何か質問は?
凛とした、小さいけれどよく通る声がした。久しぶりに聞く、稀子の声だ。
「昨夜の天気を思い出してみよう。昨日は夕方から雨、一時やみ、また降り出した。夏奈はちょうど、雨がやんだ時に転落した。――そうだね?」
僕は頷く。
「七海が見たとき、ベランダには発泡スチロールの箱が転がっていた。竹製の物干し竿は外へ飛び出し、柵は凍りそうなほど冷たかった」
そこまで整理すると稀子はぴん、と人差し指を立てた。
「氷は、どこへ行ったのだろうね?」
「・・・・・・あ」
そうだ。あのベランダに氷はなかった。でも、四十センチメートル四方の箱に入っていた大量の氷を屋内で処理するのは難しい。
「普通、氷を処理するには湯をかけたりするものだけど、生臭い魚と密着したせいですっかり匂いの移った氷を、屋内でわざわざ処理する人は少ないだろうね。昨日は蒸し暑かったのだし、佐々木さんはベランダに氷をぶちまけて、溶かそうとしたんじゃないだろうか」
このマンションは、雨水を集めて流すパイプが各部屋に設置されている。ベランダに生臭い水をぶちまけたところで、誰にも迷惑はかからない。
「氷を溶かしていた小雨はすぐにやんでしまった。僅かに溶けかけた氷は、まだ溶けていない周囲の氷によって冷やされ、再び凍りつく」
稀子は立ち上がり、窓を開け放ってベランダに出た。足元を見つめ、僕にも見るように促す。
「分かるかい、七海?」
「傾斜がついてる? パイプに向かって雨が流れ込むように、傾いているんだ」
「そのとおりだ」
舞台俳優のように手を広げ、稀子はまさに今自分が立っているところを示した。そこは、夏奈が転落する直前まで立っていたと思われる場所――。
「氷は傾斜がついたベランダを滑り、この付近で再び凍りつく。大きな塊となってね」
白い手を、すうっと左から右へスライドさせる。
「物干し竿は、このベランダ全てを使うと三十センチメートル分ほど湾曲する。だが、塊となった氷がここを塞げば」
物干し竿を手にとる。
「きっと、五十センチメートル分はゆうに曲がるだろうね」
細腕にぐぐっと力をこめる。竹は簡単に曲がった。
「普段よりもずっと力を溜めた竹は、ほんの少しの衝撃で一気に弾け飛ぶ。さっき、実験しただろう」
あれだけ大きく弾け飛んだ竹。もし、あの上に人がいたら。その人が、小柄で体重の軽い子供だったとしたら――!
「夏奈はおそらく、ベランダへ走りこんだ。『亡き父親からの手紙』に記された時間ぎりぎりだったのか、早く父に会いたかったのか・・・・・・。その足元には、たわめられた竹がある。夏奈が飛び乗った衝撃で竹は一気に力を爆発させて・・・・・・」
そこまで言えば十分だった。僕は無意識に両手を固く握り合わせる。
「夏奈の転落は事故であり、佐々木春佳は無実である」
一瞬の後に開かれた瞳は、鮮やかな強い光を宿していた。
「以上が、私の導き出した結論だ。何か質問は?」
僕は無言で首を振る。
稀子は目を伏せて溜息をつき、その桜色をした唇を閉じた。




