9.1日目
俺は這うようにして放送室のドアへと駆け寄った。鍵の壊れたドアを勢いよく押し開ける。
「五郎さん……!」
奥で身を寄せ合っていた奏子さんと少女が、涙を浮かべて俺を見上げた。二人の無事な姿を見た瞬間、全身の力が一気に抜けそうになる。
「たす、助けに、来ました……。早く、ここを出ましょう!」
外からは譲のバイクの鋭い排気音が近づいてくるのが聞こえた。あいつらも間もなくここへ合流するはずだ。
無我夢中で二人を連れ出し、夜の校庭へと駆け下りる。冷たい夜風が、汗まみれの顔を叩いた。
ただビビって、幻覚に怯えて、誰かの後ろに隠れていた俺が、初めて自分の足で踏み出し、大切な人を守り抜いた瞬間だった。
まだ足の震えは止まらない。世界は死者と狂人に満ちていて、ガソリンだって残り少ない。だけど、俺の胸の奥には、これまでとは違う「生き抜いてみせる」という確かな覚悟の火が、静かに灯り始めていた。
「早く、バイクへ!」
俺は奏子さんと少女の背中を押し、夜の校庭へと飛び出した。
暗闇の中、譲のアフリカツインがヘッドライトの光で雑草の生い茂る校庭を白く照らし出している。譲はすでにエンジンをかけたまま待機しており、近づく俺たちを見て手早く手招きした。
「遅いぞお兄さん! 騒ぎに気づいた残りの連中が集まってきやがる!」
校舎の窓から、懐中電灯の光がいくつも校庭へ向けて振られるのが見えた。男たちの怒鳴り声が遠くで響く。
「お嬢ちゃん、こっちだ!」
譲は少女を素早く自分のバイクの後部座席に乗せ、ベルトを締め直した。俺も慌てて自分のバイクに跨がり、後ろに奏子さんを乗せる。
「五郎さん、ガソリンは……!」
奏子さんが悲鳴のような声を上げる。メーターを見ると、インジケーターは相変わらず残りわずかだ。
「出すしかない! ここにいたら確実に捕まる!」
俺はアクセルを思い切り捻り、クラッチを繋いだ。タイヤが校庭の泥と雑草を激しく跳ね上げ、バイクが急発進する。譲のバイクがそのすぐ先を走り、錆びついた正門を突き抜けて暗い林道へと躍り出た。
真夜中の山道は、昼間とは比較にならないほど恐ろしいものだった。
ヘッドライトの細い光だけが頼りだ。道幅は狭く、一歩間違えれば崖下へ真っ逆さまに落ちてしまう。
(落ち着け、落ち着け俺の脳みそ……!)
極限の緊張感のせいか、視界の端がまたチカチカと歪みそうになる。今ここで幻覚が始まって、道路が会社の廊下に見えたりしたら一発で終わりだ。俺はハンドルを握る手に力を込め、冷たい夜風を全身に浴びながら、必死に「現実」に踏みとどまった。
「後ろ、来てるぞ!」
譲が並走しながら叫ぶ。
バックミラーを睨みつけると、はるか後方から複数のヘッドライトの光が激しく揺れながら追いかけてくるのが見えた。あいつら、車や軽トラを出して追ってきている。
「クソッ、しつこいな……!」
バイクの機動力を活かして引き離したいが、こちらは二人乗りで、おまけにガソリンの余裕もない。坂道を登るたびに、エンジンが悲鳴を上げるように震える。
その時、前方を走る譲が大きく手を挙げ、林道の脇にある細い未舗装の獣道へと急ハンドルを切った。
「こっちだ! 車が入ってこれない道を選ぶぞ!」
「えっ、そっち行くのか!?」
一瞬躊躇したが、迷っている暇はない。俺も譲の後に続き、鬱蒼とした木々の隙間へとバイクを滑り込ませた。
路面は完全に泥と木の根でボコボコだった。車体が激しく上下に揺れ、後ろの奏子さんが俺の腰にしがみつく力が強くなる。手汗でグリップが滑りそうになるのを、必死に力で抑え込んだ。
背後を振り返ると、追手の車のライトは木々の向こうで立ち往生しているようだった。譲の狙い通り、車幅の狭いこの道には入ってこれないらしい。
「よし……巻いたか!?」
「油断するな、まだ山を下りきるまでは安心できない!」
譲の無線のような大声が響く。
どれくらい泥道を走り続けた急斜面だろうか。
ようやく視界が開け、バイクは再び舗装された古い県道へと出た。
追手の気配は完全に消え、辺りにはただエンジン音だけが木霊している。
ふと、俺のバイクのエンジンが「プスン……」と軽い音を立てて息を吹き返さなくなった。惰性で少し進み、路肩にゆっくりと停止する。
「ガソリン、完全に空か……」
俺は力なく笑いながらバイクを降りた。足は相変わらずガクガクと震えていたが、不思議とアパートを出た時のような、ただ怯えるだけの震えではなかった。
譲も少し先でバイクを止め、こちらを振り返る。
「よく付いてきたな、お兄さん。あの状況から生きて戻るとは思わなかったぜ」
譲の背中から降りた少女は、まだ怯えてはいたものの、しっかりと自分の足で地面に立ち、俺と奏子さんをじっと見つめていた。
「五郎さん……ありがとうございます。本当に、助かりました」
奏子さんが涙を拭いながら、静かに微笑んだ。
「いや……俺の方こそ、二人が無事で本当に良かったです」
バイクは動かなくなってしまった。物資もほとんどない。これからどうやって歩んでいくか、具体的な答えはまだ何一つ出ていない。
だけど、俺は自分の足元をしっかりと見つめていた。
この壊れた世界で、大切な人を守るために戦うということ。その重みと覚悟が、今の俺には確かにあった。
「さて、夜が明ける前に、少しでも安全な場所を探すとするか」
譲がライフルを背負い直し、歩き出す。
「そうですね」
東の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。




