第二一話 言い訳の選択
何も――聞こえない。
足音も、
声も、
人の営みさえも、
まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗に消えていた。
さっきまで、あれほど煩かったはずなのに。
――耳が、壊れたみたいに静かだ。
息の音だけが、やけに大きくて、
自分の中に閉じ込められたみたいに、逃げ場もなく、反響し続けている。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
それだけのはずなのに、その単純な繰り返しだけが、妙に現実感を持って、はっきりと耳に残る。
「……独りだ。」
ぽつりと、零れた言葉は、
誰に届くわけでもなく、ただ空気の中に溶けて消えた。
俺は気づく。
独りで良いことを。
――いや、違う。
気づいていたはずなのに、
ずっと、見ないふりをしていただけだ。
「……仕方なかった」
小さく、呟く。
誰に向けたわけでもない。
それでも、まるで誰かに言い聞かせるみたいに、
自分でも気づかないうちに、同じ言葉をなぞるように繰り返していた。
独りでいい。
そうだ、最初からそうだったじゃないか。
助けなくても、誰かがやる。
実際、そうなった。
俺がやらなくても、結果は変わらなかった。
だったら――
「……間違ってない」
言い聞かせるみたいに、繰り返す。
「……間違ってない、はず」
理屈は通っている。
おかしなところなんて、一つもない。
それなのに。
――どうしてだ。
「……なあ」
誰に向けたのかも分からないまま、
気づけば、言葉が漏れていた。
「……母さん」
返事など、返ってこない。
分かっていたはずなのに、それでもどこかで、ほんの少しだけ、返ってくるんじゃないかと期待していた自分がいたことに気づいて、余計に、胸の奥がざわつく。
当たり前だ。
ここにいるのは、“俺”じゃない。
呼んだところで、届くはずもない。
それでも――
「……なあ」
もう一度だけ、意味がないと分かっていながら、それでもやめられないまま、同じ言葉を口にしてしまう。
「……」
沈黙。
何も返ってこない。
分かっている。
――最初から。
「……仕方なかった」
もう一度、呟く。
言葉にしてしまえば、
それで全部、片付く気がした。
「……あの状況で、動ける方がおかしい」
そうだ。
普通は、ああなる。
命がかかっていたんだ。
見知らぬ誰かのために、
自分の足を踏み出すなんて、
そんなものは、綺麗事でしかない。
「……デズモンドが、おかしいだけだ」
あいつが異常なんだ。
迷いもなく踏み込める方が、どうかしてる。
そう思えば、
少しだけ、胸の奥が軽くなる気がして、
だから俺は、その考えにしがみつくみたいに、何度も繰り返した。
――本当に?
一瞬、頭の奥で何かが引っかかる。
「……違う」
即座に、潰す。
考えるな。
意味がない。
あの子供は助かった。
結果は出ている。
だったら
――問題ない。
「……そうだ」
小さく、頷く。
俺がやらなくても、誰かがやる。
実際、そうなった。
だったら、最初から俺がやる必要なんてなかった。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
理由はある。
理屈も通ってる。
だから――
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせる。
これでいい。
間違っていない。
――なのに。
さっきの声が、消えない。
『たす…け…て』
「……っ」
喉が詰まる。
違う。
もう終わったことだ。
助かった。
助かったんだ。
「……だから」
絞り出す。
「……考えなくていい」
それでいい。
見なければいい。
関わらなければいい。
そうすれば――
「……俺は」
小さく、息を吐く。
「選ばなくて済む」
――そう思った。
「……」
言葉が、続かない。
さっきまで、あれだけ出ていたはずの言葉が、急に、出てこなくなる。
喉が、うまく動かない。
息が、浅い。
「……なんでだよ」
掠れた声が、漏れる。
間違ってないはずだ。
理屈も通ってる。
それなのに。
「……なんで、こんなに……」
言葉が、途中で途切れる。
胸の奥が、重い。
沈んでいくみたいに。
「……っ」
指先に、力が入らない。
視界が、わずかに揺れる。
立っているだけなのに、やけに不安定で、足元が頼りない。
「……違う」
否定する。
何をかも分からないまま。
「……違う、はずだ」
それでも。
「……分かってたくせに」
ぽつりと、零れる。
「……見てたくせに」
喉が、締まる。
「……それでも、行かなかったくせに」
言葉が、刺さる。
全部、自分に向かって。
「……っ」
息が、乱れる。
否定できない。
一つも。
「……俺は」
声が、震える。
「……逃げただけだろ」
言葉にした瞬間、
それはもう、言い訳じゃなかった。
――ただの、事実だった。
否定しようとしても、出てこない。
いつもなら、すぐに並ぶはずの理屈も、言い訳も、
何一つ、浮かばなかった。
全部
――知っていたからだ。
見ていた。
分かっていた。
それでも、動かなかった。
「……最低だな」
小さく、笑う。
誰もいないのに、
まるで誰かに見られているみたいに、
どうしようもなく、惨めだった。




