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天気予報によると明日は雨らしい。ヒツジ雲を眺めていたランは、パカッと携帯電話を開くと、両手の指で丁寧にボタンを押していく。
あ行、さ行、た行。は行に、か行わ行。もう一度た行とか行で、最後にた行へ移ると、やっと送信ボタンを押した。
新しいものにまるきり興味がないわけではないが、どうしてもこの方が楽なのだ。周りを見れば、同じ七十代手前の人でも最新機器を扱っている。そんな時、ほんの少しだけ心で立ち止まり、新しいことを学んでみるべきかと考えるのだが
「まぁ、いいのよ」
と笑い、台所へ向かう。そしてまた、ろくにパッケージも見ずに買い物をしたせいで間違えてしまった玄米茶を煎れた。
急須に、湯呑を二つ、白樺でできた菓子入れにあられとクッキーを盛る。そして、リビングで座布団の守になりかける夫の隣に腰を下ろした。
「一服か。早いな」
「明日、あの子達が来るのに天気が悪いって聞いたから、連絡しなきゃと思って。この後また続きをするわ」
ふうん、と、夫の低いあいづちが湯気にのっていく。
「何だかんだ言いながらも強情だな。俺ならキッパリ諦める」
夫は言うと、醤油味のあられの袋を破いた。
それがコロコロと夫の口に入っていくのを見ながら、ランは玄米茶を啜る。
「夢があることは、いくつになっても大事だわ。貴方も何かすりゃいいのに」
「するって何を?」
ガリガリと、夫の含み笑いが砕けていく。
ようやく余暇を楽しめるようになってまだ日が浅い夫は、何かを意欲的にしようというよりかは、しばし心のままに日々をダラダラと過ごしてみたいようだ。
その反対に、ランはそれがどこかつまらなく感じる。けれども夫は仕事漬けだった。慌ただしい暮らしをする理由はもうない。ほんの少しの動力があれば、あとは余白をどう埋めるかを考えるだけのことだ。いつだって真っ白な紙に何を描くかは自由でありたいと、また湯呑に口をつける。
「そうだわ、棚の整理をしたいの。もう用が無い本はまとめてちょうだいな」
夫はテレビのチャンネルをあちこち変えながら、うーんと適当に唸る。
「何もかもではないわよ。開かなくなったものは、また別の誰かさんに開いてもらえるようにするの」
「そうか。またやるよ」
夫は言うと、今度は塩味のあられ袋を破き、ポロポロと摘んだ。
三十分ほど経ち、ランは再び部屋に戻ってきた。
デスクトップでは執筆に必要なことしかできないくらい機械音痴で、夫や息子がいなければトラブル対応などとんでもなかった。
話を書いてみようと思い、実際に書くようになって十年を過ぎた。今でも年に一度出せるかどうかの頻度だが、公募に出してみている。しかしなかなか夢は実現しない。悔しさはあるけれど、その気持ちも少し経てば和らいでいく。同じ気持ちの中に入り浸るより、もっと大切なことがあると信じて。
「あら……これは確か、フリーズとか言うやつじゃない? いやぁねぇもう」
少女が主役の冒険譚が途切れてしまった。
座ったばかりのところまた立ち上がると、横の本棚に向かった。フリーズは時として、時間を置けば解決することもあるらしい。それを待つ間、一番上の棚の一冊に手をかけた。息子が小さい頃に読んでいた海外ファンタジーだ。
夫と同じ印刷会社を退職し、主婦を長く務める間は、子ども食堂の手伝いや保育補助をしてきた。ランにとって、子どもとのかかわりは人生の中でとても長く、かけがえのない時間だった。今や大人になった息子は記事にも関心があり、電子化されることもしばしばな近頃は、どんなものを読んでいるのか。そんな話をしていた時すらも、すっかり遠ざかっている。
そしてまた、息子の口からだけでなく、孫の口からすら冒険の本の話は聞こえてこなくなった。
「……まぁ、いいのよ」
それも一つの道だからと、懐かしの一冊を床に置き、目の前に連なるシリーズをまた一冊抜いた。
純粋な問がたくさん隠れた物語。真の答えが明かされるわけではなく、主人公や読者なりに発見していく。その仕組みこそが、冒険そのものに思える。
動植物との会話。伝説とされる生き物にまたがり空を飛ぶこと。どんなに魔法の力が備わったとしても、悪者との向き合い方はいつだって対話で行われるという決まり。難しい本を通じて何らかの解を得る方法とはまた違い、柔らかくて暖かい、遠回りしてようやく解に辿り着けるという流れは、書いてみたい児童書の特徴だった。
ところが、そんな理想を叶えようとする以前に課題があった。児童向けの本を書くにあたっての必要事項を目の当たりにした途端、まるでそこのデスクトップのように固まってしまったのだ。
勉学に励むという言葉は、残念ながらあまり似合わなかった。保育補助も母親も経験した。だからそのジャンルを書きやすい、というわけでは決してない。それが分かった途端、突風に吹かれて倒されたような衝撃が走った。
壁にかかった姿見に、その時を振り返る。若くはない今、自分なりの遺し方を見つけられれば――ポッとそんな気持ちが沸き上がると、またもう一冊を抜いた。
「この子達をどうするか、明日あの子に聞かなきゃね……」
目に見えなくなれば思い出でなくなるわけではない。今日の余白は、そんなことと向き合う時間で埋めてみることにしようと、次の一冊を抜く。そして別の海外ファンタジーの列に手を伸ばそうと膝立ちをし、本棚に手をかけた拍子に、顔がぐうんとその中に寄りかかった。




