第8話 古書店の栞とやり残した宿題
定年退職というのは、不思議な一日だ。
宮下はそう思いながら、職員室の自分の机を片付けた。
三十八年間使い続けた引き出しの中を、空にした。
赤ペン、出席簿、判子、よく使うプリントの束。
どれも三十八年かけて集まったものだが、片付けてみると段ボール一箱にも満たなかった。
人の一生というのは、案外かさばらないものかもしれない。
送別会は昨日だった。
同僚が花束をくれて、教え子たちが寄せ書きを持ってきた。
泣くかと思ったが、泣かなかった。
嬉しかったが、それより不思議な感覚の方が強かった。
明日からここに来なくていい、という事実が、どうにも実感を持てなかった。
校門を出る時、振り返った。
赤煉瓦の校舎が、曇り空の下に立っていた。
何十年も変わらない校舎だった。
自分が教えた生徒たちが、もうここを出て、社会のどこかで生きている。
その数が何人になるか、宮下には数えられなかった。
数えなくていい、と思った。
会えなくてもいい。
元気でいれば、それでいい。
でも一人だけ・・一人だけ、会えないまま、ずっとそのままの子がいた。
宮下哲夫、六十三歳。
国語教師を三十八年やった。
専門は現代文と古典で、詩の授業が得意だった。
難しい詩を噛み砕いて生徒に伝えることが好きで、その授業を目当てに選択科目を取る生徒が毎年いた。
自分で言うのもなんだが、悪い教師ではなかったと思う。
でも一人だけ、悔いが残る教え子がいた。
菜々のことは、毎年この季節になると思い出す。
桜の咲く頃に、菜々は入院した。
高校二年の春だった。
最初は「しばらく休む」という連絡だったが、そのしばらくが、そのまま続いた。
白血病だった。
治療が続いて、学校には戻れなかった。
宮下は時々、病室を訪ねた。
授業の話をした。
クラスの話をした。
菜々が「退院したら絶対読む」と言っていた詩集の話をした。
萩原朔太郎の詩集で、宮下の授業で少し紹介したものだった。
「先生が読んでって言うから絶対読む」と菜々は言っていた。
「退院したら」という言葉が、来なかった。
菜々は高校二年の冬に逝った。
十七歳だった。
宮下が病室を最後に訪れた時、菜々は点滴をしながらベッドで本を読んでいた。
「先生、これ読んでる」と言って、薄い文庫本を見せた。
詩集ではなかった。
絵本だった。
「なんで絵本なんだ」と宮下が聞くと「詩集は退院してからにしようと思って」と菜々は言った。
笑いながら言った。
それが最後だった。
宮下はその後、一度も萩原朔太郎の詩集を手に取れなかった。
退職の日の午後、宮下は古本屋に向かった。
なぜ古本屋に行こうと思ったのか、自分でもうまく説明できない。
定年退職の日に、特別な場所に行きたかったわけではない。
ただ、学校を出て、駅に向かって歩いていたら、気づいたら古本屋の方向に足が向いていた。
海辺の街に来たのは、今日が二度目だった。
一度目は十年ほど前で、研修で来た。
その時に、時計塔のある街並みが印象に残っていた。
今日、なぜここに来たのか。
一つだけ言えることは、学校から一番遠い場所に行きたかった、ということだった。
馴染みのない街の、馴染みのない古本屋。
時計塔の近くの路地を歩いていると、古い建物が目に入った。
「古書 みなと堂」
手書きの看板が出ていた。
扉が開いていて、中に本が積まれているのが見えた。
宮下は引き寄せられるように入った。
古本屋の中は、本の匂いがした。
当たり前のことだが、宮下にはその匂いが懐かしかった。
古い紙の匂いと、インクの匂いと、誰かが読んだ痕跡の匂い。
新しい本にはない、時間の匂いだった。
棚が天井まであった。
文庫、単行本、詩集、全集。
ジャンルの仕切りはあるが、大雑把だった。
同じ棚に詩集と料理本が並んでいたりする。
それが雑然としているようで、でも居心地が悪くなかった。
整理されすぎた本屋より、こういう場所の方が、本と目が合いやすい気がした。
