第7話 銀色ボールペンの小言
机の引き出しに、銀色のボールペンが入っている。
木下はそれを知りながら、今日も引き出しを開けない。
別のペンを使う。
会社の備品の黒いボールペンを使って、書類に署名して、引き出しを閉める。
それで済む。
済むから、開けない。
開けたら、使いたくなる。
使ったら、村上のことを思い出す。
思い出すと、仕事にならない。
だから開けない。三年間、そうしてきた。
木下誠二、三十八歳。
中堅の広告代理店で、コピーライターをしている。
入社十四年目で、肩書きはシニアコピーライター。
チームを持って、後輩の面倒も見る立場になった。
仕事は好きだ。
言葉を選ぶことが好きで、この仕事を選んだ。
今も後悔していない。
ただ、三年前から、コピーを書くのが少し怖くなった。
怖い、というのは正確ではないかもしれない。
書けないわけではない。
締め切りには間に合わせてきた。
クライアントにも怒られていない。
でも書き終わった後に、以前はあった手応えが、薄くなった。
分のコピーを、誰かに見せる前に、村上に見せたかった。
ただそれだけのことが、できなくなって三年が経つ。
村上圭介と木下が出会ったのは、入社二年目の春だった。
同期ではない。
村上は一年後輩だった。
でも入ってきた瞬間から、村上は木下のライバルだった。
木下がそう感じたのではない・・村上が、そういう態度で来た。
最初のプレゼンで、村上は木下のコピーに噛みついた。
「ここの言葉、論理が飛んでますよね」と、会議室で全員がいる前で言った。
入社して三ヶ月の後輩が、十四ヶ月先輩のコピーに、そう言った。
木下は「どう飛んでる」と聞いた。
村上は説明した。筋道が立っていた。
反論できなかった。
その日の帰り道、木下は悔しくて、でも村上の指摘が正しかったことが余計に悔しくて、コンビニで缶ビールを一本買って、公園のベンチで飲んだ。
それが始まりだった。
村上は遠慮がなかった。
木下のコピーに、いつも何か言った。
「ここが弱い」
「この言葉じゃない気がする」
「論理が飛んでる」・・「論理が飛んでる」は村上の口癖だった。
言い方は毎回同じで、でも指摘の中身は毎回違った。
木下も言い返した。
「じゃあお前ならどう書く」と聞いた。
村上が書いた。
木下がそれに噛みついた。
また村上が言い返した。
そのやり取りが、二人の間の普通になった。
周囲から見ると、二人は仲が悪かった。
本人たちも、仲がいいとは思っていなかった。
でも村上のいない会議は、どこか物足りなかった。
村上の「論理が飛んでる」がない打ち合わせは、何かが抜けている気がした。
木下はそれを、村上には言わなかった。
言う機会を、何度も逃した。
村上の癖は、ボールペンを回すことだった。
人差し指でくるくると回す。
考えているときも、話しているときも、回していた。
使っているのはいつも同じボールペンだった。
銀色の、細いボールペン。
メーカーはわからない。
村上が使い続けているのを、木下は何年も見ていた。
「そのペン、どこで買ったんだ」と木下はある日聞いた。
「もらいものです」と村上は言った。
「誰からかは忘れましたけど」
「回しすぎて壊れるんじゃないか」
「大丈夫です。もう五年使ってますから」
「愛着があるなら回すな」
「回さないと考えられないんですよ」と村上は言って、また回した。
木下は呆れて、自分の仕事に戻った。
喧嘩別れ、と言えるかどうか。
木下にはわからない。
あの日、木下と村上が言い合ったのは、大きなコンペの方向性についてだった。
二人の意見が真っ向から対立した。
どちらも引かなかった。
「木下さんのやり方は古い」と村上は言った。
「お前のは尖りすぎてクライアントに届かない」と木下は言った。
「届けることと、刺さることは違います」と村上は言った。
「刺さっても伝わらなきゃ意味がない」と木下は言った。
それで終わった。
どちらも「もういい」とは言わなかった。
ただ打ち合わせが終わって、それぞれ席に戻った。
謝らなかった。
翌日も、その次の日も、二人は普通に仕事をした。
言い合ったことを、どちらも蒸し返さなかった。
蒸し返す前に、村上が死んだ。
言い合いの三日後、バイクで帰宅途中に事故に遭った。
即死だった。
二十九歳だった。
木下は村上の机の上に、銀色のボールペンが置かれたままなのを見た。
誰かが片付けるだろうと思っていたら、誰も片付けなかった。
木下が引き出しに入れた。
自分の机に持ってきた。
理由は、わからない。
コンペの仕事が行き詰まっていた。
新しいクライアントで、商品は老舗の醤油メーカーだった。
