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(第十四章 大変身して人生も大きく動き出す)

3月の桜の蕾が膨らみ始めた頃、東京オフィスの下見に小林が来るという連絡があった。物件近くの駅で待ち合わせをしていた。「松村君」と呼ばれて振り向いて驚いた。なんと小林は見違えるほど細く綺麗になっていた。昔と変わらない位、と言うのは言い過ぎかも知れないが、以前会った時より艶やかに二十歳は若返っていた。言葉を失って茫然としている信吾の腕を取り、「ランチでも行って打ち合わせでもしましょう」とぐいぐい引っ張って行かれたのは、青山にあるフレンチレストランだった。メインストリートから外れたところにある隠れ家的なお店で、知らなければ入りにくそうな看板にメニューも値段も書いていない品のあるお店だった。入ると、顔を見ただけで「お待ちしておりました」と窓際の席に通された。店内は落ち着いたセンスの良い調度品で、来ている客もセレブな感じだった。店内は結構いっぱいなのに、隣の席との間の空間を充分取っているせいか、個室にいるかのように落ち着けた。席に着くと、お好きなメインを一つ選ぶようになっており、小林は牛スネ肉の赤ワイン煮込みを、信吾には牛フィレステーキのフォアグラ乗せを頼んでくれた。恥ずかしながら、信吾はフォアグラを食べたことがない。所詮、鳥の肝と同じようなものだと思っていたのだが、口に入れて驚いた。周囲はカリッと炭火で焼いているのに、中はレアで甘くてとろけるようだった。ワインの銘柄もよくわからないが、いつも飲んでいるものとはコクも香りも別物だった。「父に連れられて、よく来ていたお店なの。ランチはフレンチの王道みたいなお料理だけど、夜は旬の魚や野菜を使った芸術品とも言えるもので、数か月前から予約していてもなかなか取れないの。ランチも3ヶ月待ちで、どうにか予約できたの。でも、男性ってフレンチが苦手な人が多くて、社員などは肩苦しいのは嫌だと、飲み屋ばかり連れて行かれるの」と小林が言って、思わず佐竹の顔が目に浮かんだ。「いや、珍しいものを食べさせてくれて、寿命が何年も伸びた気がするよ」と言うと、「やっぱり還暦だと会話がおじいちゃん臭くなるわね」と爆笑した。デザートの盛り合わせは圧巻だった。小林は目を輝かせて「これこれ、これが食べたかったのよ」と言って、手作りのジェラードやガトーショコラやチーズケーキ、果物の載ったタルトなどを美味しそうに食べていた。「神戸はパンとケーキは美味しいことで有名だけど、ここのお店のスイーツも最高なのよ。夜は、デザートのワゴンが運ばれてきて好きなデザートを好きなだけいただくことができるの。子供の頃は、それが楽しみで、お料理なんて興味がなかったから、いつも父にデザート食べ放題に連れて行ってとせがんでいたのよ」と目を細めて微笑した。その顔が、あまりに天真爛漫で一瞬小さな子供のように見えた。料理というのは、思い出と重なり合って、より美味しく感じるものだと有名シェフが言っていたのを思い出した。愛され大切に育てられた幸せな時間の象徴が、このデザートの盛り合わせなのかもしれないと思った。幼い小林と亡き両親との一番幸せだった時間を思い出しながら、幸せそうにお喋りしている小林に、年甲斐もなく淡い恋心を感じていた。「この時間が永遠に続けばいいのに」と思っていた。

「ところで、松村君は会社の資料は目を通してくれたのかしら?」いきなり仕事モードの話になると、小林の顔はキリッと引き締まる。コーヒーのおかわりを注文し、書類を出して打ち合わせをする。「これからの日本はインバウンド製品の開発とPRが必要だと思うの。これだけ英語教育をしているのに、ほとんどの日本人は喋れない、読めない、コミュニケーションが図れない。相手の文化や歴史にも現在の状況にも無頓着。これだけ翻訳アプリが発達しているにかかわらず。本当の国際人は数人しかいないから。今こそ私が海外で育てて来た人脈が役に立つと思うの」と言った。