日に最終の検品と梱包を済ませた《星雨の掛布》を、十月二十四日の朝、私はアヴェリーヌ家の催事会場の控室で開封した。
丁寧に畳まれた布を大きなテーブルの上に広げる。
縦九十センチ、横六十センチの生成り地の布。その上部十八センチの帯状の領域に、淡い藍の細い流線が幾重にも重なって夜空の気配を作っている。そしてその濃淡の間に、一本だけ『刺さずに残した生成りの線』が、星の通り道として白く光って見えた。
「……見事です。光の当たり具合で、星の道が浮かび上がって見えますね」
同席したセリアが、展示の配置と照明の角度を確認しながら感嘆の息を漏らした。
染色担当として搬入後の検品にも立ち会えるよう、ノアの同席はマリアンヌ様にお願いしてあった。その彼が、手元の検査記録と照合しながら、刺繍部分の藍糸を鋭い目つきで確認する。
「包みの白布にも色移りはありません。検品の記録どおりです」
そして最後に、私が布の裏面に走る糸の始末と、下地に傷がないかを点検する。昨日までに全てを終わらせてあるため、ここで焦って針を追加するような不格好な真似はしない。
三人の職分がそれぞれに確認を終え、私たちは静かに頷き合った。
《星雨》を会場のメインホールに飾り終えると、やがて着飾った招待客たちが徐々に集まり始めた。
だが、華やかな空気の中で、私は微かな不協和音を耳にした。
「まあ、素敵な刺繍。これもベルティエ氏のプロデュースなのね」
「ええ。彼が手塩にかけて育てた工房だと聞いていますわ。今は少しお休みされているようですが」
マリアンヌ様の催事には、以前ロランが流布した「ベルティエ工房監修」という誤った広告を見ていた客も混じっていたのだ。訂正通知の控えは組合を通じて私にも届いていたが、以前の話まで一度に消えるわけではないらしい。ロラン自身は資格停止中のためこの場にはいないが、私的な繋がりを利用して「白枝は僕が育てたようなものだ」と、自己弁護の噂を流していたらしい。
「先生! あんなふざけた噂、今すぐ私が訂正してきます!」
憤慨したセリアが踏み出そうとするのを、私は手で制した。
「待ってください。ここで他人の名前を挙げて騒ぎ立てるのは、マリアンヌ様の記念会に泥を塗ることになります」
私は小さく深呼吸をし、ざわめく客たちの前に自ら進み出た。
「皆様。本日はご覧いただき、ありがとうございます」
私の声に、客たちの視線が集まる。
「私が、白枝工房の主宰、リゼット・ヴァレンです。この《星雨の掛布》は、図案の設計から藍糸の選定、そして刺繍に至るまで、すべて当工房の責任で仕上げました。依頼主であるマリアンヌ様のご要望を直接お伺いし、この星の道を縫い上げることができたこと、心より誇りに思います」
私はロランの名前を出して彼を辱めるような演説はせず、ただ『私が作った』という事実と依頼経緯だけを短く、はっきりと説明した。
すると、マリアンヌ様が進み出て、私の言葉を継いだ。
「ええ。リゼットさんの細やかな仕事のおかげで、素晴らしい記念会になりました」
残金の百八十銀貨は、開場前の控室で受け取り、領収書を渡してある。今ここで伝えていただければ十分なのは、誰が依頼し、誰が作ったかということだった。
セリアも、事前にマリアンヌ様と私の書面許可を得ていた『白枝工房名義の案内』だけを、丁寧に客へ配って回った。
「なんて美しいんでしょう」
一人の貴婦人が、《星雨》の前に進み出てため息をついた。
「この星の道……あまりに立体的で、思わず手ですくいたくなるわ」
それは、最上級の社交辞令だった。
「ありがとうございます。ですが――」
私は、つい、いつもの職人の癖で真顔のまま応じてしまった。
「お手に取るなら、布の端の無地の方を。手の油や汗が移ると糸が傷みますので、針目には直接触れないでくださいね」
しんと、その場の空気が一瞬だけ止まった。
しまった、夢を壊すような泥臭い実務を口にしてしまった、と私が固まった瞬間。
「ふふっ。皆様、驚かれましたか?」
すかさずセリアが隣に立ち、柔らかく微笑んでその場を和ませた。
「先生は本当に、ご自身の縫い上げた作品を我が子のように大切にされているんです。職人の魂がこもっているからこそ、こうして長く美しさを保てるのですよ」
セリアのフォローに、貴婦人たちは「まあ、本当に職人気質なのね」「頼もしいこと」と、会場に軽い笑いが起きた。
その笑い声とともに、少なくとも目の前の客たちの話題は、ロランから作品そのものへ移っていった。
客の目は、純粋に《星雨》の美しさと、それを縫い上げた白枝工房に向けられていた。二件目の納品を無事に成功させ、私は自分の名前と社会的信用を、自分自身の手に取り戻したのだ。
ふと見ると、セリアが少し離れた場所で、誇らしげに《星雨》を眺めていた。同じ布を喜んで見られる彼女を、私はもはや単なるファンや元恋敵ではなく、信頼できる友人として心から受け入れていた。彼女もまた、自身の過去の軽率な判断の責任を抱えたまま、こうして立派に前を向いてくれている。
「……お疲れ様でした」
横から、低く落ち着いた声がした。
いつの間にか隣に立っていたノアが、人目につかないよう体の陰で、そっと大きな手を私に差し出していた。
私は彼を見上げ、ためらうことなく、その温かい手をしっかりと握り返した。
催事が無事に終わろうとしている時、客の対応を終えたセリアが、鞄から新しい書類の束を取り出して私に小走りで駆け寄ってきた。
「先生! これ、翌月の小さな共同展示会の企画書です! すぐにでも準備を始めましょう!」
意気揚々と語る彼女の熱量に押されながら、私はノアと顔を見合わせて苦笑した。
「セリアさん。その熱意は嬉しいですが……」
私は彼女の手から企画書を受け取り、わざと少しだけ渋い顔を作ってみせた。
「準備を進める前に、まず紹介契約の草案を見てくださいね。展示の分担と、案内を出す条件も決めましょう」




