二十七話 帰る前に
目が覚めた。
俺はもう見慣れてしまった薄暗い部屋、汚い空気が目に、鼻腔に入る。
だが、なぜかそれさえも愛おしく感じてしまう。
そのまま、しばらく天井を見ていた。
『今日で、ここを出る。』
そう思っても、胸の奥は、思ったより静かだった。
嬉しいとか、やっと帰れるとか、そういう感情はうまく浮かばない。
ただ。
少しだけ、ここにいた時間が――自分の中に残っている気がした。
「……気のせいか」
小さく呟く。
口に出した途端、その言葉がやけに薄っぺらく聞こえた。
カーテンを開けるべく、俺は立ち上がる。
その瞬間。
コンコン、と控えめなノックが朝の光と共にやってきた。
「フィーマ様、起きておられますか?」
聞き慣れた声だった。いつもと同じ、落ち着いた声。
なのに、ほんの少しだけ――弾んで聞こえる。
「起きています」
短く返して、扉に手をかける。
ギィ、と古びた蝶番が小さく軋んだ。
まるで、まだ少しだけここにいろとでも言うみたいに。
扉の先に立っていたリリアは、いつものメイド服ではなかった。
見慣れない、簡素な外出用の服。
ほんの一瞬だけ、視線が止まる。
「……どうかなさいましたか?」
「いえ、別に」
短く返す。
それだけなのに、なぜか少しだけ目を逸らした。
「さて、昨日言った通り市場にでも土産を探しに行きましょうか」
どこか楽しげに、リリアが言う。
「そうですね」
頷いてから、ふと疑問が浮かぶ。
「……このスラムに、土産になるようなものがあるのですか?」
ただ、純粋な疑問だった。
この人がただ居るだけのこのスラムにそんな概念があったのかとただ単に思っただけだ。
リリアは一瞬だけ――言葉に詰まる。
「……ありますよ」
リリアは少しだけむすっと頬を膨らませる。
「探せばですが」
言い訳のように付け足すその様子に、ほんのわずかに、空気が緩んだ。
―――
汚れが染み付いた外壁。
鼻腔につんとくる腐った水の匂い。
どこかで続く言い争い。
それでも――少しだけ、見慣れている。
「フィーマ様、今度は連れ去られないようにお願いしますよ」
軽い調子でリリアが言う。
「わかってますよ」
同じように返す。
それだけで、ほんの少しだけ距離が近い気がした。
「ところでフィーマ様」
リリアがふぅと息を整えてから言う。
「私は、ここの出身です。フィーマ様はどうお思いですか?」
足は止めないまま。
だが、その問いは、軽くはなかった。
「……どう、とは?」
自然と聞き返していた。
少しだけ間が空く。
何も思わない。そう言えば、それで終わる。
けど――
「……汚い場所ですね」
そのまま、言う。リリアの表情は変わらない。
「ですが」
一歩だけ、言葉を足す。
「――見て見ぬふりをするには、少しだけ近すぎる」
自分でも、意外な言葉だった。
綺麗でもない。
正しいとも言っていない。
ただ――無視しきれない、と言っている。
「……そう、ですか」
リリアは小さく頷く。それ以上は何も言わない。
ただ――ほんの少しだけ、歩幅が揃った。
「そんなことはさておき、もうそろそろ着きますよ!」
リリアの顔が晴れる。
一本通りを抜ける。
抜けた瞬間。全く違う風景が写る。汚いのにどこか綺麗な。
でも決して綺麗とは言えない。並んでいるのは、まともとは言い難い品ばかりだった。
黒ずんだ果物。
どこから持ってきたのか分からない布切れ。
鍋の中で煮立つ、得体の知らない何か。
「おい、嬢ちゃん達!買ってけよ!」
怒鳴るような声。
筋骨隆々の男が、赤くくすんだ果実を突き出してくる。
「安くしとくぞ!」
「……結構です」
即座に返す。だが、その声はほんの少しだけ固かった。
別の方向から声が飛ぶ。
振り向けば、皺だらけの女が、濁った液体の入った瓶を差し出していた。
「ねーちゃん、ねーちゃん、万能の薬だよ!買っていきな!」
どうせそんなわけもなくただ単に今日を生きようと必死なのだろう。
「ねーちゃん達買ってくれよー」
小さな子供が袖を持ちながら言ってくる。どうせ裏で大人が糸を引いているのだろう。
もう慣れてしまったが、前世では考えられない光景だと思う。
なんだかな。
「……他も見てみましょうか」
リリアが、少しだけ無理に明るく言う。
「そうですね」
俺は短く返した。
―――
市場を歩く。
相も変わらず、まともな物は少ない。
値切り声。
怒鳴り声。
笑い声。
全部が混ざって、ただの“音”になっていた。
いくつかの店を見て回る。
結局――
「……見つかりませんね」
リリアが、小さく呟く。
「そうですね」
同意する。
土産になるようなものなど、最初からなかったのかもしれない。
ほんの少しだけ、間が空く。
「フィーマ様は、何か欲しいものはありますか?」
唐突な問いだった。
「そーですね。うーん。特にありませんね」
最高に贅沢なことなのだろうが、此処に欲しいものなどなかった。
その時、視界の端にさっきとは別のものが映る。
小さな店。
並んでいるのは、歪な金属片や、割れた装飾品。
その中に、一つだけ形の整っていない、小さな鈴のようなものがあった。
「……それ」
気づけば、指を差していた。
「これ、ですか?」
リリアがそれを手に取る。
軽い音が鳴る。
綺麗とは言えない。
けれど、不思議と耳に残る音だった。
「……ええこれで。これがいいのです」
それだけ答える。
理由は分からない。
ただ――なんとなく、それがいいと思った。
「いくらですか」
リリアが店主に聞く。
適当な金額が返ってくる。
高いのか安いのかも、よく分からない。
リリアは一瞬だけ考えて――そのまま払った。
「はい」
手渡される小さな鈴。
「……ありがとうございます」
受け取る。
軽い。
それだけのはずなのに、なぜか少しだけ重く感じた。
「……それが、お土産ですか?」
リリアが、少しだけ柔らかく言う。
「ええ。まあ」
曖昧に返す。
土産なんて、大した意味はない。
ただ――
「……悪くはない」
小さく呟く。リリアは、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ――笑った気がした。
―――
帰り道。
来た時と同じはずの道が少しだけ違って見えた。
汚れていることに変わりはない。何も、変わっていない。
――それでも。
「……」
ほんの少しだけ足を止めずに見られるようになっていた。
「フィーマ様、そろそろ戻りましょうか」
「ええ」
短く頷く。
振り返ることは、しない。
「……さようなら、ですね」
リリアが、小さく呟く。
その言葉に対して、
「……どうでしょうね」
そう、返した。
終わりかどうかなんて、
まだ分からない。
ただ。
確実に言えることが一つだけあった。
――何も感じなかったはずの場所に少しだけ、何かが残っている。
それだけで、十分だった。




