1
今日、碧生は半休を取っていた。長編小説の公募の締め切りが近く、ここのところ仕事のスケジュールをよく動かしている。今年も既に半年が経つが、未だに納得のいく結果が出せていない。
ウェブデザイン部の部屋を飛び出し、廊下をすれ違うスタッフに機械的な挨拶をしながら鞄を背負う。
「今回こそ決める」
そう意気込みながらも成果を得られていないからといって、長く落ち込みはしない。常に目標から目を逸らさないだけでなく、小説に求められているものや、読者のニーズの分析を続けてきた。その積み重ねは自慢の経験であり、最終選考まで残れた実績も増えつつある。ただ、そこでいつも夢は遠ざかる。
「納得させてやる」
応募作品はウェブで公開済みのものでもよしとされていた。そのことから、小説投稿サイトに公開している何十もの作品の中で、もっとも評価が集まっているものを選んだ。もちろんそれをそのまま横流しにするのではない。プロ作家になる勝負にもって行く一作だ。資料の見直し、推敲、校正を念入りにしていく。
スマートフォンの退勤ボタンをタップしながら駐輪所に向かう。ところが、隣の自転車のハンドルが自分のクロスバイクと絡み、引き出すのにもたもたした。
「ああもう何だこれ!」
それを見かけた警備員は、明らかにイライラしている碧生から顔を背け、書き仕事のフリをした。手伝いに行くべきか。けれどもいつもキビキビしたその性格は、どうしても構いたくなくなる。今は特に誰も触れたいとは思わないだろう。
「なぁちょっと! これ、ちゃんと真っ直ぐ停めるよう言うか整備しといて下さいよ!」
今日にかんしては怒号を飛ばすのか。ならば先手を打つべきだったと、警備員は深々と息を吐き、管理所の窓越しにハタハタと手を振って碧生を見送った。
余計に滲んだ汗もそっちのけに、碧生はぐんぐんペダルを漕いで行きつけのシェアラウンジへ急いだ。ブックカフェとワーキングスペースが一つになった空間。そこに寄生するかのように入り浸るのには、たくさんの訳がある。中でも、本物――先輩の本からすぐに学べる環境に身を置くのは、最大のメリットだ。
「俺は、もうすぐ、プロの、切符を、取るっ!」
蝉がわんわん鳴き荒れる中、くらくらと人を避けながら坂道を上り切り、目的地に着いた。半ば投げだすようにクロスバイクを停めると、灰色と黒のタイルを基調としたスタイリッシュな建物のガラス戸を押し開ける。
流れる汗をシャツの首で拭いながらカウンターに向かってくる客。慌ただしい音がすれば碧生だと、店員はとうに把握できていた。
「いらっしゃい」
「ああ、どうも」
碧生はお決まりの流れで会員証を提示する。店員は処理を済ませると、その手でひょいと紙袋を差し出した。
「はいコレ、この間言ってた漫画」
それを碧生はバタバタとのぞいた。中には、貸してほしいと頼んでいたバトル系アニメの原作が数巻そろっていた。
「あと、新しい棚にノベライズ本も入ったよ。それも言ってたやつね」
「え、あのアニメの!? さすがすぎる! マジ助かるわ!」
そこへ、店員がニヤリと歯を見せてカウンターに乗り出した。
「で、今日はアレでいっとくでよろしいかな、先生?」
こういう時に注文される飲み物は一つしかなく、それに応えるように碧生は目を輝かせた。
「頼むよ!」
潔い声は一瞬にして背を向け、せかせかといつもの居場所へ行ってしまう。そんな暑苦しい姿を店員はチラと見届けては、冷蔵庫のスペシャルティコーヒーのピッチャーが並ぶ棚を眺めた。そしてまず、注文品の残量にうなずくに留める。
「ったく、ここはワークスペースだってのに。お前もあまり何でもかんでも応じるなよ」
奥から無表情でのっそりと出てきた店長は、相変わらずな碧生に肩で息を吐く。
「まぁまぁ見守ってあげましょうよ。デビューしたらうちの評判も期待できますし」
楽観的な店員に、店長は首を振って話を手で払い除けた。
カフェの最も奥にある角の席が穴場だ。ソファー席の方に回ると鞄を下ろし、ブルーライトカットメガネとメモブック、これまでの公募の選考員から届いた評価シートのファイル、今回の勝負作に必要な資料の山、留めにノートパソコンを置いた。
「そして、こいつだ」
先ほど受け取った漫画をテーブルに積む。
説明的になりやすいバトル描写は、コミックのコマ割りのような書き方をするといいと聞いたことがあった。頭に流れる戦闘の様子を書き起こすことに意識しやすいが、足取りや武器、手付きだけにフォーカスしたカットを置くと、感情や表情、速さなどを想像させられる。
環境が整ったところで両手を固く握りしめると、やっとふかふかのスペースに腰を落とした。同時に息がデカデカとあふれてしまう。
真夏だけでも自転車通勤は避けるべきかと考えるも、そうすると運動するタイミングがなくなる。仕事も執筆も椅子に根を張るばかりで、それでは体力が削がれ、小説家になるどころではなくなるのではないか。そんなリスクが過り、結局は自転車を手放せないでいた。