書類を見ながら、この才女が考え夢見ていることに、ついて行けるのか?自信が無かった。英語は苦手だし、アメリカに行ったことはあるが、散々な結果だった。友人達も、「海外に行く度に、日本が好きになる」と言っていた。命の危険はないし、人は優しいし、食べ物は美味しい。蛇口をひねって飲むことができる水がふんだんに出てくる国がどれだけあるだろう?電気もガスもネットも通信も、トラブルが滅多にない国が他にあるだろうか?人権が守られ、生活保護や障害者や老人が安心して暮らせる国が、どれだけあるだろうか?石油産出国や共産圏に憧れる人がいるが、実際行くと、その過酷な自然に舌を巻く。【隣の芝は良く見える】という言葉もあるが、他国を羨むなら、そちらに居を移せばいいと思う。シンガポールは相続税がないからと移住している金持ちが多いそうだが。シンガポールは死ぬと相続させてくれないのだから、相続税そのものがないと聞いたことがある。行ってみなければ、やってみなければわからないことだらけなのに。行きもしないで、自国を非難ばかりしている不幸な国民の何と多いことか。などと、頭であれこれ考えていると、小林が「海外に暮らしていると、よく日本の文化について聞かれるのよ。なのに、自国の歴史や、文化について何も知らないことに気付くわけ。ピアノは弾けても三味線やお琴は触れたこともない。オペラやミュージカルは観に行ったことはあるのに、歌舞伎や能を観たことがない。松村君はどう?」そんな高尚なもの、全部体験したことのないのも恥ずかしかったけれど「ピアノもオペラも行ったことがないので、わからない」と応えるしかなかった。「男性は、小さい頃ヤマハオルガンに行かされたりするけれど、小学生になると勉強や受験で文化どころじゃなくなるものね。じゃあスポーツでもいいわ。サッカーや野球には関心があるし、やったことがある子も多いと思うけど、剣道や柔道などは授業で少しやるだけ。武道の精神なんて学びたいと思ったことある?」「そうだね。授業でやると嫌いになった。勉強もね。」「全部、受け身だからよ。次から次へと興味もないのに与えられると、もういらない。ほら、満腹の時に、どれだけご馳走を出されても食べられないでしょ。日本は豊かになって飢餓状態で日本を成長させてきた方々に甘やかされ過ぎてブロイラー状態なのよ。それが、海外に行って、少々不自由な思いをしたら、自ら食べる意欲が出て来て、逞しくなる。だから、アメリカで生活すると成長できる。若い頃に行くと考え方が違うし、多民族だから価値観も言葉も習慣も違い過ぎるか、色々な刺激を受けることができるのよね。いわゆる触媒になるので、心の成長にもってこいなわけ」と文化論から教育論まで、小林の知識はとめどもない。鎖国された日本でチョンマゲを結っている時代遅れの人のように、まだ見ぬ大陸に思いを馳せているような錯覚に陥っていた。「それはさておき、これからオリンピックや大阪万博が決まって、観光大国日本を政府も目指しているわけ。だから、いくら娯楽が出来てもダメなの。これからは、日本の美意識やこだわり、伝統に裏付けされた本格的な超一流なものを世界のお金持ちが求めて来日して来るのよ。まずは食ね。四季折々、これほど豊かな自然の恵みを芸術的な味にした日本の食文化は他に類を見ないもの。【和牛】みたいに、世界で有名なブランドになっているものも既にあるけれど。そんなものじゃない。初めての味に、これから世界は魅了される筈よ」信吾は深く頷いていた。いつの間にか、その話にワクワクしていた。日本人に生まれて、そんな芸術的な食事はしたことはないが、普通に食しているラーメンだって、そのこだわりは半端じゃない。様々な味覚を取り入れ、スープだけでも何日もかけ独自のインパクトのある味を創作する執念はテレビでもよく報道されている。生産者たちも有機野菜や水耕栽培、最近では災害に備えビルの中でも野菜を育てるテクノロジーが発達している。農村も、無農薬や土にこだわって手間のかかる昔ながらの野菜作りに奮闘している。

