18
ふっと、サラが指先で操作するような仕草をして―――投影制御、まだ見ぬ知覚、顫える神経をまさぐるように宙空に透過ディスプレイを浮かべた。それは翼の補修作業のようでもあったし、見ようによっては、堅実な市民の未確認飛行物体に関する報告と実演と言えるかも知れない。実際、透過ディスプレイにまだ馴染みがない僕には、何処に透過ディスプレイの起動スイッチがあるのかもわからない。後学のためというより純粋な興味から一つ欲しいが、やはり不要だろう。
僕はそもそも、ああいうものの使い道がよくわからない。
ともあれ、『緊急連絡』のようだ。
それから、耳元に風になびく妖精といった風情でイヤホンのようなものを優雅に装着した。携帯電話にもなるようだ。空気は透明なので、空気の動きそのものが透明で滑らかな生き物のように動いている。
―――しかしそうは言っても、こんなに美味しい炒飯やラーメンにお目にかかれるものじゃない。去勢された猫のように温和しく、ラーメンをすすっていた。電話をしている時に、食べ物の音をさせるのはよくない、というのは家族ルールだ。もうこの時は、両親のことも僕は思い出していた。呼吸をしているとは信じられないほど、スパゲティーをフォークに巻きつける男の図。が、サラの表情が数十秒もしない内に暗くなった。サラが一瞬こちらを見て、意味や情報や伝達に従うように首を傾げたので、食べるのを止めた。何かを我慢するように唇を横に引き結んでいるのが印象に残った。
*
〔自閉的である〕とか―――。
〔現実の接触の欠如である〕とか―――。
〔内的な緊張〕とか―――。
*
ロボットが、事情を察したように近寄った。回転するシリンダー内を移動する物質。関係が生成する場面―――また『殺人事件』でもあったのだろうか。僕も、『虫のしらせ』のようなものを感じて近寄る。サラの気苦労は臨界点に達していて、ダーウィンの最初の仮説を首尾よく確認するみたいに、おおよそありえないほど眉間に皺が寄っていた。非手動的特徴の獲得という興味深いパターン。
「その―――」
と、サラが学校で見せた間とは違う、あそこには言葉や、行為、表情は、とらえられて解釈される共感というのがあった。この事例とは違う。明らかに言いにくくて、一拍置いた間のあと、いまなお、要約され、解説され、おおよそ注釈され続けているであろう思考のなかで、
「不味いことになったわ」と、静かに打ち明けてきた。
「何があったんですか?」
*
サラの表情を見ていて、
『今日は塾に行きたくないなあ』とか、
『今日はアイツと遊びたくないなあ』というそれを思い出す。
―――話したくない、ということなのだろう。
*
「―――ユウトさんに、隠したい気持ちもある。でも、万が一のことがあった時、ユウトさんに責められたら―――と思うと・・・・・・・」
一体この人は何を言っているんだと思う。具体的な地盤なしの無媒介的な―――『信用』が、陰謀や隠蔽工作にすりかえられてゆく
「私はもう立ち直れない気がするから―――」
サラの心がおそろしいほど透けて見えた。
あれだけ大人びて見えた、内側にはこんなにも脆い昆虫の羽根のようなものを抱えている。一つの層を剥ぎ取るだけでその下に何か他のものが見える、操られている、監視されている、唐突にどこからか別の声がきこえてくる。だから次に見るものに驚かされる。言葉という言葉は、本来統制を失ったもののように思えるのに、編むことでほどけたものにまったく違う形を作り出すことが出来る。
「―――だけど驚かないで・・・」
「はい」
「たぬきとあらいぐまとレッサーパンダが人質に取られました」
ガクッとした。
すさまじい勢いで、息苦しくなる―――音紋。
