第18話『あの人のためではない、私の完成品』
《雨燕の肩掛け》を洗い試験にかけ、最終検品を終えたうえで、私は仕立屋のエマの元へ納品に向かった。
十月二十日、納期当日。
エマの店の作業台に広げられた肩掛けは、目の粗い布の上に、三段階の濃淡の藍糸で表現された春雨と、そこを横切る紺の鳥が鮮やかに浮かび上がっていた。
「……」
エマは無言のまま、肩掛けの端を手に取り、神経質な手つきで何度も裏返しては表を確認した。先日彼女自身が耳にし、私に知らせてくれた『白枝の藍は色落ちする』という風評。それが彼女の心に、小さな疑念の種を植え付けているのは明らかだった。
一瞬、私の胸の奥に暗い炎がよぎった。
これを持ってロランの店に行き、彼の鼻先に突きつけてやりたい。あなたの流した嘘は無意味だったと、私の仕事の正しさを見せつけてやりたい。
だが、その感情は、エマがふっと肩の力を抜いて顔を上げた瞬間に綺麗に消え去った。
「……まあ、本当に色移りしていないわね。どこを見ても、にじみ一つない」
エマの顔に、心からの安堵と柔らかな笑みが広がった。
「これなら、娘も気を遣わずに普段使いできるわ。素晴らしい出来よ、リゼットさん」
その言葉を聞いて、私はハッとした。
この肩掛けは、ロランに復讐するための道具でも、彼への当てつけのための品でもない。昨日帰ってきたエマの娘の生活に入り込み、彼女の日常を彩るための実用品なのだ。私は、誰かのために自分の手を動かしたのだという、職人としての本来の喜びを深く実感した。
「ありがとうございます。ただ、濃い藍の糸を使っている以上、完璧ではありません。強い摩擦には気をつけて、水洗いの際は他のものと分けてください」
私は欠点がないように振る舞うのではなく、手入れの仕方を誠実に伝えた。エマは「分かっているわ。職人の仕事は魔法じゃないものね」と笑い、残金の百二十銀貨を私の手にしっかりと握らせてくれた。
無事に一件の受注を完遂し、晴れやかな気持ちで工房へ戻ると、配達人が届けた一通の手紙が置かれていた。
封蝋を見なくても、差出人は分かった。ロランだ。
中に入っていたのは、驚くほど厚顔無恥な『再契約の打診状』だった。
『一年後に僕の資格停止が明けたら、手数料を下げてでも再び君の取次に戻りたい。僕がいなければ、君一人では大口の顧客は掴めないはずだ。よく考えて返事をくれ』
文面を読み、私は鼻で笑う気すら起きなかった。
私はペンを取り、彼に対する私的な返事の手紙を……書かなかった。彼との個人的な対話は、すでに立会所で終わっている。
私は無言のまま、彼が忘れているであろう事実の書類を二枚、引き出しから取り出した。十月一日に送達した『販売取次契約の解約通知』の受領控えと、十月三十一日の終業時に旧契約が終了することと、再契約の意思はない旨を記した書面だ。私はそれを組合経由で送付する手続きを取った。
あなたが将来、資格を回復しようとしまいと関係ない。私との契約が復活することは二度とない。
私情を交えない、『再契約の意思なし』の通知。私は彼への経済的な依存の再開を、この事務処理をもって完全に拒絶した。
夕暮れ時。
工房を出て夕食の買い物に向かった私は、通りで染料の束を抱えたノアと鉢合わせた。
「買い付けの帰りですか」
「ええ。リゼットさんは?」
「……エマさんへの、《雨燕》の納品を終えてきたところです」
並んで歩き出すと、オレンジ色に染まる石畳の上に、二人の影が長く伸びた。
数日前、私が自分で引いた工程表に合わせて、彼が自分の書類処理の日程を調整してくれた日のことを思い出す。私の仕事の領域を守り、過剰な介入をせずに、ただ静かに寄り添ってくれた彼の誠実さ。
私は立ち止まり、ノアの方を向いた。
「ノアさん」
「はい」
「……私、あなたが取引先だから惹かれたわけじゃありません。誰かに守ってほしかったからでもない」
ロランの影が落とした怯えは、まだ少し残っていた。それでも、目の前の彼とは話し合えると思った。私は彼の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「あなたが、ご自身の失敗を隠さずに仕事を直し、私の決断を尊重してくれた。その姿を好きになりました。好きです。……仕事の話ではなく」
少し声が震えたが、最後まで言い切った。
ノアは目を見開き、抱えていた染料の束を落としそうになりながら慌てて抱え直した。普段の冷静な彼らしくない不器用な仕草に、思わず笑みがこぼれそうになる。
「……私もです」
ノアは深く息を吸い込み、逃げることなく私を見据えた。
「あの大きな《星雨》の注文を、無理のない寸法に引き直した日も。不採用になった試験布を、お客様の前に並べて事実を説明した日も。……逃げずに責任を引き受ける、あなたが好きです」
彼が口にしたのは、私が職人として泥臭くあがいていた、具体的な場面だった。彼は、傷ついた私を哀れんで『救済』しようとしたのではない。自分の足で立とうとする私を、対等な相手として認めてくれたのだ。
「お互いの店は、別々のままですよ」
私がふざけて言うと、ノアは微かに笑って頷いた。
「ええ。仕事は仕事ですから」
夕暮れの通りで、私たちは互いの独立を侵さないまま、静かに交際を成立させた。
穏やかな気持ちで工房へ戻り、再び作業台へ向かう。
十月二十四日の《星雨》の納期が、すぐそこまで迫っていた。生成りの抜き線を残しながら、その脇の細い流線を仕上げようと針を手に取った矢先、表の戸が勢いよく開いた。
「先生! 当日の完成展示の配置図を持ってきました!」
息を切らせたセリアが、図面の束を抱えて飛び込んできた。
新しい恋の始まりの余韻に浸る間もなく、次の仕事の総決算がすぐそこに迫っている。私は苦笑しながら、彼女の手から図面を受け取った。




