8
藍斗は息を呑む。物語の終わりが見えかけている。なのに今から聞かされることによって、またページをさかのぼって修正せねばならないのではと、両手を腹の前で握りしめた。しかし、館長の眼差しはとても穏やかだった。
「その物語を書き直すも、書き直さないも、いつも貴方にしかできません。他の誰でもない」
手が、ふわっと解けた。錆びついた南京錠が弾けたように、口が開いていく。
「主要キャラの死を描いたのは、ヒーローはいつも強いわけじゃないと思ったから。それに、僕が書いてたその子は、特別な力があれど人間だった。最期が病死でも別に不思議じゃないと思った。それに、その病気は稀なもので、知ってもらえるキッカケになればいいと思った。まぁ、その流れが物語の雰囲気に合ってなかったんだと、コメントから受け止めましたが……」
藍斗はグラスを一気に傾け、喉を潤すと、もう一度あの時を振り返る。
「冒頭は、むしろ説明をし過ぎないようにしていました。読み進めるうちに世界が見えてくるようにしたかったので。それは、キャラを描写する時も気にしていたことです。前は特徴を一気にまとめて書いてたので」
汗ばむグラスに引く線が、ぐらぐらと波打っていく。
「でも違う書き方をしたら、前よりも読んでもらえてるって、数字を見て分かったんです。何でも答えがすぐに見つかると、面白くないですもんね。でも、逆に説明が不足していたようなので、書き直しました」
冗談でも、小説家に転職だという父の言葉は嬉しかった。その後押しをしてくれるのも、いくつになってもずっと好きなことの話を聞いてくれるのも、家族でよかった。その支えが、ある日、ミシミシと音を立てるようになった。父は小説教室にうんぬんとは言うが、正直、それこそとんでもなかった。
「こんなに抜け落ちる生徒、相手にしてられないだろうし……」
うっかりこぼしてしまった言葉に、カラスの羽ばたく音がした。それに顔をあげたのも束の間、ザザンッと真っ青な光が波打つと、天井にたゆたいながら浮かぶ魔方陣が、引き潮のように消えてしまう。
何事かと確かめるまでにはもう、カラスが舞い戻って来た。
藍斗は事態に置いてけぼりになっているところ、やんわりと放つゴールドの光に気づいた。目の前に寝そべるそれの先には、小さな深みある青の光がチロチロと揺れている。
「自立心あるカイヤナイト」
金色のブックマーカーの先に光る真っ青な石に、藍斗は釘付けになる。薄く線が走って見え、まるで惑星が降ってきたようだった。
「足りていないものをずっと見るのではなく、それを手に入れるための航路を探してはいかがでしょう。その船にはいつだって、貴方の経験という櫂と、家族という帆が乗っています」
藍斗は、館長の黒い瞳にザワザワと踊る金色の光にとらえられていると、書き直す前の本がまた、ふたたび差し出された。
「本は実際に声を上げません。“表現者”の姿勢も、それに近い部分があります。静かに打ち込む最中、そこに込み上げた熱意を作品で解放する。そこに立つ波に人を乗せられた時、貴方が望んでいるものもまた引き寄せられるでしょう。判断力を高めてくれる、そのパワーストーンによって」
藍斗は館長の独特な表現を脳裏に焼きつけるのに、更に手こずった。するとヴェーラが、ドンッと本の山を置いた。
「こちらの皆様にも、色々なこだわりがありました。この方は、医療ドラマを書くために医学書を集められたようです。この方は、リアルな人間を書くために体癖論というものを勉強中です。こちらの方は、バーのシーンを少し書くだけでも、カクテルとバーテンダーについての書籍を借りていました。どれも、より本物に近づけるための長い航路ですが、藍斗さんと同じで、皆様とても楽しんでおられます」
長い航路――藍斗は、ヴェーラの言葉をじっと心で眺めた。思えば、調べ物に大した時間をかけられていなかった。次を書かねばという焦りと、早く公開せねば読者がいなくなる不安ばかりが先行し、出来上がった作品の読み返しもできていなかった。
楽しいから――そのはずだったと、埋もれてしまった本音が藍斗の足を押し上げた。そして、差し出された本を勢いよく掴み取る。
「上手くなりたいから続けてるんです。で、もう一つは、広い出会いがあるからです。確かに勉強は苦手だけど、僕は書けるようになった。そこにはいつも楽しさがあった。それが僕の“なぜ書くのか”」
背を真っ直ぐに伸ばす藍斗を見て、館長は目の力を和らげる。瞳から光のうごめきが沈んでいくと、入れ替わるように口角を上げた。
「指摘の波を超えた先の成功の陸地は、実際のところ、とても遠いものです」




