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めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


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9/21

第9話 迷子の子犬と夕焼けのチャイム

 都会の夕方は、終わり方が下手だ。

 俊はそう思いながら、公園のベンチに座った。 

 オフィスビルの隙間から見える空は、橙というより、茶色に近い。

 夕陽の色が、排気ガスと建物の反射に混ざって、どこか濁っている。

 子どもの頃に見ていた夕暮れとは、別の色だった。

 

 仕事が終わって、家に帰る気になれなかった。

 理由は、いくつかある。

 ワンルームのアパートに帰っても、誰もいない。

 テレビをつけても、何かを見るわけではない。

 スマートフォンを見ても、返信したいメッセージがあるわけではない。

 ただ時間が過ぎて、眠くなったら寝る。

 それだけの夜が、また来る。

 それが嫌なわけではなかった。


 ただ今日は、その前に少しだけ外にいたかった。

 ベンチの前に、小さな噴水があった。

 水の音がしている。

 鳩が数羽、石畳をつついていた。

 夕方の公園には、犬を連れた人や、ジョギングをしている人が、それぞれのペースで動いていた。

 誰も誰かと関わっていない。

 同じ公園にいるが、それぞれが別の場所にいるみたいだった。

 俊は鞄を膝に置いて、噴水を見た。

 何も考えないようにしようとしたが、何かが考えられてしまった。


 橘俊、二十七歳。

 都内のIT系の会社でシステムエンジニアをしている。

 仕事は悪くない。

 給料も悪くない。

 人間関係も、特別こじれているわけではない。

 ただ、何かが薄かった。

 うまく言えない。

 不満があるわけではない。

 でも毎日、何かが薄い気がしていた。

 食べ物の味が薄いのではなく、自分が今いる場所の「実感」が薄い、とでも言うのか。

 ここにいるのに、ここにいる気がしない。

 そういう感覚が、ここ一、二年続いていた。


 故郷を出て、五年が経った。

 故郷というのは、北の方の小さな町だった。

 海が近くて、冬は雪が積もって、夏は虫の声がうるさいくらいだった。

 駅が一つで、コンビニが二軒で、高校を出たら「出ていく」か「残る」かのどちらかだった。

 俊は出ていく方を選んだ。

 選んだことに、後悔はない。

 ただ、出てきた先に何があったか、と問われると、答えに詰まる。

 仕事は手に入れた。

 生活も手に入れた。

 でも出てくる前に思い描いていた「何か」が何だったか、今となってはわからなかった。

 何かを探しに来たはずが、何を探していたか、忘れた。

 そういう状態が、続いていた。


 親への連絡が、滞っていた。

 最後に電話したのは、三ヶ月前だった。

 母が「元気?」と聞いて、俊が「元気だよ」と答えて、それで終わった。

 父は電話口に出てきて「仕事どうだ」と聞いて、俊が「まあまあ」と答えて、それで終わった。

 会話が、続かなかった。

 続かせる何かが、俊の中にも、向こうにも、なかったわけではないと思う。

 ただ、話し方を忘れていた。

 五年離れると、話し方を忘れる。

 何を話せばいいかではなく、どういう声で話せばいいかを、忘れていた。


 実家には、犬がいた。

 柴犬で、名前は「はな」、といった。

 俊が中学生の頃からいて、今年で十三歳になる。

 柴犬の十三歳は、人間に換算するとかなりの老齢だ。

 最近は足腰が弱ってきて、散歩の距離が短くなったと母が言っていた。

 その話を聞いた時、俊は「そうか」と言って、それだけだった。

 もっと何か言えばよかった、と思ったのは、電話を切った後だった。


 公園のベンチに座って、どのくらい経ったか。

 噴水の音を聞いていたら、少し眠くなっていた。

 目を閉じていたのかもしれない。

 何かが膝に当たった。

 柔らかくて、小さくて、温かいものが、勢いよく膝に飛び込んできた。

 俊は目を開けた。

 子犬だった。

 柴犬の子犬だった。

 まだ小さい。

 生後四、五ヶ月というところか。

 茶色と白の混じった毛並みで、耳がぴんと立っていて、目が丸くて黒い。

 俊の膝の上に前足をかけて、しきりに顔を舐めようとしていた。


「どこから来た」と俊は言った。

 子犬は答えなかった。

 当たり前だった。

 あたりを見回すと、リードが地面に落ちていた。

 首輪につながれたリードが、地面を引きずっている。

 どこかで外れたのか、飼い主が手を離したのか。

 そばに人の姿はなかった。


 俊は子犬の首輪を見た。

 名前と電話番号が書かれたタグがついていた。「むぎ」と書いてあった。

「むぎ」と俊は呼んだ。

 子犬がしっぽを振った。


 俊は子犬、むぎを膝の上に乗せたまま、飼い主を待つことにした。

