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ヴェーラが戻ると、館長はカウンターにもたれて立ち尽くしていた。その足元ではカラスが行き来している。
「“迷い人さん”に贈り物をするのは久しぶりでしたね」
「そうだね。あんたの引きの強さには驚くよ」
館長は一息吐くと、空になった二つのマグカップをプレートに乗せていく。
「何も考えていませんでした。本棚の整理をしていただけで。でももしかしたら、少しずつ力が移ってるとか?」
ヴェーラが館長を手伝おうとプレートに触れたものの、それはあっさりと取られてしまった。
「あんたの願いは、もっと別のふさわしい形になるさ」
館長が片付けようとしたその背中に、ヴェーラはふと口を開く。
「でも……どうしても、私にも同じ力があればと考えてしまいます」
本と本棚がある限りここは失くならない、と聞かされてきた。だが守る者は決して永遠ではない。ヴェーラは今日、そのことでも胸が重くなってしまう。
「ここの本が全て世に出て空っぽになれば、ヘッドはどうなるの? もしくは、貴方の身に何かが起きたら?」
ヴェーラの顔がどんよりとしはじめると、館長は片付けを止め、その頬にそっと両手を添えた。
「私には幾つも居場所がある。言ってしまえば、いつでもどこにでもいるんだよ。たとえその時がこようともね」
しかし半分も納得できず、ヴェーラは館長の言葉を下唇に噛みしめ、眉を寄せる。
“だからあたしが、もうひとりのおてつだいさんになるの!”
それは幼児の頃からの夢であり、叶えるために、ハロウィンを含む三日間だけ開く不思議な“BAR”に毎年出かけた。そして、そこで必ず出会うバーテンダーと主が一体、他の362日をどこでどう過ごしているのかが気になるようになった。ところが毎度それをたずねても、二人は教えてくれなかった。
それが、自分に手伝いなどできないと言われているようで歯がゆかった。だから見よう見まねで、飲み物やパワーストーンの勉強をした。他にも、たくさんの国の人と話すために基本的な言語を学んだ。
「私は、あの時に入った古書店での感覚をずっと覚えてます」
ヴェーラの静かな切り出しに、館長はそっと手を引いていく。
「貴方に言われた通り、私は人間として学びを重ね、信じることを止めずにきました。だからあの日、本棚の前に立つお客さんが貴方だとすぐに気づけた」
何のためらいもなく声をかけた。直接名前を呼ぶのではなく、敢えて自分の夢から話しかけ、振り向いてもらった。
「そうそう、あれもまた驚いた……思えばその時から、あんたの読みは鋭かった」
館長が穏やかにその頃を懐かしんでも、ヴェーラの眉間はまだ頑なに溝を残すままだった。
「迷った時は立ち止まり、考えること。焦らないで、まずはその場と先をじっと見つめてみること。そうして私は今、貴方の言う“私が使える唯一の術”を手に入れられたと思っています。でもこの先、私はそれだけでお二人のお手伝いをできますか? ここを守れますか?」
必ずしも誰かと同じでなくていい――昔にくれた言葉がまた、脳裏をするりと過ぎていくと、ヴェーラは視線をじっとりと落としていく。
そこに、カラスが凛々しい瞳を向けてきた。切れ長の艶やかな眼差しをキッと尖らせると、ヴェーラの心にどんどん渦を巻いて広がる不安を払うように一声上げ、翼を鳴らす。カツカツとくちばしを打ち、館長に何かを告げようとした。
館長はカラスをしばし見下ろすと、重くなってしまった空気を静かに支えるように、ヴェーラに微笑みかける。
「こうして私に“人間”として向き合うのはいつまでも、ヴェーラ、あんただけだよ。蹴飛ばしたり、どこかに投げられたりしないんだと安心できるんだからね」
そこらの石ころとは、自分はワケが違う。鈍くあれ、土にまみれて輝きを放つモノだからこそ、カラスが遠い新しい世界へと誘ったのがはじまりだった。
