8.5日目 非非日常の始まり
バイクの轟音が林道に木霊する。バックミラー越しに見える街は、すでにいくつかの煙を上げていた。
どれくらい走っただろうか。俺たちは鬱蒼とした森に囲まれた古びたキャンプ場に辿り着いた。
誰もいない……
「五郎さん……ここなら安全そうですね…」
「はい…」
そう答えたものの、実を言うと俺はこの時、足がガクブルだった。
ついさっきまで目の当たりにしていた、あの死者の海の光景が脳裏から離れない。背中を冷たい汗が伝う。
でも……だからこそ大事なことがある。
極限状態の時こそ、いつも通りの日常を少しでも取り戻すんだ。パニックに呑まれたらその時点で終わる。
腕時計を見ると、針はちょうど正午ごろを指していた。
「よし。奏子さん、まずは飯にしましょう!腹が減っては戦も逃走もできませんからね」
「えっ、あ、はい……!そうですね」
突然の提案に奏子さんは目を丸くしたが、少しだけホッとしたような表情を見せた。
俺はバッグを開け、アパートから急いで詰め込んできた数少ない物資を広げた。
500mlの水ペットボトル、カセットコンロ用のガスボンベ(なぜか持ってきていた)、そして非常食用の乾燥米が2パックと、サバの水煮缶が1つ。
「使えるものは……よし、キャンプ場だし、その辺の薪やカマドの跡が使えそうだな」
幸い、ここは管理オフィスこそ無人だが、直火で使えるしっかりした石組みのカマドが残されている。俺は周囲に落ちている乾燥した小枝や落ち葉を拾い集め、ハンマーの頭を火打ち石代わりにして(というのは無理だったので、持ってきたライターで)火を起こした。
パチパチと乾いた音が響き、小さな炎が立ち上がる。その暖かさと光だけで、不思議とガクガク震えていた足が少し落ち着いていくのが分かった。
コッヘル(携帯用鍋)なんて上等なものは持っていないので、キャンプ場の炊事場に残されていた、誰かが忘れていったであろう綺麗めのアルミ鍋をよく洗って使うことにした。
鍋に水と乾燥米を入れ、そこにサバの水煮缶を汁ごと豪快に投入する。サバの旨味が詰まった汁は、最高の出汁になるのだ。
「五郎さん、手際がいいですね……」
奏子さんがカマドの横で、火の粉が飛ばないように見守りながら呟く。
「一人暮らしが長いですからね。それに、こういう時こそ美味いもん食わないと、心がゾンビになっちゃいます」
少し強めの火で一気に沸騰させ、その後は火力を落としてじっくりと水分を吸わせる。サバの香ばしい匂いが湯気と共に広がると、グウゥ、と誰かのお腹の音が鳴った。奏子さんが顔を真っ赤にして俯く。
「よし、出来上がりです!」
鍋の蓋を開けると、ふっくらと炊き上がった米に、サバの身が程よく崩れて混ざり合っている。
俺たちは持ってきたスプーンを使い、熱々のキャプ飯を口に運んだ。
「……美味しいっ!」
奏子さんの目がパッと輝いた。
「生き返る……」
口いっぱいに広がるサバの塩気と米の甘み。ただの缶詰ご飯のはずなのに、今まで食べたどんな高級料理よりも身体に染み渡る気がした。
ひとまず胃袋を満たし、一息ついた俺たち。しかし、ガソリンは残りわずか。これからどう動くべきか、次の一手を考えなければならなかった。
そんな時だった。
ドンッッ!!!
林道の奥からとてつもない衝突音が聞こえてきた。
サバ缶ご飯で得た束の間の温もりは、激しい衝撃音によって一瞬で吹き飛んだ。
「ひっ……!? な、何だ、今の音……!」
心臓が跳ね上がり、せっかく満たされた胃袋がキュッと縮み上がる。
「奏子さん、ここに、ここに隠れていてください! 動いちゃダメですよ、絶対!」
声が裏返るのを隠せもしないまま、俺は周囲をキョロキョロと見回した。手元にあるハンマーじゃ重くて、もし何かに襲われたら逃げ遅れる。パニックになりかけた視界に、前の利用者が忘れていったらしい、頑丈なケースに入ったサバイバルナイフが飛び込んできた。
「ナイフ……! これ、借りるぞ……!」
震える手でそれを掴み、ベルトに押し込む。正直、こんな刃物を使ったことなんてない。それでも、持っていないと恐怖で足が動かなくなりそうだった。俺は半泣きになりながら、音がした林道の奥へと恐る恐る足を進めた。
鬱蒼とした木々の隙間を、腰を抜かさないように注意しながら進む。崖に面した道路に出た瞬間、俺はあっと息を呑んだ。
無惨にひしゃげた一台の乗用車が、今にもガードレールを突き破って真っ逆さまに落ちそうになっている。
「うわ、嘘だろ……どうすればいいんだよ……」
頭を抱えそうになったその時、ふと視界の端に異様な光景が映った。車のさらに奥、林道の先へと歩き去っていく集団の後ろ姿。全員がボロボロで不気味な、見たこともないデザインの僧衣を身にまとっている。
「ひえっ……な、何だあいつら、宗教!? いや、それどころじゃない、今は……!」
歯の根がガチガチと鳴る。あいつらが振り返ったら終わりだ。逃げ出したい衝動が全身を駆け巡るが、ギギィ……と傾く車を見て、俺のなかのわずかな理性が叫んだ。
フロントガラスは粉々に割れており、前席の男女はぐったりとして動かない。一目で助からないと分かり、血の気が引く。しかし、その後部座席から、小さく、か細い泣き声が聞こえた。
「う、うう……」
子供だ。まだ小さな女の子が、座席の間に挟まれてガタガタと震えている。
「あ、危ない、すぐ行くから……! 神様仏様、お願いだから車を落とさないでくれ……!」
車体はパキパキと音を立て、今にも崖下へ滑り落ちそうだ。俺は恐怖でパニックになりながらも、サバイバルナイフの柄を両手で握りしめ、後部座席のサイドガラスを必死に叩き割った。ガラスの破片が腕に当たって痛むが、構っている余裕はない。内側のロックを解除し、ドアを無理やりこじ開ける。
「手を、手を伸ばして! 早く、お願いだから!」
半分泣き叫びながら少女の腕をがっしりと掴み、死に物狂いで車外へと引きずり出した。
その直後、ガガガガッという凄まじい音と共に、車はガードレールをなぎ倒して底の見えない崖下へと落下していった。
「うわああああっ!!」
アスファルトの上に少女を抱きかかえたまま、俺は心臓が破裂しそうなほど激しく息を切らせた。腰が完全に抜けて、立ち上がることすらできない。腕の中の少女はガタガタと震えているが、俺の震えのほうが大きいくらいだった。
死者の海、謎の僧衣の集団、そして助けてしまった少女。
ただでさえ限界だった俺のキャパシティは、完全にパンク寸前だった。