頭の中に鋼鉄の枠でもあるように―――箱庭のなかへ、スポットライトが外部へあてられるように、指をパチンと鳴らせば、すぐにその顔が浮かんだ。純粋なアルコールのように迅速くしみこむ。昨日というおぼろげな現実。矢継ぎ早にフラッシュバックする、やわらかい風。『校庭で黒い三連星がロー・テーブルで食事をしていた光景』や、『天体観測の味わいのあるナレーション』や、『哲学的な肝試しに興じる様子』や、『一緒にビールを飲んでへべれけになっていた』ことなんかを。アニメみたいな奴等。それが言葉の届かない遠いところへ消えて行こうとする。音のない世界。生命活動のない世界。僕は時間の枠組みを越えて感覚の世界に入っていく。そこには、ぼんやりとしたものが潜んでいた。好意や、喜びという単純なものはどうしても止まらない。青い水底をよぎる魚群のように、僕の心を悲しみや、どうしようもない不安へと連れてゆく。
「いつですか?」
「一時間前のようです」
サラは、嘘をつかないと決めているようだった。感情をこめず、淀みなく、話している。でも自分の言葉を軽薄な阿諛の言葉のように思う。そんなことよりも聞くことがあると思いながら、それでも間抜けにそんなことを聞いている。退屈で、間抜けで、気詰まりで、むっつりとしている僕の無作為な抽出。聞くべきことは、―――言うべき言葉は・・・。
「―――病院で捕まえられたようです」
事態を悪い方に考えてしまう気持ちを何とか引き戻しつつ、訊く。見殺しにするという選択肢はないと思うが―――さかねじを喰らわせられた気分だ。
「どうするんですか?」
サラは一瞬、視線を逸らした。正直だった。もしものことを考えたら、誰だってそういう反応になる。まるで、悪漢がいたいけな少女の手を強引にねじりあげたような場面。
「取り戻します、絶対に」
だって、と滲むような調子になった。
*
至近距離内にある袋小路。
[端正な配置]
[フォーカスのポイント]
高等裁判所の承認の印もないというのに―――。
無邪気な時刻表。
無声化。圧縮。
でもそういうのが『妄想』ではなく『現実』という実感を強める。
*
「だって―――ユウトさんの大切な友達ですから・・・」
うるっと、きた。
間抜けだ。他人に言われて、いまこういう状況になって、僕はもうかなり深いところまであの三人組を信用して、だからこんなもがくような進行を感じる。そうだ、もう、たぬきや、あらいぐまや、レッサーパンダは僕の友達なのだ。今日の夜には病院で黒い三連星がいなかったら僕は楽しくないのだ。温泉にきっと入るのだ、それで一緒にビールを飲んで―――そう考えながら、首を振りながら、無意識の内に、ぎゅっと、拳を握りしめていた。でも、その時どうして僕はそんなことを言ったのだろう。
「―――サラ、僕も連れてってほしい」
一瞬、予想外の間が出来た。
ぽっかりと開いたサラの口が物語っていた。
「でも、ユウトさんは―――」
動揺していた。
あれほど余裕ぶって見せていたサラが明らかに動揺していた。
「駄目です、絶対に絶対に駄目です。誰が許可しようと、私が絶対に許可しません。ユウトさんに、もしものことがあったら―――私は・・・・・・」
私は何だって言うんだろう。
サラは明らかに、何かを隠している。
どういうわけか小さく首を振ったように見えた。
彼女の『動揺』や、『口の重さ』ならびにこの『辛そうな表情』には何かとても大切なことが隠されている。そしてこういうサラが、普通に許可してくれるわけもない。
もちろん、僕だって『戦力にはならない』ということも、『足手まとい』ということもわかっていた。でも、僕はこの時、冷静なぐらい冷静だった。一枚どころか二枚も三枚も上手の相手に交渉をする時、弱みを一切見せてはいけない。何故サラが話した。考えろ、簡単だ。僕が交渉の道具になっているからにほかならない。彼女は最後の最後までその一枚を隠しておきたい。でも僕は見破る。
「サラが昨日身に着けていた黒レザーは、パワードスーツじゃないの?」
サラが眼を丸くするのがわかった。
実用化されるだろうという話はあったが、やはり、実用化されていたのかと思う。実際、黒レザーを脱いだサラは誰がどう考えても華奢な、か弱い女性でしかなかった。百歩譲って、超能力だということも考えた。でも、サラが超能力を行使する場面を僕は一度も見ていない。超能力を使えるのなら出し惜しみする必要性なんかない。