 スマートフォンで首輪のタグの番号に電話しようとして、やめた。

 もう少し待てば飼い主が戻ってくるかもしれない。

 それに、むぎが膝の上でじっとしていた。

 降ろすタイミングが、わからなかった。


 むぎは最初のうち、あちこちを向いてそわそわしていた。

 でもしばらくすると、少し落ち着いてきた。

 前足を俊の膝の上に乗せたまま、鼻をひくひくさせていた。

 俊は子犬の頭に手を置いた。

 温かかった。

 柔らかかった。

 はながこのくらいの頃、同じような温かさだったか、俊には正確には思い出せなかった。

 でも手のひらに当たる感触が、遠い記憶の何かと重なった。

 うまく言葉にできない重なり方だったが、確かに何かと重なった。


 むぎが俊の手をぺろりと舐めた。

 俊は少し笑った。

 声に出さない笑い方だったが、笑った。

 久しぶりに、理由のある笑い方をした気がした。


 夕方のチャイムが鳴り始めた。

「夕焼け小焼け」のメロディだった。

 この公園の近くの小学校から流れているらしく、五時になると毎日この曲が流れると、ベンチに来るたびに気づいていた。

 都会の公園で「夕焼け小焼け」が流れるのは、少し場違いな気がしていた。

 でも今日は、それほど場違いに聞こえなかった。

 チャイムが流れ始めた瞬間、むぎが動いた。

 膝の上で体を起こして、空に向かって顔を向けた。

 そのまま、遠吠えを始めた。

「あーーーーう」という、子犬特有の、少し情けない遠吠えだった。

 でも一声ではなかった。

 チャイムに合わせて、合わせようとして、続けた。

 メロディには乗れていない。

 でも確かに、チャイムに応えようとしていた。


 俊の体が、固まった。

 はなが、そうだった。

 実家のはなが、夕方のチャイムに合わせて遠吠えをした。

 中学生の頃から、毎日していた。

「夕焼け小焼け」が流れると、庭に向かって「あーーーう」と鳴いた。

 音程は合っていないが、毎回必ずやった。

 家族の間で「はなの合唱」と呼んでいた。

 俊は子どもの頃、「夕焼け小焼け」が流れるたびに、外から「今日もやってるよ」と家に向かって叫んだ。

 母が「また始まった」と笑った。

 父が縁側に出てきて、はなと並んで空を見た。

 そういう夕方が、あった。


 チャイムの二曲目が流れ始めた。

 むぎはまだ遠吠えをしていた。

 俊はむぎを抱き上げた。

 抱き上げてから、胸に引き寄せた。

 柔らかくて、温かかった。

 むぎの小さな心臓の音が、俊の胸に伝わった。

 速くて、小さくて、確かな音だった。

 俊の目が、熱くなった。

 泣くつもりはなかった。

 ベンチで泣くつもりは、なかった。

 でも熱は引かなかった。

 チャイムが続いていた。

 むぎが俊の腕の中から、また遠吠えをした。

 俊は下を向いて、むぎの頭に顔を埋めた。

 誰かに見られているかもしれなかった。

 でも、どうでもよかった。


 チャイムが終わった。

 むぎが静かになった。

 俊はしばらくそのままでいて、それから顔を上げた。

 目が少し赤くなっているのが、自分でわかった。

 袖で拭いて、むぎを膝に戻した。

「お前、はなに似てるな」と俊は言った。

 むぎは俊を見た。

 黒くて丸い目で、まっすぐ見た。

「似てるだけだけどな」と俊は言った。

 むぎはしっぽを一度だけ振った。

 それだけだったが、俊にはそれで充分だった。


 スマートフォンを取り出して、首輪のタグの番号に電話した。

 数回呼び出して、女性の声が出た。

 あわてた声だった。

「むぎを預かっています」と俊が言うと、「よかった、どこにいますか」と聞いた。

 公園の名前を告げると、「すぐ行きます」と言って電話が切れた。

 俊はむぎを膝に乗せたまま、待った。

 五分ほどで、若い女性が走ってきた。

 むぎを見つけて「むぎ!」と叫んで、ベンチの前に膝をついた。

 むぎがしっぽを振って女性に飛びついた。

「ありがとうございます。リードを持ち替えた時に外れてしまって」と女性は言いながら、むぎを抱き上げた。

「大丈夫でしたよ」と俊は言った。

「ベンチにいてくれたので」

「そうですか。本当によかった。ありがとうございました」


 女性はむぎを抱いたまま、何度も頭を下げて去っていった。

 むぎが女性の腕の中から、俊の方を一度だけ振り向いた。

 俊はそれを見て、手を上げた。

 手を上げながら、「またな」と思った。

 今度は声に出さなかった。

 むぎはもう、女性の腕の中で前を向いていた。


 公園を出て、俊は歩いた。

 帰り道だった。

 いつもの帰り道。

 でも今日は、少し違う道を歩いた。

 遠回りになるが、川沿いの道を選んだ。

 川沿いを歩くと、空が少し広く見える。

 ビルの隙間ではなく、川の上の空が見える。


 夕暮れはもう終わりかけていて、空が濃い青になり始めていた。

 俊は歩きながら、むぎのことを考えた。

 むぎの遠吠えのことを。チャイムに合わせて鳴いた、あの情けない声のことを。

 はなの「合唱」のことを。