レジには誰もいなかった。
奥の方から、本を運ぶ音がした。
宮下は詩集のコーナーを探した。
棚の端の方に「詩・俳句・短歌」と書いた紙が貼ってある。
その前に立って、背表紙を見ていった。
室生犀星、中原中也、金子みすゞ。
それから、萩原朔太郎の名前が目に入った。
宮下の手が、一瞬止まった。
文庫本だった。
薄い、古い版の文庫だった。
背表紙が少し焼けて、端が丸くなっている。
かなり読み込まれた本だった。
手に取った。
取ってから、少し迷った。
十五年間、手に取れなかった本だった。
でも今日、取れた。
退職の日だからか、それともこの場所の空気のせいか、わからない。
ただ取れた。
ページをめくった。
途中のページに、栞が挟まっていた。
紙の栞だった。
しおりとして売られているものではなく、切り取った紙を折ったものだった。
表は無地だった。
裏返すと、文字が書いてあった。
小さな文字で、丁寧に書いてあった。
「先生、宿題持ってきたよ」
宮下は、その文字を見た。
もう一度見た。
「先生、宿題持ってきたよ」
宮下の手が、震えた。
菜々の字だった。
確信があった。
何年も添削してきた字だった。
丸みのある、でも芯のある字。
句読点の打ち方も、特徴的な「て」の形も、菜々の字だった。
宮下はその栞を持ったまま、動けなかった。
「先生、宿題持ってきたよ」
宮下には心当たりがあった。
菜々が入院してから、宮下は一度だけ「宿題を出した」ことがあった。
病室で、冗談半分に言ったのだ。
「退院したら、萩原朔太郎を読んで、感想を聞かせてくれ。それが宿題だ」。
菜々は「先生、入院中に宿題出すの?」と笑った。
「退院したらな」と宮下は言った。
「退院したら」と菜々も言った。
退院は、来なかった。
だから宿題は、未提出のままだった。
ずっと、未提出のままだった。
宮下は栞を裏返した。
また表に返した。
文字は消えていなかった。
「先生、宿題持ってきたよ」と、確かに書いてあった。
「何かお探しですか」
声がして、宮下は顔を上げた。
棚の向こうから、少年が出てきた。
十六か十七か、そのくらいの年頃に見えた。
学校の制服ではなく、エプロンをしている。
古本屋の店員だった。
背が高くて、少し猫背で、目が大きい。
「あ、いや」と宮下は言った。
「少し驚いただけで」
「驚いた?」と少年は首を傾げた。
宮下は栞を見せた。
「これ、ここに挟まっていたんですが」
少年は栞を覗いた。
裏の文字を見た。
「何か書いてありますね」と少年は言った。
「知ってますか、誰が書いたか」
少年は少し考えるような顔をして「さあ、ずっとここにあったんで」と言った。
照れたような笑い方をした。
宮下はその笑い方を見て、息が止まりそうになった。
目が大きくて、笑うと少し眉が下がって、頬に力が入る。
その笑い方が・・菜々が照れた時にする笑い方と、同じだった。
菜々は女の子で、この少年は男の子だ。
顔の造りは違う。
髪も違う。
でもその笑い方だけが、同じだった。
宮下は何も言えなかった。
少年は気づかずに「その本、お買いになりますか?」と聞いた。
「・・はい」と宮下は言った。
「買います」
少年はレジに戻った。
宮下は詩集を持って、レジに向かいながら、店の中をもう一度見回した。
天井まである棚、古い本の匂い、雑然とした並び。
誰かが読んで、手放して、またここに来た本たち。
どの本にも、読んだ人の時間が染み込んでいる。
この詩集にも、誰かの時間が染み込んでいた。
栞を挟んだ誰かの時間が。
「先生、宿題持ってきたよ」と書いた誰かの、時間が。
宮下はレジに詩集を置いた。
少年が金額を打ち込みながら、ふと顔を上げた。
「学校の先生ですか?」と聞いた。
宮下は少し驚いた。
「なぜわかる」
「なんとなく」と少年は言った。
「雰囲気が先生っぽいので。あと、その栞の文字、『先生』って書いてあったから」
「今日で退職したんです」と宮下は言った。