「あれを用意して欲しい。それを身に着けて、―――僕が人質交換に臨む。申し出てくれ、サラ。彼等は昨日、僕に危害を一切加えようとしなかった。多分、僕が交渉の道具になるからだろう。逆に言い換えれば、施設側が僕を交渉の道具に立てれば、たぬきやあらいぐまやレッサーパンダは必要ないことになる。彼等だって、三匹よりも、一人の人間の方が扱いやすい。それに、油断もする。これは第二人類を一網打尽にするチャンスなんだ」
ロボットは首を左右にコミカルに振った。
どうやら、考えてくれているようだった。
「ユウトサンガ、ソウシタイトイウノナラ、止メマセン」
しかし、サラはロボットを物凄い顔で睨んだ。柳眉立つ、だ。
あるいは―――恐逝的指導。
異様な誇大妄想と被害妄想をかかえたパラノイアといわんばかり。
サラはしかし、何も言わず首を振った。
命知らずなことに、いい顔をするわけがない。
「ユウトさんは、第二人類たちのことがよくわかっていません。彼等をキチガイという言葉を使ってもいいのなら、本当に気が狂ったような殺し方をします。いいですか、ユウトさん、殺した動物をですね、わざわざ、胴体に何十本も針を突き刺して喜ぶような頭のおかしな奴等なんです。わざわざ腸をえぐりとって、心臓に石を詰め込んで喜ぶような奴等なんです」
僕は想像してみた。猟奇的な―――というところをあえて、『キチガイ』とか、『気が狂った』とか、『頭のおかしな』とまで言ったようなことを。確かに、まあ、残酷なことに昏い情熱を燃やしそうな連中だという気はした。
というか喩えが生々しいだけに、どうも本当のことなのだろう。
冥きもの、―――慰めなきもの・・・。
コップの中を立ち上るものかなしげなソーダ水の泡。
ある種の人間というのは、残酷なことに限界はなく、また、いくらでも思いつく。でも、サラが僕を思いとどまらせようとしているようで、それは逆効果だと気付かないぐらい、彼女も動揺している。だって、そんなことを言えば、余計にそうさせたくない、そうさせるものかと思えてくる。
僕は、隠していた手札を出す。舷梯。
「夜中に、学校の屋上で僕のために誰かが殺されたという話を聞いたよ」
サラが瞬間、舌打ちした。
考えてみればだが、あの時のサラは明らかに変だった。
冷静沈着で、いつも一枚上手のようなサラが、もしかしたら聞かれるかも知れないとか、そんなことをちっとも考えていなかった。想像する。僕はサラの性格を誤解している。彼女はおそらく、腸が煮えくり返っていたのだろう。でも感情を表には出さず、冷静に怒っていたのだろう。
「ユウトさん、盗み聞きは―――マナー違反よ」
僕はそこで、昨日の盗み聞きを考慮に入れながら、喋った。多分それが、サラの心を開かせる最後の判断材料になるだろうと推理して。まるでロッキングチェアーに揺れながら喋る老人みたいに言った。
もちろん、いまだって―――。
・・・・僕は誰で、何者で、あるいは何を求めて、
何処へ、ゆくのか知れないのだ―――けれど・・。
「でも、僕はもう十分この施設に満足した。僕はこの施設がどういう理由からであれ、僕を生かそうとしてくれている、受け入れてくれているのを感じた。もし願わくば、この施設とともに、生涯を終えたいと思う。こんなこと、軽はずみに言っていいのかわからないけど」
「サラ、モウコレ以上、隠シゴトハヤメヨウ」とロボットが言った。
僕への助け舟というより、もっと別の理由からの判断のような気がした。
そう言うと、サラが眼をつぶって息を吐いた。
羅針盤。
ロボットが、そっとサラの肩に手を置いた。
どうやら、僕の思い通りの話で進んでいきそうだった。
サラのうなだれたような表情と、賢そうな眼の動きが戻った。
「いま、彼等は政治スペースにいます。三〇分以内に殺すと息巻いています、あなたと交換しろと言っていました。正直、一番賢い選択は、ユウトさんの言う方法だと思います。下手に牽制をすれば、誰かを殺すことだって有り得ます」
サラは賢明な判断をしている。
「いまから、ユウトさんの人質交換を申し入れます。彼等は肯くと思います。彼等にとっては、たぬきや、あらいぐまや、レッサーパンダの命なんてどうでもいいことなんて、わかっていますから―――いますぐ、連絡を入れます。ですが、ユウトさん、それは二時間後です」
