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おお! ぽめらよ! なさけない!
そなたは やすく ないのじゃ! もっと ちゃんと しろ!!
・きょうくん
よーく かんがえよー
ばっくあっぷ は たいせつ だよー
・ひとこと
遅くなって申し訳ありません。
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「相変わらずね」
コグマはくんくんと鳴きながら、私を離そうとしない。
そして遠目ではアオイが不自然な格好で固まったままだ。恐らく助けなければ、と構えたのはいいものの、賢い彼女は相手に害意が無いことを悟りつつも、万が一に備えて力を抜くこともできないのだろう。
「大丈夫よ、アオイ」
いい加減になさい、とコグマを引き離そうとするも、力も強くなっているせいか、なかなかに難しい。背丈も私の倍近くになっている。成長も早いもので、もう母熊と一緒ぐらいになっていた。
これも毎度のことなので、コグマの気が済むまでは、なされるがままになる。涎でべちょべちょにされたり、ちょっと引っかかった爪で服もボロボロになっていくし、ちょっと散々なのだけれど。
「どういうこと?」
ようやく硬直を解いたアオイ。釈然としないのか、不機嫌そうに尋ねてくる。
「この子とは、そこそこ長い付き合いでね」
「グリズリーと?」
「うん、まぁ……こら、いい加減なさい!」
ちょっと本気で怒ると、きゃんきゃんと鳴きながら離れていく。どれだけなつっこいのよ、この子は。この様で課題の脅威とやらは務まっているのかしらと疑問を禁じえない。
「ほら、じっとなさい」
今度は私がコグマの身体を堪能する。と言いつつの傷の手当だ。
この数週間は、訓練生になるための課題で、毎度傷だらけになるこの子の治療のために、ほぼ毎日通い詰めていた。だから、その気になれば、いつでも課題はクリアできたのだけれど、治療目的でやってきていたせいか、どうもその気になれなかったのだ。
「――うん、よし」
大方の傷を水の魔術で癒してやると、またコグマが襲いかかってくる。それを何とか受け流して、今度こそはと本題に移る。
「今日はね、証を取りに来たんだ」
言ったところで意味は通じない。けれど言わずにはいられなかった。ほうけていたコグマも、何かを感じたのだろう。何度か悲しそうに鳴いたけれど、そっと私から距離を取った。
しかしながらコグマは距離を取ったまま振り返らない。どういうつもりなのか。いや、やっぱり意味が通じなかったのかもしれない――そんなことを考え始めた頃、奥の草むらが揺れる。
敵意剥き出しのうなり声。あれから、まだ大きくなったのだろうか。私もそこそこ成長しているはずなのに、その巨躯との差が埋まっているような気がしない。
「あー……そう、私の相手は『あなた』なのね」
よくよく考えれば当然だ。課題を考えた教師陣は、この森が私にとって庭同然であることを知っている。ならば、その課題内容だって、少しは特別にしても――
「良いわけがあるかっ!」
その巨躯からは想像もできないほどの敏捷性を見せて、母熊――グリズリーが襲いかかってくる。
「まだまだ現役じゃん!」
断の魔術で、母熊の攻撃を受け切るのは難しい。発動させる魔術に角度をつけ、受け流さなければ一撃で破壊される。
と言うか、受け流しで辛うじて向きを変えてはいるけれど、それと同時に断の魔術も破壊されていた。
「アリサ!」
悲鳴に近いような声を冷静に聞きつつ、思考を巡らせる。さて、どう無力化すべきか。
一度距離を取ろうと、風の魔術を付与する。もちろん断の魔術で絶賛受け流ししつつの同時行使なので、少し雑な魔術構成になってしまったけれど、それでも十分だった。
大きく飛び退き、グリズリーとの距離を取る。せっかく生み出した間合いだけれど、あと二秒ほどで消え去るだろう。一秒でぐっと身体を沈めて溜を作り、二秒で私のところに到達するグリズリーを予測する。
初動を視認したタイミングでは遅い。もはや予測に賭けるしかなく、私は飛び上がった。もしグリズリーが全力で一直線に向かってきてくれたなら、上への急転換は不可能だろうし、そもそも分の悪い賭けではない。
そして私が飛び上がって、空中で断の魔術に足をついたと同時に、その真下を巨躯が駆け抜けていく。昔から変わっていない。馬鹿げた速度だ。
変わっていない、と言えば――グリズリーと本気でやり合うのは、初対面の時以来だろうか。あの後も何度も手合わせをしたりしたけれど、グリズリーは確実に手加減をしていたからだ。
今も、そうだ。その動きは本物だけれど、私を見上げているその瞳は、静かな光を宿している。試すように、値踏みするように、じっと深い色が私を覗き込んでいる。
「……逃げてらんないですね」
そうだ、これはある意味で好機だ。本気でやってきてくれているグリズリーに対し、リベンジを果たす時がやってきたのだろう。あれから大きく成長できたとは思えないけれど、どれほど差を埋めることができたのか。
「お待たせ」
草地に沈む両足。その奥にある地の堅さを確認しつつ、グリズリーを見据える。相変わらず静かだけれど、ゆっくりと溜めを作る動きに、私も構える。
――四重展開
眼前に重ねるように展開する。これで一瞬でも動きが止まれば、その隙に次なる魔術を叩き込む。
まるで時が止まったかのような静寂。視界で唯一僅かに動きを見せる好敵手。その初動を見逃すまいと息を止めて待つ。
さわ、と。森が揺れる。
それを合図に、グリズリーがその場で体勢を崩す。静かな瞳に困惑が見て取れた。
「……ごめん」
ごろんと転がって体勢を立て直すグリズリーに炎が躍り掛かる。けれど、それは大した効果を発していないし、そもそも私も期待はしていない。その副産物である氷剣を手にし、構える。
「本当にごめんね」
――十重展開
こんな勝ち方しかできなくて。再び距離を詰めようと、動いたところでグリズリーは体勢を崩す。ただ先ほどとは違って、大きく転ぶ前に体勢を立て直す。
でも、あなたには見えないでしょう?