少年は「そうですか」と言った。
「長かったですか?」
「三十八年」
少年は目を丸くした。
「三十八年、すごいですね」と言った。
「どんな先生でしたか?」
宮下は少し考えた。
「悪い先生じゃなかったと思いますが、よかったかどうかはわかりません」と答えた。
「それは教えた生徒たちが決めることですから」
少年はしばらく黙って、それから「きっとよかったと思いますよ」と言った。
「なぜ」
「わからないですけど」と少年は言った。
また照れたような笑い方をした。
眉が下がって、頬に力が入った。
「なんとなく、そう思います」
宮下は少年を見た。
少年は代金を告げて、詩集を袋に入れた。
宮下は財布を出した。
手が少し震えた。
震えているのを、少年に気づかれたくなかった。
古本屋を出ると、夕方になっていた。
空が橙色だった。
時計塔に明かりが灯り始めている。
石畳の路地に、夕陽が差し込んでいた。
宮下は袋を抱えて、路地の出口で立ち止まった。
栞のことを、もう一度考えた。
菜々の字かどうか、確かめる方法はない。
十五年前の教え子の字を、宮下が覚えているだけだ。
記憶は正確ではない。
似た字を書く人間は、世界に何人もいる。
あの少年の笑い方も、似ていると思っただけだ。
宮下にはわかっていた。
理屈では、そうだ。
でも今日、宮下は三十八年間手に取れなかった詩集を手に取った。
それは事実だった。
「先生、宿題持ってきたよ」という文字を見て、手が震えた。
それも事実だった。
どちらの事実も、消えない。
宮下は歩き始めた。
駅に向かいながら、袋の中の詩集のことを考えた。
今夜、読もうと思った。
十五年越しの、読めなかった詩集を。
菜々が「退院したら読む」と言っていた詩集を。
時計塔の脇の路地を抜ける時、小さな工房が目に入った。
「時枝修理工房」という看板が出ている。
引き戸がわずかに開いていて、中に明かりが見えた。
宮下は足を止めて、引き戸の前に立った。
中を覗くと、老人が窓際の椅子に座っていた。
白湯の入った湯呑みを両手で包んで、時計塔の方を向いていた。
老人が気配を感じたのか、顔をこちらに向けた。
目が合った。
老人は何も言わなかった。
ただ静かに、目を細めた。
宮下も何も言えなかった。
数秒、そのままだった。
それから宮下は「失礼しました」と小さく言って、歩き出した。
なぜあそこで立ち止まったのか、わからなかった。
でも立ち止まってよかった、と思った。
理由は、うまく言えない。
家に帰ったのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
鞄を置いて、手を洗って、台所でお茶を入れた。
定年退職の夜にしては、静かすぎる夜だった。
でも宮下には、それが合っていた。
騒がしい夜より、静かな夜の方が、今日という日に似合う気がした。
茶を持って、机に向かった。
袋から詩集を出した。
古い文庫本だった。
表紙が少し傷んで、ページが黄ばんでいる。
誰かが読み込んだ跡があちこちにあった。
折り目のあるページ、薄く鉛筆で線が引かれた詩。
読んだ人の時間が、確かに染み込んでいた。
栞は、詩集の真ん中より少し後ろに挟まっていた。
宮下はそのページを開いた。
萩原朔太郎の「旅上」だった。
宮下がよく授業で使っていた詩だった。
「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」で始まる、あの詩だった。
菜々が「この詩、好き」と言っていた詩だった。
理由を聞くと「遠いとわかってても、行きたいって思う気持ちが好き」と菜々は言った。
授業の後、廊下で話した記憶がある。
菜々は「先生は外国行ったことある?」と聞いて、宮下が「ない」と言うと「先生も行きたいって思う?」と聞いた。
「思う」と宮下が言うと、菜々は「じゃあ一緒だ」と言って笑った。
その笑い方が、今日の古書店の少年の笑い方と、重なった。