どうして二時間後なのかはすぐにわかった。
彼女は全部話すと言っているのだ。
そう言って、サラは悲しそうな顔をした。
「でも、どうか忘れないでください、ユウトさん。確かに、ユウトさんに何かがあっても、施設側は、何ほどのリアクションも受けません」
でもそれは嘘だ。橡皮筋だって思う。歴史的素因の複雑さを、『不条理』や『無力』によって、からめられてゆきそうな時―――。
サラは、そう思っていない。
それだけが、他者無しに自立した言葉はないと想像させる。
「けれど、そうなった時は、今のユウトさんと同じように、たぬきや、あらいぐまや、レッサーパンダだって悲しみます。怒ります。彼等は卑怯者ではありません。いまのユウトさんと同じように知性だけでは手に入れることのできない、本当の勇気を持っています。みんな、心の底から助けてほしいと思っています。困ったことになったと途方に暮れて、泣いているかも知れません。可哀想だと、心が痛みます。でも、多分みんな、ユウトさんの命と引き換えにして助かりたいなんていうおこがましいことは考えていません。それは私だって同じことです―――」
サラの調子には、何か言い知れない迫力があった。
脅し文句というのではない、もっと根深い、昏い闇の蟠りようなものがそこに感じられた。
「もしあなたに何かあったら、彼等はそのことを一生、十字架として背負うことになります―――私のようにです」
*
サラの眼からぽろりと、何の拍子もなく、莢から胤が落ちてくるみたいに涙がこぼれおちた。でも、泣き声はあげなかった。
狭く焦点を絞っていくような―――特別な悲しみ、彼女しか知らない体験。
サラは気丈で、誰に対しても弱音を吐いたりしなかった―――緋色の唇は、その精神のあらわれのようにも見えた。僕はサラをすごく傷つけたのだろう。
絶対にやってはいけない類のことをサラにしたのだろう。
少し離れた引き込み線路の上に一定間隔で回ってくる、声、聲・・・。
視界の硝子に、小さな手が、こびりつく。
*
「でも、サラ、理解してほしい」と僕は言った。
*
彼女の手を僕はぎゅっと握った。
すっかり冷たくなっている、手。
無意識の論理も周到な思考もどんな曲がりくねった展開も―――。
異様に拡大する―――【穴】
信天翁なら簡単に見つかる―――けど・・・。
誠実さが最も重要だと思った。
そして真実はどんな事案をも不要にするのだと思った。
ほかにどんな方法も思い浮かばない。
問いの入り口で既に迷宮に入り込んでいるような気がしながら、言う。
*
「僕はサラのことがすごく好きだよ」
*
なんだか、女性をたらしこんでいるような気もしないではなかったけれど。
いや、きっと正直さや純粋が自然そういう境界や囲いへとゆくのだろう。
『周りの状況/現実』から眼を通して舞台の『状況/推移』を見つめていると、
『もう一人の僕』という『視点/まなざし』
妖精のヴェールにも似た淡いけむりをもつれた糸にして・・・。
消波用コンクリートブロックのように待ち構えている、印象じゃなくて。
鏡の中で邂逅う―――海底で息をするような感覚。
―――誰かに、自分の気持ちと同じでいてほしいと希ったりする。
あの日の僕がそこにいて。
あの日の僕は―――前方へ、上方へ、進もうとしている・・・。
絶え間ない法螺貝のざわめき。
*
「好きだから正直に言う。人の心は、そんな簡単に割り切れるものじゃないんだ。でもそのことで、サラを傷つけたら本当にごめん」
サラが一瞬、身体を震わせるのがわかった。本当に一瞬だけ、彼女は人間らしいところを見せた。長い髪をばっさりと切って立ち直ってゆくような変身のプロセス。だからすぐに、また別の顔を浮かべた。すうっと息を吸い込むと、テキパキと行動を始めた。サラは、心の切替が上手だ。僕が逆の立場だったらどうだろう。あんな風にすぐには動けないだろう。カウンターにある炒飯やラーメンはもう冷たくなっていた。もう呑気に食べる気はしない。




