9日目
激しい頭痛と、全身をきしませるような鈍痛。
意識の底から這い上がるようにして、俺はゆっくりと目を覚ました。
視界は暗く、カビ臭い。どこかの物置小屋か、あるいは校舎の隅にある倉庫だろうか。
重い体をなんとか動かし、手首の腕時計に目をやる。バックライトのボタンを押すと、液晶の数字がぼんやりと浮かび上がった。
「……午前、零時、十五分……」
正午にキャンプ場で飯を食ってから、半日近くが経っていた。
外は完全に真夜中。静まり返った校舎に、時折、遠くで男たちの下品な笑い声や、発電機の鈍い重低音が響いてくる。
「クソッ……騙された……!」
あいつらは生存者のコミュニティなんかじゃない。ゾンビの蔓延る世界で理性を失い、力で他人を蹂多らし、奪うことに味を占めた人間の皮を被った獣たちだ。
奏子さんは、あのお嬢ちゃんは無事なのか。焦燥感で心臓が早鐘のように打つ。立ち上がろうとした瞬間、脇腹に激痛が走り、俺は床に膝をついた。
「おい、静かにしろ。見つかるぞ」
闇の中から、聞き覚えのある低い声がした。
驚いて声のした方を向くと、影の中から譲がぬっと姿を現した。窓から飛び降りて逃げたはずの彼だが、服は破れ、額からは血が流れている。しかし、その手にはしっかりとあのライフルが握られていた。
「譲、 生きてたのか……!」
「お前こそ、あのヘボい立ち回りの割には、よく頭が割れずに済んだな」
譲はおちゃらけた笑みを完全に消し、冷徹な目で窓の外を伺っている。
「安心しろ、あの姉ちゃんとガキはまだ無事だ。上の放送室に閉じ込められてる。だが、あいつらの宴会が終われば、次がどうなるかは分かるな?」
「……助けなきゃ。今すぐ」
俺は震える手で、自分の体をまさぐった。幸いなことに、あいつらは俺をただの「腰抜けの荷物持ち」と侮っていたらしい。倉庫の隅に、俺がバイクの後ろにくくりつけていた、あの2.7kgの両口ハンマーが乱雑に放り出されているのが見えた。
「これさえあれば……」
俺はハンマーの柄をがっしりと握り締めた。手汗と恐怖で手が滑りそうになるが、もうビビって縮こまっている場合じゃない。奏子さんたちが危ないんだ。
「いいかお兄さん。敵は十数人。ライフルを持ってる奴もいる。正面から行けばハチの巣だ。俺がこのライフルで音を立てて奴らの注意を引く。お前はその隙に裏の非常階段から放送室へ回り込め。邪魔な見張りは、そのハンマーで静かに片付けろ」
「静かにって……できるわけないだろ……!」
「やるんだよ。それとも、またあの狂信者どものところへ戻るか?」
譲の言葉に、俺は生唾を飲み込んだ。やるしかない。俺は半泣きになりながらも、ハンマーを強く握り直した。
作戦は始まった。
譲が校舎の反対側で一発、ライフルの轟音を響かせた。
「おい! 逃げた猟師だ! あっちへ行ったぞ!」
一階の廊下を、ドタドタと男たちが走っていく気配がする。
「今だ……!」
俺は倉庫を抜け出し、暗い廊下を忍び足で進んだ。心臓の音がうるさすぎて、それだけで見つかりそうだ。頭の奥で、また変な幻覚が始まりそうになるのを、「来るな! 今は現実だ!」と必死に怒鳴り散らして抑え込む。
二階への階段を上がったところで、一人の見張りが背中を向けて立っているのを見つけた。鉄パイプを肩に担ぎ、退屈そうに貧乏揺すりをしている。
(やるんだ……五郎、やれ……!)