「とにかく、努力と誠実さでは他に類を見ない国民性。それはそれは気の遠くなるような地道な努力と日々の精進の賜物が、世界一の農作物を創り出している。それがジャパンプライドなのよ。世界に誇る日本人魂が、どんな産業においても他国との差別化になるの」と、熱弁を振るう。「食の次に注目産業は伝統文化・伝統工芸かしら。国内では衰退しているけれど、海外では注目されているのよ。着物も漆も細やかな細工を施したものも、日本人の器用な手作業で師匠から長年受け継がれた日本の美意識は他の国が真似することのできない文化遺産。世界の金持ちは、それを買い漁っているのよ。日本人気もあってコレクションは美術館や博物館も作れば儲かるし。でも、伝統文化の世界は古いしきたりや心という変わりやすいものを大切にしているので、ビジネスラインに乗せるには、かなり実力のあるプロデューサーが現れないとまだまだ難しいけれど」と顔を曇らせる。「そして、ロボットや人工知能の発達や進歩は見逃せないわね。特に介護ロボットは日本が断然進んでいるので、大阪エキスポの目玉になることは間違いないと思う。自動運転も世界中で、その技術を競っているけど、空飛ぶ車も、エキスポの目玉になるみたい。でも、ここはわが社とは縁遠いので、気にしなくていいわ」数枚のレポート用紙をパラパラとめくりながら、「日本は長寿国になっていて、百歳時代が到来すると言われているけれど、多分ここ20年以内には、老人の人口も減り、落ち着くと思うのだけど。しばらくは、幹細胞や若返りビジネスはブームを迎えると思う。何と言っても団塊の世代が人口が圧倒的に多いので、様々なブームを創って来たのだから。そして、その子供たち世代も、アトピーや花粉症などのアレルギーに苦しみ、高度成長期の大量生産や化学薬品のツケの被害に、様々な健康法が花盛りなのよ。医療費がゼロなのをいいことに薬をむやみに使って、薬害も半端ではないし。この健康産業は、これからまだまだ需要が多いと思うの。私も体験したリンパダイエットも、日本の古くからの知恵を駆使した世界に類を見ない唯一の物だし。医者も看護師も薬剤師も治せないし、知らないリンパの役に脚光を当てた凄い技術。たった1ヶ月余りでこのスリムな体。皮膚も若返り、健康になってダイエットの常識をくつがえしてくれたのよ。薬事法や今までの医学の常識を超えたのだから、様々な邪魔も入るかもしれないけど、たくさんの悩んでいる人を助けることができると思うから、別会社にしたり、アンテナショップとしての軽いジョブとしても、やってみたいと思っているのよ」と口早に言って時計を見た。「大変。こんな時間。ごめんなさいね。ランチタイムが終わっているわ」と急いで書類を片付けて、誰もいないお店を出た。「川口にエステしてもらったの?凄いね。本当に綺麗になって若返って、ビックリしていたんだ。川口さんの変わりようにも驚いたけれど、どこかで整形でもしているのだと疑っていたんだけど」「そう、私もよ」腰に手を回すと、キュッと絞まったウエストは無駄なたるみは微塵もなく、若々しい弾力もあって、とても60歳の体とは思えなかった。数か月前に触れたウエストには厚い肉なのかセルライトなのかわからないが、ぶ厚い老化したたるんだ皮膚の感覚があった。コートを着る前に、確かめるように触らせてもらったウエストは、見事にくびれていた。一目でわかる美しいビーナスラインに、男なら誰でも胸がときめくだろう。

外に出ると木漏れ陽が暖かい風を運んで来た気がした。小鳥のさえずり、東京にいるのを忘れてしまいそうな小さな庭には名も知らぬ花々が植えられていて、ちょっとしたロンドンの街並みのような洗練された雰囲気だった。「東京って関西に比べ、緑があちこちに施されて気持ちいいわね」「青山学院も近くにあるので、お洒落な店が多いとは思っていたけれど、こうやって行くのは初めて。フレンチもね。あんなに美味しいものだとは思ったことなかったからビックリした」と言う信吾に微笑みながら、東京グルメを互いに言い合う。ひとつとして同じ店名が出て来ない。「これは東京生活が楽しくなりそう」と小林が喜んでいる。そこへ、不動産会社の車が到着した。