最初は保険のため、自身の前に三重展開した。そして残る一つはグリズリーの足元に設置する。ある程度加速していれば、簡単に突き破ることもできただろう。けれど初動では私の断の魔術を貫けず、『見えない何か』に引っかかって転ぶ――酷い話だ。
展開した魔術の一つに、またも足を取られて、ついにグリズリーが苛立ちを露わにする。頭の奥底、お腹の中をかき回すような咆哮は、甘んじて受け入れよう。こんな真正面から戦えない卑怯な私の、せめての贖罪だ。
そもそも相手の土俵に立たないよう、立ち回るのも立派な戦術だと思うけれど、やはり気持ちのいいものではない。ラインハルト兄様のように正々堂々、クロード兄様のように堅実な戦いに、未練が無いわけではないからだ。
でも、それは私には無理だ。こんな戦い方しかできない。それはとても後ろめたいし、情けない。けれど力に対しては嫉妬するし、もっと力が欲しい。本当に酷い話だ。渦巻く負の感情は、もう混ざりきって、一つの色を成している。黒々とくすんだ色だ。
けれど何故か、それは不思議と馴染んだ。以前のようにラインハルト兄様やクロード兄様を追っていた時のような焦燥は無くなり、生ぬるい泥の中に浮いているようであった。
「アリサっ!」
眼前を爪が過ぎていく。少し深く思考に沈みすぎていた。悲鳴に近いアオイの声で、一気に引き戻される。
相変わらずグリズリーはいくつも張られた断の魔術に足を取られて、なかなか加速できていなかった。それ故か、私にも余裕と言うか油断が生じていたのだろう。
再び足元への多重展開を張り、慎重になりつつあるグリズリーから距離を取る。ただただ冷たさを主張するだけであった剣を握り直した。腰を落とし、今度は私が溜めを作る。それを察したのか、グリズリーも迎撃せんと鋭い眼差しを向けてきた。
「――しっ」
鋭く一歩を踏み出す。魔術を展開した私だけが、この地の利を得ている。どこをどう進めばいいかなんて分かっているどころの話ではなく、一度消してから再び展開し直せば、それだけで私が通れて、相手だけが通れない絶対的に有利な空間が出来上がる。
――ちなみに、この使い方に、どんな印象を抱くかとクロード兄様に相談したことがあったのだけれど、「そんな使い方、よくもまぁ思いつくもんだ」と微妙な苦笑を向けられたのは忘れられない。
右へ左へとステップを刻みながらも、グリズリーとの距離を詰めていく。こうなれば迂闊に動けなくなった相手を、ヒットアンドアウェーでじりじりと削っていける。
「本当にごめん」
ずん、と崩れるグリズリー。完全に意識を断った一撃はグリズリーの真下から。地面より岩が隆起し、グリズリーの顔を思いっきり跳ね上げたのだ。
見えない罠で相手を足止めし、挙げ句わざわざ生み出した剣はフェイク。わざと攪乱するように動き、最後には意識の外から攻撃する。
「……自己嫌悪がやまないわ」
これが私の最善。だけれど、どうしても心は晴れはしない。ぐずぐずとくすぶるけれど、それにも慣れてしまった私自身が少し悲しくも思えた。
ここは私が幼い頃から必死に修練してきた森だから余計にだろう。
水の魔術でグリズリーに治療を施すと、コグマも心配そうにくんくん鳴きながらやってきた。
「あなたのお母さんに酷いことして、ごめんね」
コグマを抱き寄せる。謝罪の言葉を口にしているのは私なのに、何故か助けてほしかった。許してほしかった。
「……これからは、この戦い方で頑張っていくから。あなたのお母さんに勝ったから、私はもう負けないように全ての手を尽くすから」
私はもう卑怯であることを隠さないから、許してと。
本当に身勝手だ。自身が卑怯になるための口実を今ここで作ったのだ。本当に情けなかった。
「……うん、よし」
もう行くよ、と私はコグマを解放する。早くも意識を取り戻した母熊がぐるると唸っていたのもあり、私はそそくさとその場を後にする。
最後に一度振り返り――
「――え?」
そして世界は真っ赤に染まった。赤々とそれは踊る。視界の全てを赤が覆っているにもかかわらず、それが踊って見えたのは、色の濃淡だろうか。ゆらゆらと揺らめくそれは人の根源に、強烈な何かを――
「――サっ!」
ぐいと後ろに引かれて、麻痺していた感覚が蘇る。熱い。痛い。声も出ない。熱い。なのに手の先は冷たくて、感覚も無くなっていた。びりびりと何が揺れるけれど、音は入ってこない。
どんどんと遠ざかる紅の景色。戻ってくる四肢の感覚。今、自身が担がれていることに気づき、私は周囲を見渡そうとするも、身体が言うことをきかなかった。赤い景色から目が離せなかった。
「――っあ!」
息苦しさに、今まで呼吸を忘れていたことに気づく。そして、やっと声が出るようになり、身体も幾分か自由を取り戻す。
「だ、大丈夫?」
私はアオイに担がれていた。私を抱えても風のように駆けることのできる彼女。ただ、その表情は固く、声は震えていた。
「だい、じょうぶ」
ひりと痛む喉を振り絞る。喉だけでない、全身が痛む。
「なに、が」
起きたのか――それを尋ねる前に、私の意識は刹那で闇の奥底へと沈んでしまった。