第17話『あなたとなら、失敗も隠さない』
十月十八日。二日前に私自身が組み直した二件の工程表どおりに、私とミナはそれぞれの持ち場で手を動かしていた。
《雨燕》のほつれは、十六日に大半をほどいた。昨日は《星雨》の刺繍を進め、今日は《雨燕》の布端を縫い直して仕上げる。ミナはその隣で、次に使う糸を分け、検品に使う白布を用意していた。
昼前、表の戸が開き、ノアが静かに入ってきた。
「納品書と請求書の控えをお持ちしました。先日お渡しした《星雨》の糸の分も、これにまとめてあります」
渡された請求書には、『染色・色止め一式 二十四銀貨』と記されている。十四日に合格した糸を二度に分けて受け取った、その全量分だった。追加の糸や請求ではない。
「確認は、手が空いた時で構いません。こちらから確認が必要な項目には、印をつけておきました」
工房の工程は私が決め、彼は自分の書類をその予定に合わせて持ってきてくれた。細かなやり取りで針を止めずに済むことが、今はありがたかった。
「……ありがとうございます。助かります」
私は小さく礼を言い、視線を再び手元の《雨燕》の布に落とした。
布端を縫い直すうち、まだほどいていない隣の数針にも、小さな引きつれが見つかった。
……迷いがあった。
上から数針を重ねれば、見た目はすぐに整う。予定より早く終われるかもしれない。けれど、洗った後にも同じように保てるだろうか。
私は糸を引き、裏面をもう一度確かめた。
「そこも、直すんですか」
書類をしまっていたノアが、私の手元を見て尋ねた。
「ええ。今は小さくても、洗うとまた引きつれそうです。少し、楽をしたくなりましたけど」
私は苦笑して、工程表へ目をやった。縫い直しの枠には、まだ時間がある。今日中に終えれば、明日の洗い試験と乾燥、最終検品にも間に合う。
「予定した分を、きちんと使います。早く終えるために休息を削って、また見落としては同じですから」
「分かりました。では、次の連絡は予定通り夕方に」
ノアは頷き、それ以上、縫い方にもミナの仕事にも口を挟まなかった。
私は不安な数針をほどき、布を張り直した。急いで隠すのではなく、直すために時間を残したのだ。二日前の自分の判断を、ここで無駄にはしたくなかった。
私が迷いを断ち切って作業を再開したのを見届け、ノアは帰り支度を始めた。
「……ノアさん」
「はい」
「今日は、書類を合わせてくださって、その……色々と、ありがとうございました」
私が少し照れくさく礼を言うと、ノアは鞄の持ち手を握ったまま、少しだけ不器用な仕草で視線を泳がせた。
「……次の季節も、あなたの糸を染めたいと思っています」
彼がぽつりと言ったその言葉は、単なる取引先への営業文句とは違う、確かな熱を帯びていた。
机の上の糸の束を整理しようとした彼の手が、私の手に触れる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
嬉しいという感情と同時に、ぞわりとした冷たい恐怖が足元から這い上がってくるのを感じて、私は思わずサッと手を引いてしまった。
――また、取引相手を好きになるの?
ロランのことが頭をよぎった。販売取次という仕事上のパートナーを恋人として頼り、その結果、名義も誇りも何もかも奪われそうになった。同じ失敗を、同じように工房に出入りする彼で繰り返してしまうのではないか。その怯えが、私を無意識に後ずさりさせた。
ノアは、私がなぜ一歩引いたのか、その理由までは分からないはずだ。
だが、彼は空気を読んでか、それ以上距離を詰めようとはしなかった。ただ静かに、先ほど提示した二十四銀貨の請求書を私の手元にスッと押しやった。
「支払いの期日は、通常通り月末で構いません」
私の気持ちを、どこまで察したのだろう。それでも彼は、染色契約の代金を値引きしたり、支払いをなあなあにしたりはしなかった。仕事と、個人的な気持ちを絶対に混同させない。
「……仕事は仕事です」
ノアは、私を安心させるように、はっきりとした声で区切った。
「会いたい気持ちは、また別に言います」
その誠実すぎる言葉に、私の胸に巣食っていた暗い怯えが、スッと薄れていくのを感じた。
彼はロランの代わりとして私を救済しようとしているのではない。ただ、一人の職人として、そして一人の男として、私と対等に向き合おうとしてくれているのだ。
「……はい」
私が小さく頷くと、ノアは微かに口元を緩め、工房を後にした。告白の言葉は、まだお互いの口から出ていない。今はそれでよかった。
彼が帰った直後、表の戸が叩かれ、仕立屋のエマからの伝書が届けられた。
『明日、肩掛けを受け取る娘が帰ってきます。とても楽しみにしていますわ』
短い文面だが、顧客の期待と、明後日に迫った納期の足音がはっきりと聞こえた。
私的な感情の揺れを一度心の奥にしまい込み、私は大きく深呼吸をした。そして、ミナが待つ作業台へと戻り、再びピンと張った布に向かって針を握り直した。




