第十七話 月下、その一歩に名はない
俺たちはオークション会場から逃げ、月夜の照らす屋根の上で寝っ転がっている。
今回俺は、独断で飛び出して、捕まり、リリアに助けられた。
リリアに対して申し訳ない気持ちが押し寄せてきた。
「リリア。ごめんなさい。私のせいで…」
口に出した瞬間、自分でも分かった。
――これは、謝罪じゃない。
許してもらうための言葉だ。
責任を取る覚悟もないくせに、
関係だけは壊したくなくて。
都合のいい位置に戻ろうとしているだけの
――薄っぺらい言葉だ。
それでも、口をついて出た。
何と言われようが受け止めよう。俺が悪かったのだから。
そう思っていたが予想外の答えが返ってきた。
「こちらこそ申し訳ございませんでした。そもそも私がこんなところに連れてこなければよかったものなのでフィーマ様は謝らないでください」
リリアは申し訳なさそうだ。
……いや、違うだろ。
俺は苦笑する。
「いやいや、私が悪かったのです。止められても自分の意思で行ったのですから……」
「そんなことはありません」
即答だった。
しかもやけに真面目な声だ。
「私はフィーマ様を守るためにおります。守れなかったのは私の責任です」
……重い。
いや、違うな。
重いんじゃない。
俺が軽いだけだ。
命を張る覚悟で仕えている人間に対して、
俺はどこかで『まあ大丈夫だろ』って思っていた。
守られることを前提にしていた。
その差が、今、言葉の重さになって突き刺さってくる。
俺は空を見上げた。
満月が出ている。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、街は静かだった。
しばらく沈黙が続く。
ふと、気になって聞いた。
「リリア」
「はい」
「……私、さっき変でした?」
聞いたあとで、後悔した。
違う。
聞きたいのはそんなことじゃない。
あれは“変”なんて言葉で片付けていいものじゃない。
怖かったんだ。
自分が。
あの瞬間、何かが壊れた気がした。
それが何なのか、分からないまま
――知らないままでいるのが、一番怖い。
床は割れるし。
魔法は消えるし。
どう考えても五歳児の出す魔力量じゃない。
リリアは少しだけ考えるように目を細めた。
「確かに魔力が暴走していました」
やっぱりか。
「ですが――」
リリアは月を見ながら続ける。
「それでも、フィーマ様でした」
「どういう意味?」
俺が聞き返すと、リリアは少しだけ微笑んだ。
「暴走していても、フィーマ様はフィーマ様でした」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
俺は少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。
……なんだろう。
この人は。
俺が何をやっても、
何者になっても、
多分――
味方なんだろうな。
そう思った。
思ってしまった。
その瞬間、気づいてしまう。
――ああ、俺はもう、この人に依存している。
まだ何も返せていないのに。
守られてばかりなのに。
それでも「失いたくない」と思ってしまった。
その事実が、
少しだけ――いや、はっきりと怖かった。
もし、この人まで失ったら。
俺は、多分。
もう、立てなくなる。
そう思った瞬間だった。
ゴォン――
ゴォン――
夜の街に響く重い音。
俺は思わず体を起こした。
「……あれって」
俺は尋ねる。
そうすると、リリアの表情が変わった。
さっきまでの穏やかな顔じゃない。
戦う時の顔だ。
「街の警備用の鐘ですね。騒ぎが起きた時に鳴らされるものです。今夜は逃げ回らないと…」
リリアは軽く伸びをしながら言った。
「今夜は、長くなりますね」
その一言に、状況の重さが滲む。
追われる側に回った、ということか。
リリアは一瞬だけ考え――すぐに決断した。
「フィーマ様、デズモンドのもとへ向かいましょう」
その名前に、わずかに意識が引っかかる。
「そういえば、デズモンドさんはどこへ?」
俺の問いに、リリアは迷いなく答える。
「もしもの時の備えは、すべて彼に任せてあります」
やはり、最初から想定していたのか。
用意周到にもほどがある。
そしてリリアは、軽く体を起こしながら言った。
「この街で、あの人に見つけられない場所はありません」
自信でも、誇張でもない。
ただの事実を述べる口調だった。
「ですから――安心してください」
……安心、か。
リリアがそう言うなら、きっとそうなのだろう。
だが。
俺はまだ、その“安心”の正体を知らない。
デズモンド。
知っている名前だ。
だが、その中身を俺は理解していない。
王宮とは違う世界。
リリアが信頼する男。
そして――この街の“現実”を知る存在。
一つだけ確かなのは。
これから会う男が、俺の知っている“味方”とは違う何かだということだった。
根拠はない。
けれど――
こういう勘だけは、外したことがない。
前世で、何度も痛い目を見てきたからだ。
月明かりの下、街を見下ろす。
遠くに見える王宮の光は、どこか別の世界のもののようだった。
その下に広がる闇。
そこにあるもう一つの世界。
俺の知らない現実。
その入口に、今から向かうのだと。
――なぜか、そんな予感がした。
―――
夜の街を駆け抜ける。
屋根から屋根へ。
石と瓦が連なる上を、風のように走る。
いや――走っているのは俺じゃない。
正確には、リリアに抱えられて運ばれている。
「少し揺れます」
事前に言われた通り、次の瞬間、視界が大きく跳ねた。
高低差のある屋根を飛び越えたのだろう。
下を見れば、暗い路地が流れていく。
人影はまばらで、どこか息を潜めたような空気が漂っていた。
さっきまでの華やかな会場とは、まるで別の世界だ。
同じ街、なんだよな……ここも
そんなことを考えていると、リリアが速度を落とした。
「到着です」
ふわりと地面に降ろされる。
そこは建物と建物の隙間のような場所だった。
入り組んだ路地。光はほとんど届かない。
奥に進むと、さらに空気が変わる。
湿った臭い。
かすかな生活音。
視線。
見られている。
だが姿は見えない。
……ここが
言葉には出さなかったが、理解はしていた。
スラム。
すでに知っているはずの場所。
だが――夜は、また別物だった。
「……来たか」
低い声が響く。
その声だけで分かる。
「デズモンドさん」
闇の奥から、一人の男が姿を現した。
相変わらず無駄のない立ち姿。
ただそこにいるだけで、空気が締まる。
「随分派手にやったみてぇだな」
呆れたような、だがどこか楽しんでいるような声だ。
リリアは軽く頭を下げた。
「想定内です」
「ほう」
デズモンドは一瞬だけ笑う。
「お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
そして、視線がこちらに向く。
「で――お姫様は無事か?」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
軽い。
あまりにも軽い。
「……はい。一応は」
そう答えると、デズモンドは鼻で笑った。
「一応、か」
間が落ちる。
その沈黙が、妙に重かった。
「ここに来たってことは、追われてるんだろ」
「はい」
リリアが即答する。
「しばらく匿っていただければと」
「……いいぜ」
あっさりと返ってきた。
だが。
「ただし」
その一言で、空気が変わる。
「ここは王宮じゃねぇ」
低く、はっきりとした声。
「守られて当然の場所でもなけりゃ、助けられて当然の場所でもねぇ」
視線が突き刺さる。
「分かってるな?」
――試されている。
そう直感した。
逃げるのは簡単だ。
リリアの後ろにいればいい。
何も言わず、守られる側でいればいい。
――今までみたいに。
でも。
それじゃ、ダメだ。
さっき、自分で気づいたばかりじゃないか。
守られているだけの自分の軽さに。
依存しているだけの自分の弱さに。
だったら――
せめて今くらいは。
俺は、一歩前に出た。
その一歩は、きっとまだ軽い。
それでも――
踏み出さないよりは、ずっとマシだ。