宮下はゆっくりと、詩集を読み始めた。
最初のページから読んだ。
萩原朔太郎の言葉が、静かに入ってきた。
難解な詩もあった。
宮下が授業で使ったことのない詩もあった。
でも読んでいると、それぞれの詩に、時間が感じられた。
書かれた時代の時間。
読んだ誰かの時間。
そして今、宮下が読んでいる時間。
詩というのは、そういうものかもしれない、と宮下は思った。
書かれてから何十年経っても、読む人がいれば生きている。
読む人の時間の中で、また動き始める。
菜々も、そういう詩を好きだった。
「旅上」のページに来た時、宮下は少し手を止めた。
栞が挟まっていたページだった。
「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」
声に出して読んだ。
一人の夜の、静かな部屋で、声に出して読んだ。
三十八年間授業でやってきたように、声に出した。
詩の言葉が、部屋に響いた。
宮下は読み終えてから、しばらく黙っていた。
菜々の顔を思い出した。
入院する前の、教室にいた頃の菜々。
廊下で話していた菜々。
病室でこちらを見ていた菜々。
最後に絵本を持って「詩集は退院してから」と言った菜々。
どの菜々も、笑っていた。
泣いている菜々を、宮下は一度も見たことがなかった。
泣いていたはずなのに、宮下の前では笑っていた。
「ありがとう」と、宮下は言った。
部屋に向かって言った。
誰もいない部屋に向かって。
でも言いたかった。
三十八年間、言いたかったわけではなかった。
でも今夜、この詩集を読み終えて、この栞を手元に持って・・言いたかった。
「宿題、ちゃんと読んだよ」と言った。
続けて「遅くなってごめん」と言った。
部屋は静かだった。
返事はなかった。
でも宮下には、菜々が「しょうがないなあ、先生は」と笑っている気がした。
根拠はなかった。
ただ、そう思えた。
翌日から、宮下は近所を歩くようになった。
三十八年、朝は学校に向かうだけだった。
今日からどこにも向かわなくていい。
その自由が、最初は居心地が悪かった。
でも歩いていると、少しずつ慣れていった。
町を歩くと、知らないものが見えた。
行ったことのなかった公園、入ったことのない喫茶店、知らなかった路地。
三十八年同じ道を歩いてきたのに、見えていなかったものが、たくさんあった。
宮下は詩集を持って歩いた。
喫茶店で読んだ。
公園のベンチで読んだ。
読みながら、菜々に説明する言葉を考えた。
この詩はこういう意味で、この言葉はこういう背景があって、と・・誰にも言わないが、考えた。
考えながら読むと、詩が違う顔をした。
授業で教えていた時とは、違う顔をした。
教えるために読むのではなく、誰かに話したくて読む。
それだけで、言葉の見え方が変わった。
宮下は少し、驚いた。
三十八年教師をやってきて、今日初めて詩の読み方を変えた気がした。
一週間後、宮下はまた「みなと堂」を訪れた。
扉を開けると、本の匂いがした。
前と同じ匂いだった。
奥から少年が出てきた。
宮下を見て、少し目を丸くした。
「また来てくださったんですね」と言った。
「先日の詩集を読んで、ほかにも探したいものができたので」と宮下は言った。
「何をお探しですか」と少年は聞いた。
「中原中也」と宮下は言った。
「と、室生犀星。菜々が次に読みたがっていたから・・」
言いかけて、止まった。
「菜々?」と少年が首を傾げた。
「昔、教えた生徒の名前です」と宮下は言った。
「その子が次に読みたがっていた詩人を、今度は先に読んでおこうと思いまして」
少年はしばらく宮下を見てから、「こちらへどうぞ」と棚の方へ歩き始めた。
その背中を見ながら、宮下は歩いた。
背が高くて、少し猫背で、エプロンをしている。
菜々ではない、と宮下にはわかっている。
でも今日、また来た。
それだけのことが、宮下には充分だった。