生まれたままでは他の石とは見分けがつきにくく、紛れて埋もれてしまう存在。だから自ら磨いて変わること――その生き方が人と同じとはいえ、あらわになりはじめる自らの輝きは、誰かによっては異質に思われやすかった。力が磨かれ漲るようになればなるほど、暮らす場所を変えざるをえなかった。違っているまま、在るがままをなかなか受け入れてもらえない時ほど、この身を元いた鉱山に潜めておきたくなり、つきまとうカラスを責めたこともある。
けれども、館長は古い思い出にかぶさる埃を吹き払うよう、柔らかに息を吐いた。
「この姿を持ち、人が生きる世界でこのまま息をしていたい。そう思い直せるようになれたことこそが、私にとってこの上ない幸福。そしてそれを授けてくれたのは、あんた達二人であり、表現豊かな人々なんだと気づくこともできた」
どこか心が弾むように話す館長に、ヴェーラの顔から力が抜けていく。
「ところで。ここの本が空になるってことは、ここが表に出て“自由に行き来できる場所”になるということなんだよ」
「え!?」
ヴェーラはたまらず声を上げる。しかしその足元では、カラスが鼻を鳴らすように唸ると、首をクイッと曲げた。そんな態度をそっちのけに、館長はゆうゆうと続ける。
「誰もが訪れられる図書館になる。でもそうなるということは、貢献欲に満ちた世界が生まれているということでもある。つまりそれは、とてつもない難題……残念ながらね」
「人々が無償で何かを贈り届ける世界……確かに。でも、私も考えることはあります。そうなるために労働を止めれば果たしてどうかという哲学を話す方も、実際にいらっしゃいますし。難しかろうと、考えを深めることに価値はある。私はそう思います」
館長はヴェーラに大きくうなずくと、大人しくなるカラスをいたずらに笑った。
「この話、あの碧生という“表現者”が聞いたら何て言うだろうねぇ」
ガアアッと、いい終わりに怒鳴り声が被さった次の瞬間、カラスは逃げるようにどこかへ飛び立ってしまった。
「ああそれとねぇ、ヴェーラ」
館長は、ぐっと顔を近づける。
「石はそう簡単には死なないんだよ」
その瞳にじんわりと過る金色の光の線に、ヴェーラははっとした。ニッカリと歯を見せる館長が意味するものに、次第に目を見開いていく。
目の前の、ずっと変わらないその人と、その生き様をじっと辿ってみる。いつまでも長くその姿を保てている、保ててしまう理由――それが閃いても、声にはせずそっと胸に秘めるように仕舞った。それと入れ替わるように、ふつふつとくすぐったい笑いが込み上げる。
そんなヴェーラに館長は胸を撫で下ろすと、カウンターに置いていたプレートを握り直す。
「落ち葉の舞は、寂しさや不安を呼び寄せる。それは言い換えると、“Oíche Shamhna”がそこまで来たってことさ。新年を迎える準備に心が忙しくなるんだよ」
「そうかもしれませんね。なんだか、ごめんなさい」
ヴェーラは指先をもつれさせる。すると館長は、やはりと、改めてプレートを差し出した。
「分からないでもないさ。ただ、あんたの心配するようなことが起きたって、私が知らぬ間に片付けてる。これを預けるのと引き換えに、その果てしないものを私に預けてくれないかい?」
ヴェーラはプレートをしっかりと握ると、館長を上目に見る。
「物語も悩みも常々あふれかえっているんだよ。あんたさえよければ、“おてつだいさん”をまだまだしてもらいたいんだけどねぇ?」
館長の瞳にうごめく光がチロチロと奥に沈んでいく時、ヴェーラの顔に、ようやくいつもの陽が射しはじめた。
「もちろんです。引き続き務めさせて頂きます。と言うか、やらせてください」
たった独りの不思議な人と、妙なカラスが共に暮らしているところがある。そこにもまた、悩みと願いが根を張っている。それに自ら気づけた瞬間、棚に潜む“表現の輝き”を支えたくて、今日まで動いてきた。そのことを確かめるように振り返ると、ヴェーラは、そっと胸の棚に大切に納めた。




