二十二話 何も変わらない
――涙は、出なかった。
胸は苦しい。
喉も詰まっている。
息も浅い。
それなのに。
どうしても、出ない。
「……なんでだよ」
声だけが、先に壊れる。
「……なんで、出ねぇんだよ」
掠れた声が、やけに軽く外に出る。
軽いくせに、やけに遠くまで響いた気がして、余計に自分が空っぽになったみたいで気持ちが悪い。
泣けばいいと思っていた。
泣いてしまえば、少なくともこの胸の奥に溜まり続けている、形も分からない何かを外に吐き出せると思っていたし、吐き出してしまえば少しは楽になるはずだと、どこかで信じていた。
――なのに。
出ない。
出てこない。
その事実だけが、妙に現実的で、妙に冷たくて、じわじわと心の奥を締め付けてくる。
「……は」
乾いた息が漏れた。
笑ったつもりなど毛頭ない。
でも、喉の奥から出てきた音は、どう聞いても笑いに近くて、それが余計に気持ち悪い。
自分のことなのに他人を客観視しているようでそれも気持ち悪い。
「……泣けない。」
消えかけのロウソクのような声が出た。
――泣けない。
それはつまり、どういうことだ。
悲しくないのか。
違う。
苦しい。
胸は痛いし、息もまともにできないし、さっきから頭の中では同じ光景が何度も何度も繰り返されている。
それでも――涙は出ない。
「……おかしいだろ」
ぽつりと、零れる。
こんなに苦しいのに。
こんなに、胸の奥がぐちゃぐちゃになっているのに。
どうして、たったそれだけのことすら出来ない。
「……なんでだよ」
分からない。
分からない、はずなのに。
どこかで、もう分かっている気もしていた。
――ああ、そうか。
「……俺、もう……壊れてるのか」
言葉にした瞬間、
やけにしっくりきてしまって、余計に気持ちが悪い。
悲しいから泣くんじゃない。
泣けるから、悲しいと感じられるんじゃないのか。
そんな、訳の分からない考えが浮かんでは消えていく。
「……っ」
息が、うまく吸えない。
胸の奥にある何かは、
確かにそこにあるはずなのに、
手を伸ばしても触れられないみたいに、ぼやけている。
「……なんだよ、それ」
自分でも分からないものに、
勝手に苦しめられているみたいで。
――腹が立つ。
「……ふざけんなよ」
誰に向けたのかも分からないまま、
声が漏れる。
助けなかったことも。
動けなかったことも。
全部、ちゃんと覚えている。
それなのに。
「……なんで、痛いのに……」
言葉が、続かない。
「……ちゃんと、痛くなれよ」
その一言は、
自分に向けたものだった。
「……っ」
目の奥が、じん、と痛む。
泣いている時と同じ感覚。
なのに、何も流れてこない。
「……は」
乾いた呼吸が、喉を擦る。
おかしい。
泣けないのに、
泣いた時と同じ場所だけが、ちゃんと痛い。
「……なんだよ、それ」
指先を見る。
震えている。
ちゃんと震えているのに、
そこに感情がついてきていない。
怖いわけでもない。悲しいわけでもない。
なのに、体だけが勝手に反応している。
「……気持ち悪い」
頭の中に、さっきの光景が浮かぶ。
――違う。
“音”がない。
口が動いている。
「たすけて」と言っているはずなのに、声だけが、どこにもない。
「……」
思い出せるのは、自分が動かなかったことだけだ。
足が出なかったこと。
手を伸ばさなかったこと。
それだけが、
――やけに鮮明に残っている。
「……ああ」
理解する。
「……壊れてるんじゃない」
ぽつりと、呟く。
「……最初から、こうだっただけか」
胸の奥が、静かに沈む。
「……空っぽだったんだな、俺」
そう思った瞬間、少しだけ、楽になった気がした。
理由は簡単だ。
最初から何もなかったなら、
失ったものなんて、何も――ない。
そうだ。
これでいい。
助けなくてもいい。
選ばなくてもいい。
俺は、笑おうとしてやめた。
どうせ、上手くできない。
泣こうとして、やめた。
どうせ、出てこない。
「……面倒くせぇな」
ぽつりと、吐き捨てる。
それで、終わったはずだった。
何も考えなければいい。
何も感じなければいい
そうやって、全部を切り捨ててしまえば——楽になれる。
そう思った。
――思った、はずだった。
「……」
静かなはずの世界で、
自分の呼吸だけが、やけにうるさい。
消えたはずの声が、どこにもないはずの声が、
――まだ、残っている。
顔を歪める。
それでも、涙は出ない。
「……は」
乾いた息だけが、漏れた。
楽になったはずなのに。
「……なんでだよ」
もう一度、同じ言葉が漏れた。
理由なんて、分かってるはずなのに。
分かってるはずなのに、
――どこにも届かない。
「……は」
息が、うまく続かない。
喉の奥が、引っかかる。
「……っ」
そこで、初めて気づく。
――視界が、滲んでいる。
「……え」
ぽたり、と。
遅れて、落ちた。
「……は?」
理解が、追いつかない。
出ないはずだった。
さっきまで、何をしても出なかったはずなのに。
「……なんで」
もう一度、呟く。
今度は少しだけ、震えていた。
ぽた、ぽた、と。
規則もなく、勝手に落ちていく。
「……違う」
これは、違う。
こんなはずじゃない。
悲しいからじゃない。
納得したはずだ。
楽になったはずだ。
それなのに。
「……なんで、今さら……」
拭おうとして、手が止まる。
止まらない。
拭ったところで、
またすぐに、滲んでくる。
「……っ」
息が乱れる。
胸の奥が、今までとは違う形で、痛む。
さっきまでの、重く沈む痛みじゃない。
――もっと、直接的で、
逃げ場のない痛み。
「……俺、」
言葉が、崩れる。
「……なんで……」
分からない。
何がきっかけなのかも、
何に対してなのかも、
――分からないまま。
「……っ、ぁ」
声が、漏れる。
泣き声になりきれない、
中途半端な音。
それでも、止まらない。
「……ぁ、……」
ぐちゃぐちゃだ。
何も分かってないのに、
何も整理できてないのに、
――身体だけが、勝手に壊れていく。
「……っ、ぅ」
膝が、崩れる。
その場に、落ちる。
手をつくこともできずに、
ただ、力が抜けるみたいに。
「……なんでだよ……」
震える声が、地面に落ちる。
それでも。
――何も、変わらなかった。