中から腰の低い40代の女性が出て来て後ろのドアを開けた。女性ならではの、きめ細かい配慮が嬉しい。美容関係のオフィスにふさわしい物件を2軒回った。代官山にあった、最近建ったばかりのデザイナーズマンションが気に入ったようで、手付金を払っていた。いつも宿泊するオークラホテルまで送ってもらい、小林はチェックインするからと言って、信吾をラウンジに残して急いで部屋に荷物を置きに行ったようだった。オークラホテルは小高い丘の上にあるのか?急な坂道を上がった閑静な場所にあった。有名なホテルだが、ニューオオタニのような大型ホテルとは違い、人はまばらで宿泊者のみが訪れるという落ち着いた面持ちの大人のホテルという感じがした。誰の作品なのか?調度品も高級そうで品があった。ビールを頼み、周囲を見渡すと仕立ての良いスーツ姿のビジネスマンが歓談していたり、粋な着物姿の女性が着物を普段着使いで着こなしている老齢の男性とお酒を飲んでいたり。只者ではない、その道では名のある人物だと思われる仕草や姿勢の美しさについ見とれてしまった。そこに、淡いピンクのワンピース姿に着替えた小林が現れた。信吾が見とれている方を見て、急に足早にそちらの2人の方に挨拶に行った。相手も、親し気に話をしながら、着物姿の女性に紹介しているようで、名刺交換していた。しばらくそちらの席で話をしていたが、小林はもらった名刺を見ながら興味深げに頷いていた。少しして2人が席を立ち、出て行ったので、信吾の席まで戻り「ごめんなさいね。有名な国宝の先生に久しぶりにお目にかかったものだから」と言って名刺を見せた。「今人気の舞踊界では有名な方なんだって。最近日本舞踊も歌舞伎も、とんとご無沙汰だったので、知らなくて恥ずかしかったわ。松村君知ってる?よくテレビに出ているらしいんだけど」と言った。「芸能人みたいに華があったね。国宝の人と知り合いなんて、やっぱり凄いね」と応えるのが精一杯だった。小林といると、誇らしい気持ちと同時に、コンプレックスのようなものが胸をチクリと刺した。好きだという気持ちと、自分とは世界が違うという諦めが交互に押し寄せるのだ。しかも、ピンクのワンピースに身を包んだ小林は同級生とは思えないくらいで「娘さんですか?」とでも言われそうなくらい若々しくて美しかった。さえないスーツ姿の見るからに平凡な男が、誰もが振り返る美人で気品のある女性と腕を組んでいる姿は違和感があるに違いない。小林が神泉の店に行く前に表参道にあるデザイナーズブランドのショップに立ち寄り、カジュアルだがセンスのある洋服一式を購入してプレゼントしてくれた。「恵ちゃんのエステのおかげで、随分体の線が、いい感じ」と服を着用すると、満足そうに言った。「そう言えば、エステのお金、払ってくれてありがとう。正直、ここまで変わるとは思ってもいなかったよ。お腹周りだけでも、3ポイントで30センチ以上減ってるんだよ。これでも」と自慢する。「そう言えば、肌の色艶も良くなったわね。最初会った時に、随分若返ったと思ったんだけど、やっぱりね」と斜めから見て、ひとりで納得顔をしていた。「松村君は東京オフィスの責任者として当分働いて頂きたいので、それにふさわしいドレスコードを選ばせてもらったけど、いいかしら?気を悪くしないでね」と言って、数着を選んで、あれこれコーディネイトしてくれる。『高そうだな』と思いながら、鏡の中の自分が別人みたいに変化するのを楽しんでいた。「すいません。このまま洋服着て行っていいかしら?」と店員に許可を取っていた。着て来た服がショッピングバッグにきれいにたたまれて入れられていた。「見違えちゃった。本当に、ステキ。自分が若々しく健康でいることが仕事なんていいと思わない?」という笑顔が曇る。「こんな情報、もっと早く知っていたら、お母さんも救えたかも知れない。無知って、悲しいわね」と寂しそうに言う。「お母さんはガンだったと聞いたけど、大変だったね」と言うと「国民の2人に1人はガンだと言われているから仕方ないけど。