(第十六章 還暦同志の同棲生活)
次の日起きたら、香しいコーヒーの香りと、バターと玉子の美味しそうな匂いがして松村は飛び起きた。小林が昨夜のワンピース姿でキッチンで朝食を作ってくれていた。「ごめんなさいね。昨夜は飲み過ぎたみたい。全然、記憶がないんだけど、私何かおかしなことしなかった?」と上目遣いで聞く。「それはそれは大虎振りはすごかった。酔うと人格変わるね」と、冷やかすと「本当?ごめんなさい。私、人前で、あんなに酔ったの初めてで、そんなにひどかった?恥ずかしい」と真っ赤になっている。「嘘嘘。冗談だよ。いきなり熟睡されて、連れて帰るのが大変だっただけで、かわいい顔をして何をされても起きないものだから、襲うわけにもいかず牙を抜かれたトラ状態だったよ。」と猫の真似をして笑わせた。「もう、意地悪。ずっと睡眠不足だったから、本当にごめんなさいね」と恐縮するばかり。「それより、美味しそう。腹減ったな。でも、冷蔵庫に、玉子なんて、あったかな?」と言うと、「朝早く、この周辺を散歩がてらウォッチングして来たの。便利なところね。美味しそうなパン屋さんや、コンビニやコーヒー店もあったから、買って来たの。コーヒーメーカーあったみたいだったから」と、入れたてのコーヒーをマグカップと湯飲みに入れてくれた。同棲していた彼女の食器は全て捨てたので、食器類は見事に一人分しかない。「ずっと、一人暮らしだったの?」と食器棚を横目で見ながら言う。「そうだね。訪ねて来る人もいないし、あまり物を持つのが嫌いなんだ。すっきり何も無いのが好きで、服なんかも、着ないと、すぐに捨ててしまう。断捨離なんて流行っていたけれど、元々無駄なものを置かないから、したくてもできなかったよ」と笑うと「私の部屋も本ばかりで何も無いの。女の子らしくないって、よく親にも呆れられていたわ」とくすりと笑った。「こんな部屋、好きだわ」と小林は目を細めてコーヒーを飲み干し、ほっと吐息を漏らした。ノーメイクなのに小林の顔は若々しく美しかった。思わず松村は見とれてしまっていた。「いやだわ。顔に何かついてる?」とドレッサーについている全身大の鏡をのぞく。後ろから松村は、その華奢な体を包み込むかのように優しく抱きしめた。そして、そのうなじに唇を当てた。「ダメ。シャワーも浴びていないもの」と体を回転させて松村の手を振りほどく。そして「たいへん。ホテルのチェックアウトしないと」と言ったかと思うとバッグを探し出して部屋から小鳥のように軽やかに出て行ってしまった。取り残された松村は、しばらく茫然としていたが、机の上に用意されていたパンとサラダとトマトのオムレツを認めて席に着く。両手を合わせて「いただきます」と言って、あっという間に平らげて、台所でお皿を洗った。一人暮らしが長いせいか、食べたらすぐに洗い物をしないと落ち着かない。しばらくは小林がいたことなど忘れたかのようにテレビをつけて、ぼんやり眺めていたが、そのうち睡魔に襲われ眠ってしまったようだ。小林の寝顔を見、その寝息を聞きながらまどろんだのは朝の四時くらいだったろうか?そして、ちょうど深い眠りに落ちた時に起こされ朝食を食べた。一人暮らしなら睡眠を妨げられることもない。それでも、なぜか嫌ではなかった。それどころか。優しい気持ちがほとばしり、この突然の訪問者が嬉しくもあり心地良くもあった。松村は夢を見ていた。台所には新妻が自分のために一生懸命食事を作ってくれていた。「何か食べたいものある?」と彼女は聞いた。「君が作るものなら何でもいいよ。何を作っても美味しいからね」と答える。「ビール私もいただいていいかしら?」と彼女は聞く。「いいとも、今日は二人の記念日なんだから。そうだ、ボルドーのいいワインがある。口に合うかどうかはわからないけど」と。コルクを開けてグラスに注ぎ込む。「あら、私ワインの味なんて、わからないわ。でも嬉しい。あの時、海を眺めながら私だけいただいて悪いと思っていたの。あなたは、わたしの海。ずっと、こうして包まれていたい」と言う彼女は裸で、松村の上に抱き着いてきた。幸せな夢だった。目が覚めてもニヤケている自分が可笑しかった。シャワーに入って、着替えていると、ふいにドアが開いてビックリし過ぎて大きな声を出してしまった。そこには、小林の赤面した顔があった。「ごめんなさい。お着換えしてたなんて知らなかったから」とドアが閉まる。下半身丸出しの自分の姿に当惑して、しばらく洗面台の前でたじろいでいた。「カギがかかってなかったから。ごめんなさい」と小林が赤面していた。「ホテルのチェックアウトして来たの?」と聞くと「ええ。私、本当は一人でホテルに泊まるの怖いの。だから、昨夜も、一人ぼっちになるのが嫌で、飲みすぎちゃったの。ねえ、お願いがあるの。そこのソファでいいから、泊めていただけないかしら?何もしないから」と両手を合わせて懇願する。「何もしないって?何かして欲しいけど」と笑う。「いいよ、ベッド使ってもらって。僕は、いつもソファでテレビ見ながら寝てるんだから、気にしないで使ってよ」と言うと「本当にいいの?松村君なら、そう言ってくれると思った。