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何もかもが気になるばかりで、紫穂はやはり一度梯子を下りることにした。
「驚かせて申し訳ございません。こちらは当館のポストマン。とても優秀なカラスなんですよ。さっき紫穂さんが落ちるかもしれないと見て、目の前を横切って梯子を掴むよう促したみたいです」
「はぁ……」
紫穂は、カウンターを歩くカラスを目だけで追う。カラスはじきに、道の終わりにある止まり木に移ると、くるりと紫穂を見つめ返した。
日本のカラスよりも小さく、目つきはどこかシャープでクールだ。人の顔を見るように、その表情を眺めてしまう。言われた通り優秀そうで、凛々しくもあり、仮に公園で他のカラスと紛れていようと見分けられそうな気がする。首輪と同じ役割なのか、片足にはめられた輪の石がキラリと光った。
そこへ、ギイイッと椅子の音がし、紫穂は何気なく振り返ると
「部屋着というよりはパジャマだね、それは」
カウンターのソファチェアが回るなり、じっとりとした低い声が流れた。
「ひゃあっ! あっ、す、すいません!」
ぽっかり空いていたはずのそこは、てっきりヴェーラの仕事場だと思い込んでいた。紫穂が首をすくめて後ずさるところ、ヴェーラは優しく笑いかけ、手前のアームチェアを引く。
「こちらは館長です。私はヘッドと呼びますが。さ、どうぞ」
どうぞと言われてもと、紫穂は息を呑む。一体いつ、どこから館長は現れたのかと、館内をぐるりと見回してしまう。すると、棚に一つの扉が紛れているのを見つけた。 よくあるレバーハンド型のノブは、使い込まれた木造のデザインと相まって、レトロな雰囲気を醸し出している。ガラスにはカフェカーテンがかかり、そこから漏れ出る光が柔らかに遮断されていた。
「ああ、そのドアは私の通勤ルートです」
「はい!?」
次々に舞い込む情報をどう処理してよいか分からないまま、紫穂はとろとろと椅子へ回り込みつつ、不思議に明るい扉を見つめる。
「向こうは今お昼ですからね。ところで、ヘッドはどこからでもおいでになるのですよ」
どこか楽し気に話すヴェーラだが、紫穂は目をしばたくのがやっとだった。
「余計に混乱するよ、ヴェーラ。それよりコーヒーを頼んでいいかい? このあいだ頂いたものを試してみたかったんだ」
館長の緩やかな声かけに、ヴェーラははっと指を立てる。
「先日おいでになった、グアテマラの方の差し入れですね。私も頂いても?」
館長はうなずき返すと、ヴェーラは軽やかなステップでカウンターの後ろへ行ってしまう。
そのままどこへ行くのかを見届けようと、紫穂は半ば身を傾けてその背中を追うのだが
「ニュースレターにあった紫穂さんですね。ようこそ“本棚の向こう側へ”」
「へ!?」
意識はまたしても逸らされてしまった。
「……それ、新聞ってことですか!? 私、新聞に載ってました!?」
紫穂がカウンターに身を乗り出す手前、館長はゆうゆうと椅子に背を預ける。そして、腰掛けるようそっと手を差し出した。
「ポストマンは、特定の“表現者”の情報を届けるのが仕事でして。貴方のことは少し前から存じ上げております」
紫穂はポカンと口を開けたまま、そのポストマン――カラスをチラと見やると、また館長に向き直った。
細身で、年齢は五十代くらいだろうか。しかし還暦を迎えているというドッキリが隠れていそうな気配もする。ニットとショールは秋らしい色合いで、見ていて和やかだ。首に下がる丸メガネが淑やかに金色を放ち、いいアクセントになっている。後ろで丸くまとめ上げた黒髪の一筋が、こめかみかに垂れ下がって細かく縮れていた。ソファチェアが、ここの長である印象を十分に与えてくる。 珍しくない黒い瞳には表情があり、何とも奇妙な感覚だ。
そんなザワつく感情をそっと息に吐き出すと、手前でぼんやりと灯るインテリアが気になった。淡い水色を放つそれは、随分とゴツゴツしている。
「それはクリソコラの原石です。心を穏やかにしてくれ、表現力を高めてくれます。母性の石と呼ばれ、地球そのもののような存在です」
「表現力を高める、地球みたいな石……?」
紫穂の声に、館長はのんびりとまばたきする。
「ここにはあらゆるパワーストーンが置いてありましてね。様々なお気持ちに寄り添ってくれます」
それを聞いて、紫穂は辺りの見え方が変わった。そして、先ほど本を抜いた向こうに見た誰かの姿を思い出す。懸命に何かを生み出そうとする背中は、自分とは手掛けているものが違っていようと、どこか似ている気がした。
「さて、紫穂さん。貴方は“なぜ書くのですか?”」