俺は足の震えを必死に止め、一歩、また一歩と近づく。
そして、気配に気づいて男が振り向いた瞬間——
「うおおおああっ!!」
半分パニックの悲鳴を上げながら、ハンマーを横一線に振り抜いた。
鈍い衝撃と共に、男は声を上げる間もなく崩れ落ち、そのまま意識を失った。
「はぁっ……はぁっ……やった、のか……?」
手がガタガタと震える。だが、止まっている暇はない。俺は気絶した男を物置に押し込み、さらに上の階、放送室がある最上階へと急いだ。
三階の廊下の奥、放送室のドアが見えた。
ドアの前には、あのアパートの時にいたリーダーらしき、腕に刺青のある大柄な男が立っていた。金属バットを地面にトントンと打ち付けながら、不気味な笑みを浮かべている。
「……へえ、あのビビリの荷物持ちが、よくここまで来られたな」
男は俺の姿を見ると、凶悪な笑みを深めた。
「奏子さんを……みんなを返せ!」
俺は恐怖で声が裏返りながらも、全力を振り絞って突進した。重い両口ハンマーを頭上高くに掲げ、遠心力を乗せて、男の脳天めがけて一気に振り下ろす。この一撃で、すべてを終わらせるつもりだった。
(これで、終わりだ!!)
凄まじい風切り音を立てて、2.7kgの鉄塊が落ちていく。
しかし。
肉と鉄がぶつかる、重苦しい音が響いた。
信じられないことに、大ボスであるその男は、振り下ろされたハンマーの柄を、自らの太い両腕でがっしりと受け止めて止めていた。
「な……っ!?」
「おいおい、大振りなんだよ。力任せの素人が」
男の腕の筋肉が盛り上がり、ハンマーがピクリとも動かなくなる。
俺の全力の一撃を受け止めた大ボスの冷酷な目が、至近距離で俺を射抜いた。
男の顔が、目の前で醜く歪む。
「終わりだ」
金属バットがゆっくりと振り上がる。
もう駄目だ。
逃げたい。吐きそうだ。怖い。
心の底から湧き上がる恐怖に、叫び声が喉までせり上がる。それでも
「……返せ」
俺は歯を食いしばった。
「返せって……言ってるだろォッ!!」
ハンマーを握っていた右手を離す。
男が一瞬、怪訝そうに眉を寄せた。
その隙に、腰からサバイバルナイフを引き抜く。
ギラリ、と刃が月明かりを鋭く反射した。
「なっ――」
男が反応するより早く、俺は全身の体重を乗せて踏み込んだ。
ズブッ。
刃が脇腹に深く沈む。肉を裂く重い感触が、柄を通じて手に伝わる。
「ぐッ……!」
男が初めて苦痛の声を漏らした。
俺は止まらなかった。
「うああああああッ!!」
一度、二度、三度——
何度も、何度も、何度も。
ズブッ。ズブッ。ズブッ。
血飛沫が頰に飛び、温かく生臭い。
涙で視界が歪み、鼻水が垂れ、叫びは嗚咽に変わる。
それでも腕だけは、機械のように動き続けた。
「死ねェェェッ!!」
「奏子さんに……ッ!」
「子どもに……触るなァァァッ!!」
男が必死に腕を振り上げるが、もう力がない。膝が折れ、巨体がゆっくり傾く。
それでも俺は刺し続けた。相手が動かなくなっても、刃を振り下ろし続けた。
「おーい五郎」
背後から、譲の低い声が響く。
「もう死んでる」
その言葉で、ようやく腕が止まった。
血まみれの両手と、赤い雫を垂らすナイフを見つめる。
「……あ」
猛烈な吐き気が込み上げ、俺は廊下の隅で胃の中身を全て吐き出した。
全身が激しく震える。
怖かった。今も怖い。
人を殺した。何度も、狂ったように。
それでも——
奏子さんと、あの子を守れた。
その事実に、俺はもう後悔も躊躇も感じなかった。
人殺しになることを、俺は二度と恐れない。