 縁側に出てきた父のことを。

 笑っていた母のことを。

 遠い記憶だと思っていたものが、今夜は近かった。

 距離が縮まったわけではない。

 故郷は、今もここから遠い。

 電車を乗り継いで、何時間もかかる。

 でも遠い場所にあるものが、今夜は遠く感じなかった。

 なぜかは、うまく言えない。

 むぎの温かさが、手のひらにまだ残っていた。


 アパートに帰って、手を洗って、スマートフォンを見た。

 母からメッセージが来ていた。

「はな、最近食欲が戻ってきたよ。少し元気になった」とあった。

 写真が添付されていた。

 俊は写真を開いた。

 縁側で寝ているはなの写真だった。

 白いお腹が、日溜まりに向けて伸びている。

 耳が少し下がっていて、目が細くなっている。

 老いた犬の、穏やかな顔だった。

 俊はその写真を、しばらく見た。

 十三歳だった。


 はなが生まれた頃、俊は中学生だった。

 餌をやって、散歩をして、一緒に縁側で寝た。

 受験の前の夜、眠れなくて廊下に出たら、はなが俊の足元で丸くなっていた。

「起きてたのか」と言ったら、しっぽを一度だけ振った。

 それだけだったが、それだけで、また眠れた気がした。

 俊はスマートフォンを持ったまま、電話アプリを開いた。

 母の番号を押した。

 呼び出し音が二回鳴って、繋がった。


「俊? どうしたの、急に」と母の声がした。

「写真見た」と俊は言った。

「はな、元気そうだったから」

「そう、よかったでしょ。最近ちょっと心配してたんだけど、またご飯食べるようになって」

「そうか」と俊は言った。

「よかった」

「あんたは? 元気?」

「まあまあ」と俊は言いかけて、止まった。

「まあまあじゃなくて、元気かどうか聞いてるんだけど」と母が笑いながら言った。

 俊は少し間を置いてから「元気だよ」と言った。


「今日、むぎっていう柴犬の子犬と会った」

「むぎ? どこで?」

「公園で。迷子だったんだけど、チャイムの時に遠吠えした。はなみたいに」

「あー、はなもそれやってたね」と母が言った。

 声が和らいだ。

「懐かしいね」

「うん」と俊は言った。

 しばらく、二人とも黙った。

 黙り方が、久しぶりに楽だった。

 話せない沈黙ではなく、話さなくていい沈黙だった。

「父さんいる?」と俊は聞いた。

「いるよ。替わる?」

  「うん」

 ガサゴソという音がして、父の声になった。

「俊か」と父は言った。

「仕事どうだ」

「まあまあ」と俊は言った。

「まあまあか」と父は言った。

「まあまあなら充分だ」

「そんなもんか」

「そんなもんだ」と父は言った。

 それだけだった。

 でも俊には、それで充分だった。

 父はもともと言葉が少ない人だった。

 でも縁側に出てきて、はなと並んで夕焼け小焼けを聞いていた。

 毎日そうしていた。

 言葉がなくても、そこにいた。

 俊は今も、それを覚えている。


 電話を終えて、俊はベッドに横になった。

 天井を見た。

 今日のことを、順番に思い出した。

 仕事のこと、公園のベンチのこと、むぎのこと、チャイムのこと。

 むぎが遠吠えした瞬間のことを思い出したら、また少し目が熱くなった。

 おかしい、と思った。

 子犬に泣かされるとは思っていなかった。

 でも泣いた。

 泣いて、電話した。

 それだけのことだったが、今夜のアパートは、先週のアパートより少しだけ違う気がした。


 部屋は同じだった。

 家具も同じ、匂いも同じ。

 でも何かが、少し違った。

 実感が、少しあった。

 ここにいる、という実感が、今夜は少しあった。

 俊はそれが何から来たのか、考えた。

 考えて、わからなかった。

 でも手のひらには、まだむぎの温かさが残っていた。

 それだけはわかった。


 翌日の朝、俊は母にメッセージを送った。

「今度帰る。日程決まったら連絡する」

 すぐに返信が来た。

「待ってる。はなも喜ぶよ」

 絵文字が一つついていた。

 母らしくない絵文字で、少し笑った。


 俊はカレンダーを開いた。

 来月の連休を見た。

 予定は入っていなかった。

 俊は「帰省」と打ち込んだ。

 打ち込んでから、少し考えて、「はなに会いに」と付け足した。

 誰に見せるわけでもないカレンダーに、そう書いた。

 それだけのことだったが、今日の朝は、昨日の朝より少し軽かった。


 俊は着替えて、鞄を持って、部屋を出た。

 エレベーターを待ちながら、昨日の夕方のことを思った。

 むぎが遠吠えして、俊が泣いて、はなに電話した夜のこと。

 チャイムが頭の中で流れた。

 夕焼け小焼けの、あのメロディが。

 俊は小さく、口ずさんだ。

 歌詞はうろ覚えだったが、メロディだけは知っていた。


 エレベーターが来た。

 ドアが開いて、俊は乗り込んだ。

 口ずさみながら、一階のボタンを押した。

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