第16話『切る糸と、切らない約束』
前日の夜に見つけた《雨燕の肩掛け》の下地のほつれを、十月十六日の朝に詳しく検分した結果、ミナが作業中の無理を隠していたことが分かった。
「……申し訳ありません、リゼットさん」
朝一番の静かな工房で、十九歳のミナは消え入るような声で謝罪した。
私の前に広げられた《雨燕》の布端には、明らかに糸の引きが甘く、張りが不均等になっている箇所があった。
「《星雨》の下地準備と並行していて、少し遅れが出てしまって……。私が急いでやらなきゃって、焦ってしまいました」
俯く彼女のつむじを見つめながら、私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
彼女が叱責を恐れて遅延の報告をためらったのは、彼女自身の怠慢ではない。工房主である私自身が、二件の大きな受注を「根性でどうにかする」と息巻いて、無理な進行を強いる空気を作っていたからだ。
私は《雨燕》の布から手を離し、ミナの肩にそっと触れた。
「ミナ。聞いてちょうだい」
ビクッと肩を震わせた彼女に、私はできるだけ穏やかな声で告げた。
「今日から、この工房に新しいルールを定めます。作業に遅れが出たことや、問題を発見したその日のうちに記録し、私に報告したことについては、絶対に叱りません」
「……え?」
「報告をためらって、最後に手遅れになることの方がずっと怖いの。だから、無理な時は無理だと、正直に言ってちょうだいね」
ミナは驚いたように顔を上げ、やがてじんわりと目に涙を浮かべて「はい……!」と深く頷いた。
彼女の恐怖を取り除いたところで、私は冷静に現状のスケジュールを洗い出した。
《雨燕》のほつれをほどいて縫い直すには、丸一日分の手間がかかる。それに加えて、下地を終えた《星雨》の刺繍も進めなければ、どちらの納期にも間に合わなくなる。
致命的なのは、今日、十月十六日の予定だった。
今日は、あのギャラリーが自費で主催する小品委託展の初日だ。私は先日彼らと直接交わした展示貸与契約に基づき、返還された《山影の額布》の展示に立ち会う、つまり在廊する約束になっていた。
だが、今からギャラリーに顔を出し、見栄えの良い服を着て客に愛想を振りまいている時間などない。工房の納期と、ミナの休息を削るわけにはいかない。
「ギャラリーには、私から使いを出すわ。本日の在廊を取りやめさせていただけないか、事情を書いてお願いしましょう」
「えっ、でも、せっかくの展示初日なのに……」
「構わないわ。《山影》の展示自体は予定通り実施されるし、受付はギャラリーの係の方が担ってくれる。購入の問い合わせがあれば、後日うちへ取り次いでもらう手はずになっているから」
この展示会は、ロランが自分名義で費用を流用した月末の秋季工芸市とは全く無関係だ。会場で直接の売上が発生するわけでもない。
担当者は、私が失う商談の機会を惜しみながらも、受付を引き受けてくれた。急な変更を詫び、後日あらためて客の照会に答える約束をした。目の前にある実仕事の完遂を優先する。自分で全てを完璧にこなそうとする驕りを捨て、私は作業台に向かって新しい白紙を広げた。
定規を当て、線を引く。
私が自らの手で組み直したのは、《雨燕》と《星雨》の二件の制作と休息の工程表だった。
《星雨》の下地は、予定の十時間をかけて十四日に終えている。ミナには糸分けと記録、仕上げの準備を任せ、《雨燕》のほつれの修正と刺繍は私が引き受ける。縫い直しに使う一日分の時間を今日と明後日に分け、《雨燕》の完成検品は十九日、《星雨》の刺繍完了は二十二日とした。《星雨》に確保した三十六時間も、在廊を取りやめて戻った時間を使えば守れる。一日の作業上限を決め、睡眠時間は削らなかった。
魔法のように短時間で縫い上がる都合のいい技術などない。一日分の手戻りは、一日分の時間をかけて誠実に直すしかないのだ。
工程表のインクが乾く頃、表の戸が開いてノアが工房を訪れた。
「おはようございます。……なんだか、ずいぶんスッキリした顔をしていますね」
私が迷いのない顔をしていたからだろうか、ノアは少し目を丸くして言った。彼が手の中の包みから取り出したのは、十月十四日の検査ですでに合格していた《星雨》用ロットの未引渡し分の藍糸だった。
新しく染め直した未検査の糸ではない。二十四銀貨の一括染色契約に含まれている残余分であり、これによる追加請求はない。
「ええ。先ほど、二件の工程表を組み直したところなんです」
私は彼に、書き上げたばかりの工程表を見せた。
ノアはそれを手に取り、じっと視線を這わせた。
「……無理のない、現実的な表ですね。睡眠時間も削られていない」
「はい。見栄を張って一人で抱え込むのはやめました。手戻りの時間はかかりますが、この表の通りに進めば、必ず両方とも間に合います」
ノアは「ふむ」と小さく頷いた。
私は彼の返事を待った。ノアは縫製の順番を変えようとはせず、自分の手帳を開いた。
「分かりました。では、私の方の納品書・請求書の発行日程も、この新しい表に合わせて調整しましょう」
彼は自身の業務範囲である書類処理の日程だけを、手帳にサラサラと書き込んだ。縫製にも、ミナの配置にも一切口出ししない。
工房主である私の決定権と責任を尊重し、手柄を奪うことなく、ただ自分の仕事を私の歩幅に合わせてくれたのだ。
「……ありがとうございます、ノアさん」
対等な職人として扱ってくれる彼のその誠実さに、私の胸の奥が温かくなるのを感じた。
「準備は整いましたね」
ノアは机の上に、未引渡しの《星雨》の糸の束とは別に、小さな包みをそっと置いた。それは、《雨燕》用として取り置きを頼んでいた、検査済みの予備糸だった。十八銀貨の見積もりに含まれている分だ。
「ええ。切るべき糸は切って、結び直します」
私は彼に向かって力強く頷き、布に刺さったほつれた糸へハサミを入れるため、静かに作業台へと向かった。




