10
*
ギイイッと扉の音がしたけれど、果たしてその後、閉まったのだろうか。その音がするまでにまばたきした。たったそれだけで、ヴェーラと“本棚の向こう側”は、散らかった部屋に打って変わった。
「へっ!?」
目の前の本棚に飛びついたところで、握りしめているものに目を見開いた。右手はブックマーカー、左手は読み返すための自作で塞がっていた。
幻ではなかったのだと、その二つをじっと見つめながら、脳裏に焼きついたヴェーラの表情を思い出した。
最後は笑ってくれたが、あんな返事でよかったのだろうか。そう思っても、棚の向こうにはもう何も現れなかった。とその時、部屋のドアが開いた。
「おい」
「うをおおっ! 何!?」
何食わぬ顔で現れた父に、思わず本棚に肩をぶつけた。父は床の散らかりようから、本棚を半端に掴む藍斗を見て、ふんふんと首を振る。
「何に勝手に納得してるの……?」
「いや、行くなら俺も気になるからと思ってな」
「いやいやいいよ! 行けないから!」
ヴェーラさんを見たら父が何を言うか――想像するのも怖くなる。
ところでどうしたのかと、藍斗は父にたずねた。すると父は、おもむろにスマートフォンの画面を見せてきた。
「お前、書き直したんだな、ココ」
「……何て? ねぇ何て!? 今何て言った!?」
父は口を尖らせると、ちょろっと画面をスクロールする。
藍斗はビクビクしながらそこをのぞき見ると、自分が使っている小説投稿サイトに、顎が落ちかかる。自分の作品ページが開かれており、顔がだんだん冷たくなっていく。
「よ、よよよよ読んだの!? 父さん読んだの!?」
「読んだ」
「何で読むんだよ!」
「いや、書いてあるから。読むサイトだろ?」
「親は読まないよ! 多分……いや分かんないけど、でも絶対っ!」
自分がウェブに公開している小説を実は親がチェックしていたなんてことは、どのくらいの割合であるのだろうか。父は学生時代こそ応援してくれており、読んでもらうこともあった。だが成人した今、藍斗はウェブサイトに上げている作品を読んで欲しいと父に頼んだことはなく、言葉を失ってしまう。
「まぁ、余計なことなのは分かってる。けどちょっと……」
父からのダメ出しは無視できないし、聞けないこともなく、聞くしかない。藍斗は両手にしているものに力をこめると、父に促されるまま、共にしずしずと正座した。
「作品に入ってたコメントを読んだ」
どれのことかが分かる言い方に、藍斗は眼が震える。内心、そこまでしなくてもいいと思った。しかし父が何故それをしたのかは、自然と重くなる空気に相まって分かってしまう。
「……うん」
小説を目的にサイトを訪れたのではない。父は部屋に来るまでにきっと悩んだに違いないと、藍斗は察した。自分が不登校になったキッカケを、父はどうしても振り返らずにはいられなかったのだろう。知らぬ誰かとやり取りができる小説投稿サイトは、SNSと似たニオイもする。
「何を大事にしていくかを決める力を鍛えてくれるのは、時として棘のある言葉だったりする。でも、それと向き合う時間を長く取る人は、あまり多くない。ただお前の場合、何日もココに留めるだろう。あのコメントの主へのお前の返事を見て、心底そう思った」
藍斗は、父の胸にそっと当てがわれた大きな手を見つめた。力強く、ブレることなどきっとこの先もない。ずっと前、しばらくこの部屋にこもる生活をしてしまったが、家の空気も両親の態度も特別変わらなかった。けれども、それはそう見えていただけで、きっと当時も父は今と同じ感情を抱き、こうして真面目な声で母と話していたのかもしれない。その選択の先に、今の自分があるのだろうかと想像が膨らんでいく。
「お前が楽しくやれてるのか、それをどうしても聞きたくなった」
真面目な眼差しにしかし、藍斗は胸にぷくぷくと沸き上がるくすぐったさに、笑ってしまった。
「ごめん。何か、そういうところ似たんだろうなって思っちゃって。自分で言うのもなんだけど」
しくじったのではないかと思った時、そのことをしばらく振り返ってしまう。さかのぼればさかのぼるほど、思い当たる原因が浮き彫りになる。そしてそこから、未来をどう変わればいいかを考えるのに時間をかけ過ぎる。
「でも僕、別に父さんの提案に縛られてないから」
父が気にかけているのはそこだろうかと、藍斗は真っ直ぐ言葉にする。
「楽しい。楽しいよ。でも正直、痛いなって思う瞬間はある。かなりね。それでもまだ楽しいって思える。そこに戻ってこられるのが、今の僕」
藍斗はヴェーラの眩しい笑顔を思い出すと、父に同じように笑ってみせた。
父は、意外にも余裕な笑みをこぼす藍斗に目を丸くさせ、背中が伸びていく。
「人から注目を浴びることを選ぶなら、それ相応の覚悟が必要なんだって、考えるようになったよ。律儀に向き合う性格は、もう少し使い方を工夫する。そうすれば、もっとちゃんと為になるかもね」
言い終わると、藍斗はごそごそと足を崩した。それが伝わるように、父も崩していく。
「こういうのはどうだ。律儀に向き合うのは、足が痺れるまで」
父のひょんな提案に、藍斗は背筋をスクッと伸ばす。それもまた、父が移るようだった。二人は目をしばしばさせて向き合うと、ふんふんと頷き、口をそろえた。
「ほぉん」
しんっ、と、ただ埃が舞うだけの音が部屋に満ちたのも束の間、互いに吹き出した。
どうでもいい着地点がくれるものは、決まってどこかくすぐったいのだが、腹を抱えるほど楽しい。この感覚を忘れてしまわないようにと、藍斗はブックマーカーの輝きから、父のほっとする表情を見て閃いた。
(僕が書くのは、“芯のある小説”)




