第二十四話 静かにもう一度
眩しい光も、耳障りの音も、誰かがどこかで生きている気配も、昨日と同じだ。
何一つ変わっていないはずなのに、それでもやけに遠く感じるのはきっと俺がズレてしまったからなのだろう。
と、そんなことを考えながら歩き続ける。
―――
息を吐く。
深くも、浅くもないただの呼吸。
昨日みたいに苦しくはない。
でも、楽でもない。
何も変わっていないというよりは、何も変わらなかったことに慣れ始めている。
そんな感覚だった。
『くだらない。』
心の中で呟く。
言葉にしたところで、何も変わらないことくらい分かっている。
それでも何も考えずに廃人の如く歩くよりはマシであった。
前を歩くデズモンドの背中は相変わらず大きくて、迷いがなくて、追いつこうと思えば追いつける距離にあるのにどうしてかその距離を詰める気にはなれない。
詰めたところで、何かが変わるわけじゃない。
そんなことは、もう分かっている。
「……別に、いいだろ」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく、ただ自分に言い聞かせるみたいに。
足音だけが、一定のリズムで続いていく。
コッ、コッ、コッ、と、感情のない音がやけに耳に残る。
それが、妙に落ち着く。
何も考えなくていい。
何も感じなくていい。
ただ歩いていれば、それで済む。
――そのはずだった。
視界の端に、何かが映る。
小さな影だった。
ほんの一瞬だけ、目がそっちに向く。
薄汚れた白の頭巾を被った女が財布を落とした。
財布に向かって、別の手が伸びる。
汚れた手だ。
迷いもなく、当然のように、それを掴もうとしている。
足が、止まる。
ほんの一歩分だけ。それでも、確かに止まった。
「……っ」
すぐに動かす。
何もなかったみたいに。
関係ない。俺には関係ない。
あの女が気づくかどうかも、取られるかどうかも、全部――俺には関係ない。
「……そうだろ」
誰に聞かせるでもなく、吐き出す。
そのはずなのに。
さっきの“止まった感覚”だけが、妙に残る。
「……は?」
思わず、眉を寄せる。なんで、今さら。
昨日、あれだけはっきりしたはずだ。
俺は空っぽだ。
だから、選ばない。
関わらない。
そう決めたはずだ。
「……くだらねぇ」
吐き捨てる。
それでも、頭のどこかで、もう一度だけその光景が再生される。
伸びる手。
気づかない女。
落ちたままの財布。
足を、速める。
見なければいい。考えなければいい。
それで終わる。終わるはずだ。
「フィーマ様、どうかなさいましたか?」
リリアの声が、少しだけ近い。
「大丈夫です。追手に見つかる前に進みましょう」
自分でも驚くくらい、滑らかに言葉が出た。
何事もなかったみたいに。
「……そうですか」
それ以上、何も聞いてこない。
優しい声だった。
――少しだけ、距離のある。
歩く。
コッ、コッ、コッ、と、また同じ音が続く。
さっきと、同じはずなのに。
ほんの少しだけリズムが、合わない。
「……関係ない」
もう一度、呟く。
言い聞かせるみたいに。
それでも。
さっき止まりかけた一歩だけが、どうしても、消えなかった。
―――
前で怒号が上がる。金属がぶつかる音。短い悲鳴。
デズモンドの足が、止まらないまま少しだけ速くなる。
路地の角を曲がった先、二人が取っ組み合っていた。
周りの連中は、笑いながら距離を取っているだけだ。
「やめろ」
低い声だった。
それだけで、一瞬だけ空気が止まる。
それでも片方が振りかぶる。
――次の瞬間、腕が掴まれていた。
「……聞こえなかったか」
静かに、押し下げる。骨が軋む音がした。
「っ、離せ……!」
「なら、最初から振るな」
それだけ言って、手を離す。
もう一人の方も、動かない。いや、動けないだけか。
周りのざわめきが、少しだけ引く。
デズモンドは、それ以上何も言わない。
そのまま、歩き出す。
視界の端に、違和感が映る。
場違いな人間だった。
汚れてはいるが、明らかに質の違う服。
歩き方も周囲とは違う。
自然と、目が向く。
その後ろに、ぴたりと張り付く影がある。
距離が、じわじわ詰まっている。
笑っていないのに、口元だけが歪んでいた。
――ああ。
だが、
「……関係ない」
すぐに、視線を切る。
関係ない。俺には関係ない。
あいつがどうなろうが、俺には何も関係ない。
足は止まらない。止める義理もない。
ただ。
ほんの少しだけ、頭の中に引っかかる。
――このまま進むと、ぶつかるな。
デズモンドの進む方向。あの男の位置。後ろの連中。
一瞬で、線が繋がる。
気づけば、口が動いていた。
「デズモンド」
「……なんだ」
「道が狭いので回った方がいいのでは?」
単純に話しかける。
理由なんて、適当だ。
「……そうか」
それだけで、進路が変わる。
それに続く。
ただ、それだけ。
――それだけのはずだった。
すれ違うはずだった距離が、わずかにズレる。
タイミングが、崩れる。
後ろの影が、一瞬だけ止まる。
見ない。確認もしない。
ただ、歩く。
「……関係ない」
小さく呟く。
俺がやったことじゃない。
ただ、道を変えただけだ。
それだけだ。それだけなのに。
背後の気配が、さっきまでと違うことだけは、
なんとなく分かった。
ざわめきが、途切れている。
それでも、振り返らない。
見る理由がない。
「……くだらねぇ」
吐き捨てる。
胸の奥に、ほんの少しだけ残った何かを、
無理やり押し込むみたいに。
足音だけが、続く。
コッ、コッ、と。
変わらないはずの音が、ほんの少しだけ、違って聞こえた。