私が無知だったせいで、病院に任せっきりで、あんなに苦しんで辛い想いをさせてしまったのには後悔してもしきれないわ」と、悲しい目で遠くを見つめていた。「僕のお母さんもガンだったんだ。僕もガン体質なのかも知れないと思うと怖くなる」「大丈夫。ガンは体温を上げれば無くなるんだから。ウイルスも39.2度以上の熱でやっつけることが出来るんだって。何でもかんでも抗生物質を投薬すればいいと思っている医者が多いようだけど。耐性菌なんかできてしまったら、抗生物質が効かなくなって本当に深刻な病気の時に助からなくなるそうよ。」「難しいこと、よく知っているね」「だって母が死んだのってガンというより薬害だもの。アメリカの医師たちはガンになったら自然療法を選択すると聞いたことがあるけど。日本だって、医者は自分がガンになったら抗がん剤は使わないそうよ。母を助けようとして奮闘していた時に、免疫療法や食事療法や緩和治療などなど。ありとあらゆる情報を集めて、霊能者や精神世界系や宗教に至るまで様々なことをやったけれど駄目だった。両親がいなくなってしまって、はじめて私は自分を愛してくれていたのは両親だけだったって思い知ったの。もう、誰も自分を守ってくれない。必要としてくれない。誰も私の事など気にかけてくれる人はいない。毎日毎日、両親との思い出に泣いて泣いて。自暴自棄になって何もかも嫌になって、死にたくなったけど、そんな勇気もない。仕事はおかまいなしに追いかけてくるし、家の用事は山ほどあるし。食べることしかストレスの発散できることはなくて貪り食べていたら、あの体型。自分でも鏡を見るのが辛かった。それ以上に、オバサンになった私は世間のお荷物でしかないと。夢も希望も無くして死んだように生きていたのよ。松村君と再会するまでは」そう言って、真正面から見つめる真摯な姿に、まんじりともせず見つめ直すしかなかった。「松村君と、あの海が見えるカフェで昼から飲んで、わがままを聞いてもらって昔と変わらない優しさで受け止めてもらって、もう一度夢を見たくなったの。諦めていた人生をやり直すことが出来るんじゃないかと元気が出て。川口さんを信じて昔の自分を取り戻してみようと思ったの。半分は疑っていたけどね。川口さんは中学生の時、皆から太っていることでいじめられて死ぬほど苦しんだことがあるから。太って醜いオバサンになった私を見るに忍びなかったようで、精神的なメンテナンスも含めて私を立ち直らせてくれたの。本当に毎回、キツネにつままれたみたいに感動的だった。辛い想いをしたことがある人ほど他人にも優しくなれる。川口さんが施術で綺麗にしてくれたのは体だけじゃない。心に巣食う不安の山をセルライトを剥がすように少しずつ癒やしてくれた。見た目が綺麗になるだけなら整形だっていいと思うの。でも、いつまでたっても自分を好きになれない魂を癒やし、愛して自信をくれるのはリンパエステの方がいいと思った。考えてみたら、長年誰からも触られたことすらなかったのよね。母がいた頃は、手をさすってあげたり、痛いという所に手を当ててあげたりしたけど。本当は誰かに抱きしめてもらいたかったのは私のほう。不安でいっぱいの心も、未来に夢を抱けない、ただ生きているだけの私を。でも、誰もいなかった。兄弟も夫も恋人も友人も。

なのに肩ひじ張って、涙も見せずに頑張っていた。そんな私の凝り固まった体を、優しくさすって「よく頑張ったね。これからは自分を一番大切にしないとね。ご両親も、それを望んでいる」って川口さんが言ってくれたの。凍っていた心が溶けて、涙になって溢れてた。そして、思い出したの。私の母が「親は、立派に子供が育ってくれるのは自慢ではあるけれど、それより子供たちが笑顔でいつも好きな人と好きなことをして生きていて欲しいと願っているのよ」って繰り返し言ってくれていたことを。私は親になったことがないから、わからなかった。でも、本来の自分、両親に愛され生まれてきた命、いつも、一人じゃなかった。60年生きてきた月日、自分には見えてなかっただけで沢山の人に助けられ愛され支えられていたことを。思い出すことが出来たのよ」

