第二十五話 それでも気のせいでしょう
「フィーマ様、おはようございます」
リリアの声が、静かに耳に届く。
優しい声だ。
昨日と同じように。
「……ああ、リリアおはようございます」
少し遅れて、言葉が出る。
自分でも驚くくらい、普通の声だった。
目を擦りながら、周囲を見渡す。
薄暗い木の部屋。
湿った空気。
軋む床。
――王宮じゃない。
ほんの一瞬だけ、視線が止まる。
昨日のことが頭をよぎりかけて、すぐに消す。
考える必要はない。考えたところで、何も変わらない。
「フィーマ様。本日もスラムの見学……いえ、逃走の準備を」
リリアが、いつも通りの調子で言う。
少しだけ、明るく。
少しだけ、気を遣うように。
「……ああ」
短く返す。
それだけで、会話は終わるはずだった。
――はずなのに。
なぜか、言葉が続きかけて、止まる。
リリアが、ふと思い出したように口を開く。
「近頃、この辺りでスリが増えているそうです。お気をつけください」
「……」
一瞬だけ、思考が止まる。
昨日の光景が、勝手に浮かぶ。
落ちた財布。
伸びる手。
「……ああ」
短く、返す。
それだけのはずなのに、喉の奥が、ほんの少しだけ引っかかる。
「……問題ありません」
続ける。
何事もなかったように。
――関係ない。
そう、思ったはずなのに。
「……行きましょう」
結局、それだけを口にする。
立ち上がる。
身体は、問題なく動く。
昨日みたいな重さもない。
息も、普通だ。
――なのに。
ほんの少しだけ、足の出だしが遅れた。
「……気のせい、でしょう」
小さく呟く。
言い直すみたいに、わざと区切って。
そうでもしないと理由を考えてしまいそうだった。
―――
外に出る。
朝の空気は、昨日と同じだった。
少し湿っていて、どこか淀んでいる。
歩き出す。
足は、問題なく動く。
コッ、コッ、と、一定のリズム。
――変わらない。そのはずなのに。
「……」
ほんの少しだけ、視界の端に入るものが増えた気がした。
倒れている人間。
壁にもたれたまま動かない人間。
何かを諦めたように、座り込んでいる人間。
昨日と、同じだ。
「……関係ない。俺には関係ない」
小さく呟く。
見えても、意味はない。
気づいても、何もできない。
足は、止まらない。そのまま、通り過ぎる。
「……」
――はずだった。
視界の端にまた一つ、違和感が映る。
地面に何かが落ちている。
小さな袋。口が少し開いて、中身が見えている。
パンだ。固そうな安いパン。
そのすぐ近くで、男が壁にもたれたまま物乞いをしている。
一瞬だけ、視線が止まる。
――関係ない。
そう思った瞬間、足は、もう一歩だけ進んでいた。
そのまま、通り過ぎる。
――通り過ぎる、はずだった。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
振り返る理由はない。戻る理由もない。
それでも。
ほんの一歩分だけ、足が、勝手に戻る。
「……」
しゃがむこともなく、ただ、足先で軽く袋を押す。
コツ、と。
袋が、男の手元へ転がる。
それだけだ。
それ以上は、何もしない。
「……フィーマ様」
少しだけ、間を置いてリリアが声をかけてくる。
「今の……」
「何もしていません」
被せるように、答える。
間髪入れなかった。
「……そう、ですか」
それ以上、何も言ってこない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、そのまま歩調を合わせてくる。
気にするな。ただの偶然だ。
そう思いながら、前を見る。
「……らしくねぇな」
前から、低い声が落ちてきた。
デズモンドだ。
振り返りもしないまま、そう言った。
「何がですか」
「別に」
それだけで終わる。それ以上は言わない。
足音だけが続く。
コッ、コッ、コッ、と。
「……気のせいでしょう」
小さく呟く。
誰に向けたわけでもない言葉。
「そうかもな」
今度は、少しだけ早く返ってきた。
デズモンドは、やっぱり振り返らない。
「……行きますよ」
何事もなかったみたいに、歩き出す。
心臓が、少しだけうるさい。
「……関係ない」
呟く。
俺がやったことじゃない。
ただ、そこにあったものが、転がっただけだ。
それだけだ。
――それだけなのに。
ほんの少しだけ、さっきまでよりも、呼吸が楽だ。
分かっているからこそ、考えないようにする。
コッ、コッ、コッ、と足音が続く。
その音は、昨日と同じはずなのに。
ほんの少しだけ、前よりも軽く聞こえた。
―――
前で怒号が上がる。
振り返るまでもない。
また、いつものだ。
「離せっつってんだろ!」
「てめぇが先に――」
言い終わる前に、音が止まる。
デズモンドの手が、片方の襟を掴んでいた。
「……やめておけ」
低い声だった。
それだけで、空気が変わる。
もう片方も、動かない。
いや、動けないだけか。
「……ここでやるな」
短く、それだけ言う。
力を込めたわけでもないのに、二人ともそれ以上何もできなくなる。
手を離す。
それで終わりだ。
デズモンドは振り返りもしない。
何事もなかったみたいに、また歩き出す。
それについていく。
ただ、それだけだった。
そして気づけば、日が落ちていた。それを合図に俺たちは寝ぐらに戻る。
「フィーマ様、今日も一日お疲れ様でした。そろそろ事も落ち着いてきた頃ですし、明後日辺りに王宮に戻りましょう。」
リリアが俺の部屋まで伝えに来た。
やっと王宮に帰れる。いい加減、自室が恋しい。
――そのはずなのに。
ほんの少しだけ、言葉が引っかかる。
「……まあ、いいでしょう」
小さく呟く。
考えるだけ無駄だ。
どうせ、戻る場所はそこしかない。
そんな事を考えながら返事をして、リリアを下がらした。
部屋に沈黙が来る。
朝と同じはずなのに、少しだけ違って感じる。
「……」
座る。何もすることがない。
いつも通りだ。
「……はぁ」
息を吐く。
今日のことを、思い出そうとして――やめる。
意味がない。
そう思っているはずなのに。
ほんの一瞬だけ。
――あの時、足が止まった感覚だけが、頭の奥に残っていた。
「……気のせい、か」
目を閉じる。
答えなんて、出るはずもない。
ただ。
昨日よりも、ほんの少しだけ
――眠りにつくまでの時間が、昨日よりほんの少しだけ短かった。