エステサロンと会社なんだけど、中目黒とか、渋谷なんて、どうかしら?東横線沿線がいいわよね。ここから通いやすいし」と話を進めてくる。「高いよ」と言うと、「安い場所にエステを受けたいって言うセレブはいるの?」と聞かれて困惑する。「自由が丘とか田園調布もいいけど、物件は行ってみないとわからないから。さっそく、代官山におしゃれなフレンチ見つけたから、これからランチ付き合ってよ」と言う。ユニクロの部屋着だった松村は、あわてて着替えようとする。「フレンチって、格式ばった所なのか?」と聞いた。「ランチだから、正装でなくてもいいけれど、そうねえ。昨日買ったデザイナーブランドでいいんじゃない?」と言った。「ついでに、お洋服も買いに行きましょう。ホテル代浮いた分で、二、三着は買えるから」と笑った。しゃれた代官山のレストランでの食事。お肉料理が選べるプチコースだったが、鹿肉も、ほろほろ鳥の料理も美味しいけれど食べたことのない食感や味に戸惑い、美味しいのかどうかも計り知れなかった。きれいな町並み、小物やかわいいブティックが連なる若い女性たちが喜びそうな店が多かった。「東京って、何もかも大きくて、ひと駅違うだけで町並みが全然違う不思議なところね。東京見物するだけで、何日あっても足りないくらいだわ」と小林は大はしゃぎだ。新宿や渋谷ひとつ取っても様々な表情を持っている。原宿から渋谷には十代から三十代までの若者が集まる。安くて個性的なブランドが多いからだ。もちろん、表参道には有名ブランドのお店が連なる。原宿から青山通りを経て渋谷に向かう途中には、斬新でアーティスティックな店が多い。劇場もあるし、文化芸術好きな若者たちは、自分らしいハイレベル高品質の服やグッズを探して町を彷徨う。おしゃれなカフェやカットハウス、雑貨やインテリアに食器類などなど。気が付けば、手に抱えきれないくらいの買い物をしていた。小林の購買意欲のエネルギーには畏れ入った。まるで宝探しをするかのように、目をキラキラ輝かせながら鼻息高く爆買いしていた。新丸子のマンションまでは、そういうことでタクシーで帰る羽目になった。部屋に積まれた買い物袋の山。それを一瞥して一息をつく。とにかく横になりたかった。足は棒のようになっていた。万歩計を見ると二万歩もカウントされていた。どうりで疲れるはずだった。それでも、しばらく休むと松村は自分の服や靴などを几帳面に、あるべき場所に綺麗に片付けしまい直していた。その様子を見て「松村君は頭がいいのね。空間を上手く使って無駄なく収納するなんて、才能あるわ」とおだてる。そして、不器用に箱から出してはしまうことのできない小林を見かねて松村が収納場所を作ってくれた。あっというまに、あれほど占めていた買い物袋が綺麗にたたまれて元通りの空間になった。ただ、食器棚には、色鮮やかなデザインの食器類が、ひしめき合ってでにぎわっていた。その夜の食事が豪華に見えたのも、高級なワインやシャンパンのせいだけではなく、アーティスティックな食器たちが奏でる空間美のせいかもしれないと慎吾は思った。テーブルクロスも、新たなカーテンも、小林のセンスの良さを物語っていた。買ってきた生ハムやチーズや貝柱のパテやサラダに、シャケとだし巻き玉子と豚汁や納豆などの和食のミスマッチも不思議と違和感がない。シャンパンで二人の同棲を祝い、ワインとチーズでほろ酔い気分になっている小林と、白ご飯を(うまい」とお替りしている松村がいる。それぞれが、好きなものを好きなようにいただく。お互い、そんな相手を認めて愛おしく思っている。若い時なら、ありえない安らかなくつろげる空間だった。ゆっくりと時間が流れる。グラスが空になる前になみなみと注がれるワイン。けだるそうに濡れた唇、酔ってなまめかしい瞳はうるんでいる。「なんだか夢みたい」と小林が囁く。「私、ずっと松村君を待っていたような気がするの。どんな男性に言い寄られても、好きになれなかった。何か忘れ物をしていたような不思議な感覚。あぁ、あの時の恋心を、さの公園に忘れていたんだって、今気がついた。ねえ、あの空を覚えている?綺麗だった。色がオレンジやピンクから紫色に変わる。あの空と雲が見せてくれた大パノラマ。今、人生にも、たそがれ時のドラマチックな映像が繰り広げられるのかしら?」と言った途端、小林は崩れるようにグラスを持ったまま机に突っ伏して目を閉じた。松村は、そっと彼女の白い指からワインの入ったグラスを抜き取って、お姫様だっこをしてベッドに運んで行った。柔らかくて軽々と持ち上げることができた。黄色に幾何学模様のワンピースの首元のリボンと一番上のボタンがきつそうなので外してあげた。ダイニングに戻ると、飲みかけのグラスにあるワインを飲み干して、コルクをして冷蔵庫に入れる。つまみはほぼ無くなっていた。サラミ一枚残っていたものを口に放り込み、手慣れた手つきであっという間に片付ける。一人の時は、片付けるのが面倒なので、ワンプレートかコンビニの容器に入ったままの弁当類しか食べない。いつのことだったろう。こんなにちゃんとした食事を家で食べるのは?




