8.7日目 茂みの向こうからの闖入者
そうやって奏子さんとキャンプ場で考え込んでいた時だった。
「ひぃっ……!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。
キャンプ場の入り口に近い茂みが、ガサリ、と大きく揺れたのだ。
(まさか、あいつら……!? 救済の輪がもう戻ってきたのか!?)
俺はパニックになりかけながらも、咄嗟にサバイバルナイフを抜き、奏子さんと少女を背中に隠すようにして身構えた。手汗でナイフの柄が滑りそうになる。足はガタガタと震え、頭の奥では「ここで幻覚が始まったら終わりだ」という恐怖が渦巻いていた。喉がカラカラに干からびる。
「おいおい、そんな物騒なもん向けないでくれよ。俺はゾンビなんかじゃないぞ?」
茂みをかき分けて姿を現したのは、ボロボロの僧衣を着た狂信者でも、あぎあぎと顎を鳴らすゾンビでもなかった。
少し無精髭を生やした、俺と同年代くらいの男だった。
小汚いジーンズにアウトドアジャケットを羽織り、肩には本物のライフル銃をぶら下げている。緊迫したこの状況にまるで似つかわしくない、へらへらとした軽い笑みを浮かべていた。
「な、なんだよ、お前……」
俺がナイフを構えたまま声を震わせると、男は両手を大げさに上げて降伏のポーズをとってみせた。
「おっと、警戒しちゃうよね。俺は譲。ただのしぶとい生存者。安心しろよ、さっきの『集団』なら、もうとっくに山の向こうへ歩いていった。音に気づいて戻ってくる気配もなさそうだ」
譲と名乗る男は、俺の怯えきった様子を面白がるように見てから、チラリと俺の背後にいる奏子さんと少女、そしてまだエンジンがかかりそうなバイクに目をやった。
「……にしても、お兄さん。随分と賑やかな逃避行だな。バイクのガソリンは……まだあるみたいだけど、その様子じゃあ、次の一手は何も決まってなさそうだ」
「うるせえ! こっちはさっき死にかけたんだよ! これからどうするか考えてる最中だ!」
「へえ、考えてる、か」
譲はフッと笑みを消し、肩のライフルを軽く叩いた。その胡散臭いおちゃらけた態度の中に、一瞬だけ、この地獄を生き残ってきた人間の冷徹な光が混ざる。
「いいか、お兄さん。ゾンビから逃げるってのは、ただ『今いる場所から遠ざかる』ことじゃないんだ。特に、そんな風に守るものを背負い込んでるなら、なおさらね」
「……何が言いたいんだ」
「これからどうするかって話さ。バイクのガソリンが残ってるうちに、どこを目指す? このままここで、残り少ない物資を食いつぶしながら『神様次の安全をください』って祈るか? それとも、動けるうちに確実な『安全』を奪いに行くか?」
譲は俺の持っているサバイバルナイフを指差した。
「そのナイフじゃ、ゾンビの群れにも、さっきの狂信者どもにも立ち向かえやしない。生き延びたいなら、怖がってる暇を惜しんで『頭』を使わなきゃダメだ。お兄さん、あんたはまだ走れるその相棒を使って、その人たちを連れてどこへ向かうつもりなんだい?」
悪びれもしない譲の言葉が、図星を突かれた俺の胸に重く突き刺さる。
僧衣の連中はひとまず去った。バイクを走らせる燃料もある。しかし、この胡散臭い男の言う通り、俺たちにはもう立ち止まっている猶予なんて残されていなかった。
「どこへって……そんなの……」
俺の情けない声が漏れる。どこへ向かうかなんて、そんな具体的なあてがあるわけがない。ただゾンビのいない場所へ、狂気から遠ざかる場所へ、それだけを考えて必死にバイクを走らせてきただけだ。
譲は俺の困惑を見透かしたように、肩をすくめてライフルを背負い直した。おちゃらけた態度を少しだけ引っ込め、真面目なトーンで言葉を続ける。
「まあ、急にそんなこと言われても困るよな。でもこの山のことなら、そこらのゾンビよりは詳しいつもりだ」
譲はそう言うと、俺たちの乗ってきたバイクと、奏子さんに抱えられて震えている少女へ視線を巡らせた。
「あんたらの事情は知らないが、そのバイクと燃料、それにそっちの連れを安全に休ませたいなら、一つ提案がある」
「提案……?」
俺が警戒を解かずに聞き返すと、譲は林道のさらに奥、山の上方を指差した。
「この先を数キロ進んだところに、廃校になった小学校があるんだ。高台にあって見晴らしがいいし、頑丈な校門とフェンスに囲まれている。立てこもるにも、周囲を警戒するにもうってつけの場所さ。まずはそこへ行かないか?」
学校。その響きに、俺の脳裏にはまた別の不安がよぎる。ゾンビの定番といえば、避難所になった学校がゾンビの巣窟に変わっているパターンだ。もしそんな場所に突っ込んで、また幻覚でも始まったら目も当てられない。
「が、学校だって……!? そんな場所、もうゾンビだらけになってるかもしれないだろ! 危険すぎる!」
思わず声を荒らげる俺に、譲はフッと呆れたような笑みを浮かべた。
「おいおい、ビビりすぎだって。だからこそ、俺のこのライフルがあるんだろ? 事前の偵察も含めて、俺が先導してやるよ。このままここで夜を迎えるよりは、よっぽど生存確率が上がると思うけどね」
譲の言うことには一理あった。このオープンなキャンプ場では、いつあの“救済の輪”が戻ってくるかもわからないし、夜になれば野生の動物やゾンビの襲撃に対して無防備すぎる。
俺は生唾を飲み込み、ナイフをホルスターに入れ、ハンマーを担いだ。
怖くてたまらない。できれば今すぐどこか安全なシェルターにでも引きこもりたい。だが、譲の鋭い視線と、背後から怯えた目で見つめてくる奏子さんたちの気配が、俺に決断を迫っていた。