「伝統と革新」というテーマで、コピーを作る。
木下はもう二週間、同じところで止まっていた。
言葉は出る。
でも出た言葉が、どれも「古い」気がした。
村上の声が頭の中に聞こえた。
「論理が飛んでますよ」
木下は頭を振った。
三年経っても、そういう瞬間がある。
詰まると、村上の声が聞こえる。
そのたびに、木下は少しだけ仕事が進む。
幻の村上に、負けたくないから。
そういう情けない理由で、木下は続けてきた。
島田が配属されてきたのは、木下が行き詰まってから四日目だった。
新卒ではなく、中途採用だった。
二十四歳で、前職は別の広告会社だという。
担当の上司が外出中で、木下がとりあえず案内することになった。
フロアを一通り説明して、「何かわからないことがあれば」と木下が言いかけた時、島田がフロアを見回しながら言った。
「木下さんのデスク、どれですか」
木下が指さすと、島田は少し歩いて木下の机を見た。
モニターの横に積まれた資料を見て、付箋だらけのノートを見て、それから机の上に広げられたコピー案のプリントを見た。
「これ、今やってる仕事ですか」
「そうだけど」と木下は言った。
島田はプリントを覗いて、それから言った。
「ここ、論理が飛んでませんか」
木下の体が、止まった。
「・・どこが」
島田は人差し指でプリントの一行を指した。
「ここで『伝統』と言っておきながら、次の行でいきなり『未来』に飛んでる。間をつなぐ言葉が抜けてます。読んだ人が一瞬止まる」
木下はプリントを見た。
島田の言う通りだった。
木下は何も言えなかった。
島田は特に得意げでもなく、ただ「そう見えた」という顔で立っていた。
島田玲、二十四歳。
小柄で、髪が短くて、目が細い。
笑うと目がさらに細くなる。
よく笑う。
でも笑いながら遠慮がない。
前職では何をやっていたのか、後で人事に聞いたら「コピーライター志望だったが、営業に回されていた」とのことだった。
島田は木下のチームに入ることになった。
最初の一週間、島田は大人しかった。
メモを取って、会議に出て、質問があれば後で聞きに来た。
礼儀正しかった。
二週目から、変わった。
打ち合わせで、島田が口を開くようになった。
「ここの言葉、ちょっと弱くないですか」
「このコピー、刺さるターゲットが見えにくい気がします」
「論理が飛んでる気がするんですが」
また言った。
「論理が飛んでる」
木下は島田を見た。
島田は人差し指でボールペンを回していた。
銀色のボールペンだった。
木下はその日の打ち合わせ中、島田のボールペンを見続けた。
細い、銀色のボールペン。
人差し指でくるくると回す。
考えているときも、話しているときも。
村上と、同じだった。
「そのペン」と木下は打ち合わせが終わった後、島田に聞いた。
「はい?」
「そのボールペン、どこで買った」
島田は手の中のペンを見た。
「これですか? 就活の時に買ったんですけど、なんかこれじゃないとしっくりこなくて。銀色のが好きなんですよね」
「回すのは癖か」
「あ、すみません、打ち合わせ中に。気になりました?」
「いや」と木下は言った。
「気にしてない」
島田は「よかった」と笑って、ペンをポケットに入れた。
木下は島田が行った後、自分の机に戻って、引き出しに手をかけた。
開けた。
奥に、銀色のボールペンがあった。
三年間、触っていなかった。
少し埃をかぶっていた。
木下は取り出して、手の中に持った。
細くて、軽かった。
村上が五年使い続けたペンだった。
翌日から、木下は島田の指摘を、正面から受けることにした。
以前は、後輩の意見を「参考にする」という形で処理していた。
聞いて、取り込むかどうか自分で判断して、取り込まない場合は理由を説明した。
それが先輩のやり方だと思っていた。
でも島田には、言い返すことにした。
「論理が飛んでるって言うけど、お前ならどうつなぐ」
島田は考えた。
それから答えた。
木下が噛みついた。
島田が言い返した。
それを見ていた同僚が、後で木下に「島田くん、大丈夫ですか」と聞いた。
「何が」と木下は言った。
「なんか、木下さんに詰められてて」
「詰めてない。話してる」
同僚は釈然としない顔をして去った。
木下は少し考えてから、まあそう見えるか、と思った。
村上と自分も、そう見えていたんだろう、とも思った。
コンペの締め切り三日前。
木下は行き詰まっていた。
島田を呼んだ。
「このコピー、どう思う」
島田はプリントを受け取って、しばらく黙って読んだ。
ボールペンを回しながら読んだ。
「悪くないと思います」と島田は言った。