それほど人生に変化をもたらしたリンパエステに信吾は初めて興味を持つことが出来た。『小林と川口の2人の女性を若々しく美しくしたエステというものは男性には無関係なことだと内心思っていた。それが、健康やガンなどの成人病にもいいと言うならば、もっと真剣に恵にやってもらえば良かった』と後悔していた。男性だって加齢臭やビール腹を本当はどうにかしたいと思っている筈。今時の男性は、メイクをしたり整形をするらしい。就職活動の時にも相手の印象が良い方が有利だからだ。ファッションだって、昔の冴えないバンカラなんて疎まれる。男性も髪型だって金髪や茶髪など、生き方を物語るツールとして心得ている。ブランドにも詳しいし、エステのひとつもやっていそうだ。

まだまだ小林が頭に描いている構想の全体像が見えているわけではない。ネイティヴな英語が喋れて、海外でも通用していた才女なのだから。考え方もグローバルだし、活躍もインターナショナル。今まで見て来た世界、生きていた所が違うのだから仕方ない。むしろ、そのせいで小林の言うことには全て完敗。尊敬と憧れしかない。ここまで違うと、張り合う気持ちも、いちゃもんつけるつもりも毛頭ない。ただただ、目を輝かせて話を興味深く聞いている姿は、微笑ましくもある。サラリーマンしかしてこなかった信吾にとっては、新規事業とか経営とか縁のない話だったから。考えたこともないし、たぶんこれから勉強しなければ小林の足を引っ張ってしまうかも知れない。昔は人生50年だった。そう思えば、今はオマケの人生。何をしようが親や親戚や近所の目などという、止める者も、邪魔する人もいない。他人の迷惑にさえならなければ、自由に生きてもいい年だ。失敗を恐れてやりたいことを我慢する理由はどこにもない。だいたい、やりたいことは諦めないですぐやらないと。いつ死ぬかも知れない年なのだから。「人生百年」などと言う人がいるが、戦争を乗り越えた生命力の強い人々が亢進しているだけで、信吾たちは、人口調味料や化学薬品や添加物を多量に取っている世代なので、それほど長生きするとは思えない。あと10年、20年生きられたら恩の字だ。まだ元気で頭も動いているうちに、新たなチャレンジはしなくてはならない。後回しにしている暇はない。恋もビジネスも。いや黄昏時の空のように、色鮮やかに今まで観たことのない素晴らしい風景を見ることができるかも知れない。

伝統文化もエステも今まで縁のなかった未知の世界。でも、面白そうだ。こんな年になって、いやこの年だから必要なことばかり。今までブームを創り出して来た団塊の世代が、一番欲しい情報ばかりなのだから。自分のDNAが喜ぶ伝統芸能に触れ、死ぬまで元気で若々しくなれるエステや予防医学に縁が出来たということは、これからの人生は豊かになる予感。何より新しい世界が開けていくようで心が勝手に踊っている。

人は夢や希望がなければ生きてはいけない。そして、愛する人がいなければ、生きていても空しい。自由気ままに無責任に日々楽しく生きてきた松村だったが、小林と出会ったら、何かが始まるような予感がしていた。何だか止まっていた時間が動き出した気がした。初めて気づくことができた事実。『この年で』と思う反面、「今まだ、間に合う?」と、かすかな希望の光も見える。もう若くはないから、未来も体力も頭も劣化する一方なのは、ひしひしと感じている。現実を凝視するなら、リスクなんて背負わない方がいいと新たなチャレンジなどすべきではないと判断するのが常識だとわかっている。しかし、この胸に、湧き上がる情熱は、忘れかけた青春のときめきそのものだった。小林となら、できるかも知れない。今なら、まだ間に合うかも知れない。そんな思考に捉われ、もう衝動が止まらなかった。まだ、動ける。愛する人がいたら、好きなことが見つかれば未来が、たとえ少ない日々であってもワクワクときめきながら生きていくことはできるのではないか?



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