「でも?」と木下は言った。
「でも、なんか、木下さんらしくない気がします」
木下は眉を上げた。
「俺らしいってどういう意味だ。お前、俺のこと二週間しか見てないだろ」
「二週間で充分わかります」と島田は言った。
「木下さんのコピーって、最後に一個、予想外の言葉が来るじゃないですか。読んだ人が一瞬止まる言葉。それが今回ない」
木下は黙った。
「最後が丸く収まりすぎてる。着地が優しすぎる」と島田は続けた。
「刺さらないと思います」
「刺さることと、届けることは違う、って知ってるか」と木下は言った。
三年前に、誰かに言った言葉だった。
「知ってます」と島田は言った。
「でも刺さってから届く言葉もあると思います。刺さらないと、届く前に流れていく」
木下は島田を見た。
「それ、お前の言葉か」
「え?」と島田は首を傾げた。
「そうですけど。変ですか?」
木下は首を横に振った。
「いや」と言った。
「続けろ」
島田は続けた。
木下は聞いた。
その夜、木下はコピーを書き直した。
島田の言葉を借りたわけではない。
でも島田との話の後、詰まっていたものが動いた。
動いた先に、言葉があった。
最後の一行に、予想外の言葉を置いた。
書いてから、プリントアウトして、机の上に置いた。
引き出しから、銀色のボールペンを出した。
プリントの余白に、赤ペンではなく銀色のペンで、一か所だけ丸をつけた。
「ここ」と書いた。
誰に見せるわけでもない。
ただ、そうしたかった。
コンペは通った。
結果が出た日、島田が「やりましたね」と言って、珍しく声を上げて笑った。
木下は「お前のおかげじゃない」と言った。
「わかってます」と島田は言った。
「でも少しくらい褒めてくれてもいいじゃないですか」
「褒めてない」
「じゃあ何ですか」
「事実を言った。お前のおかげじゃないって」
島田は呆れた顔をして「木下さん、相変わらずですね」と言った。
相変わらず、と島田は言った。
二週間しかいない後輩が「相変わらず」と言った。
木下は何も言わなかった。
言葉が出なかった。
島田はもう次の仕事の資料を広げていた。
ボールペンを回しながら、画面を見ていた。
木下は自分の席に戻って、引き出しを開けた。
銀色のボールペンを、手に取った。
少しだけ、握った。
それから引き出しに戻して、閉めた。
今日は閉めた。
でも明日は、使うかもしれない、と思った。
その夜、木下は帰り道に寄り道をした。
村上が事故に遭った交差点を、木下は三年間避けていた。
帰り道を変えて、遠回りをして、その交差点を通らないようにしていた。
今日は、通った。
交差点は、普通の交差点だった。
信号があって、横断歩道があって、車が通って、人が渡る。
三年前と何も変わっていない。
変わっていないのが、当たり前だった。
世界は、一人がいなくなっても、そのまま動き続ける。
木下は青信号を渡った。
渡りながら、村上のことを思った。
言い合ったまま死なせてしまったことを、木下はずっと後悔していた。
謝りたかったわけではない。
謝るような話でもなかった。
ただ、続きがしたかった。
「刺さることと届けることは違う」と木下が言って、「刺さってから届く言葉もある」と村上が言い返す、その続きを。
今日、続きをやった。
相手は村上じゃなかった。
でも同じ言葉で、同じように言い合った。
木下は交差点を渡り切って、少し立ち止まった。
振り返らなかった。
「まあいい」と、声に出して言った。
誰にともなく言った。
村上がよく言った言葉だった。
何かが起きるたびに「まあいいか」と言って、また前を向いた。
木下は前を向いて、歩き始めた。
翌週の月曜日。
木下は出勤して、上着を脱いで、引き出しを開けた。
銀色のボールペンを取り出した。
手の中で一度だけ、くるくると回した。
うまく回らなかった。
人差し指の使い方が、違うのかもしれない。
まあいいか、と思った。
ペンを机の上に置いた。
今日から、使う。
モニターを立ち上げて、新しい仕事のブリーフィングシートを開いた。
隣のデスクで、島田がボールペンを回しながら資料を読んでいた。
木下は自分の画面を見た。
「島田」と呼んだ。
「はい」と島田が顔を上げた。
「今日の打ち合わせ、俺のコピー見てから来い」
島田は少し目を丸くして、それから「わかりました」と言った。
「論理が飛んでたら言いますよ」
「言え」と木下は言った。
「そのために呼ぶんだ」
島田は笑った。
木下は画面に向かった。
銀色のボールペンを、手に持った。
回し方は、まだわからない。
でも今日から、ここに置いておく。




