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めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


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6/21

第6話 夜勤病棟の少年

 夜の病棟は、昼間とは別の場所になる。

 三田はそれを、二十五年かけて知っていた。

 照明が落ちて、廊下が薄暗くなって、患者たちが眠り始める頃、病棟の空気が変わる。

 騒がしさが引いた後に残るもの・・息の音、点滴の滴る音、どこかの部屋から漏れてくるテレビの音。

 昼間には聞こえなかった音が、夜になると聞こえてくる。

 

 三田はその時間が、嫌いではなかった。

 正確には、嫌いになれなかった。

 夜勤が続くと体はきつい。

 足が痛い。

 頭が重くなる。

 でも夜の病棟の静けさの中を歩いていると、何かが凪いでいく感覚があった。

 騒がしい感情が、静かになっていく。

 それが三田には必要だった。


   三田久子、五十一歳。

   小児科病棟のベテラン看護師だった。

 後輩の指導もするし、急変対応もこなす。

 二十五年のキャリアで、できないことはほとんどなくなった。

 でも「慣れた」とは思っていない。

 慣れたと思った瞬間に、何かを見落とす気がして、三田はずっと慣れないようにしてきた。

 白衣のポケットに、小さな写真が入っている。

 三つ歳の男の子の写真だった。

 丸い顔で、目が大きくて、笑うと頬にえくぼができる。

 三田の息子、こうただった。


 こうたは二十年前に逝った。

 川崎病の合併症だった。

 最初は発熱で入院して、小児科医が処置をして、一度は落ち着いたように見えた。

 でも夜中に容体が急変して、朝になる前に逝った。

 三歳と、四ヶ月だった。


 三田はその頃、まだ看護師になって五年目だった。

 別の病棟で働いていた。

 夜勤の途中に連絡が来た。

 病院を飛び出して、タクシーで向かった。

 着いた時には、もう間に合わなかった。

 それから三田は、小児科病棟に異動を願い出た。

 なぜそうしたのか、自分でもうまく説明できない。

 こうたのいた場所に近くいたかったのか、それとも同じような子どもたちのそばにいることで何かを続けられると思ったのか。

 どちらでも、両方でも、どちらでもないのかもしれない。

 ただ、小児科病棟に来た。

 二十年、ここにいる。


 陽翔が入院してきたのは、梅雨明けの頃だった。

 八歳。

 気管支喘息の発作で緊急入院して、落ち着いたところで経過観察のための入院が続いていた。 

 両親は共働きで、昼間は祖母が付き添いに来て、夕方からは陽翔一人になることが多かった。

 三田が夜勤で担当するようになったのは、入院して四日目からだった。

 最初の夜、病室を確認しに行くと、陽翔は眠れずにいた。

 ベッドの上に座って、膝を抱えていた。

 部屋の電気は消えていて、廊下からの明かりが少し差し込んでいる。

 三田が入ると、陽翔は顔を上げた。


「眠れない?」と三田は聞いた。

  「うん」と陽翔は答えた。

  「苦しい?」

  「少し」

 三田はパルスオキシメーターを確認した。

 数値は問題なかった。

 発作の兆候もない。

 ただ眠れないだけだった。

 知らない場所で、一人で、眠れない。

 それだけだった。

「もう少ししたら楽になるよ」と三田は言った。

 陽翔は「うん」と言って、また膝を抱えた。

 三田は病室を出た。


 それからの夜、陽翔は毎回起きていた。

 三田が確認に行くたびに、眠れていなかった。

 でも発作が出るわけでも、体調が悪いわけでもなかった。

 ただ起きていた。

 三田が入ると、陽翔は必ず顔を上げた。


 二日目の夜、陽翔は「看護師さん、名前なんていうの」と聞いた。

「三田」と三田は答えた。

「みたさん?」

「三田久子。久子でいい」

「ひさこさん」と陽翔は言って、それから「変な名前」と言った。

「そうかもしれない」と三田は答えた。

 陽翔はしばらく黙ってから「ひさこさんは、夜は怖くない?」と聞いた。

 三田は少し考えた。

「夜の病棟は静かで、好きだよ」と答えた。

「ぼくは怖い」と陽翔は言った。

「暗いから。一人だから」

「そうだね」と三田は言った。

「でも私がいる」

 陽翔は少し黙って「そうか」と言った。

 それから横になった。


 三田は病室を出た。

 廊下に出てから、少し足が止まった。

「でも私がいる」と言ったのは、看護師としての言葉だった。

 でも言いながら、こうたのことを思っていた。

 こうたが夜中に急変した夜、三田はいなかった。

 いなかった。

 それだけのことが、二十年経っても重かった。


 五日目の夜だった。

 三田は夜勤の中盤で、疲れが出ていた。

 複数の患者の対応が続いて、足が痛くて、肩が張っていた。

 ステーションに戻って、カルテを書いていた。

 書きながら、目が霞んだ。

 集中が切れていた。

 二十五年やってきて、こういう夜がある。

 体が言うことを聞かない夜が。


「ひさこさん」

 声がした。

 顔を上げると、陽翔がステーションの前に立っていた。

 病室着のまま、裸足で。

 真夜中の廊下に、一人で立っていた。

「陽翔、どうした。苦しい?」と三田はすぐに立ち上がった。

「ちがう」と陽翔は言った。

「ひさこさん、顔が怖い」

 三田は動きを止めた。

「顔が怖い?」

「疲れた顔。怖い顔じゃなくて・・しんどそうな顔」

 三田は何も言えなかった。


 陽翔は少し考える顔をしてから、ステーションのカウンター越しに腕を伸ばした。

 三田の背中に、手が届いた。

 小さな手だった。

 円を描くように、ゆっくりと動いた。

 三田の体が、固まった。

 円を描く、小さな手。

 背中を、ゆっくりと。

 こうたが・・三田の胸の奥で、記憶が動いた。


 三田が熱を出すたびに、こうたは背中をさすった。

 三歳の子どもが、母親の背中をさすった。

「ままが熱いから」と言って。

 三田が発熱した夜、こうたが「ままが熱いから、つめたくしてあげる」と言って、小さな手で背中を撫でた。

 円を描くように。ゆっくりと。

 それと同じ動きだった。

 三田は声が出なかった。

 陽翔の手が、背中の上を動いている。

 真夜中の病棟で、八歳の男の子の手が、三田の背中をさすっている。

「無理しないでね」と陽翔が言った。


 三田の目から、涙が出た。

 拭こうとしたが、間に合わなかった。

 ポタリと、カルテの上に落ちた。

 陽翔は何も言わなかった。

 背中をさする手を止めなかった。

 三田が泣いていることに気づいているのか、いないのか。

 ただ、手を動かし続けた。


 しばらくして、陽翔は手を引いた。

「眠くなった」と言って、あくびをした。

 三田は涙を手の甲で拭いた。

 陽翔を見た。

 陽翔は三田を見ていた。

 泣いていたことを指摘しなかった。

「なんで泣いてるの」とも聞かなかった。

「病室まで一緒に行こうか」と三田は言った。

 声が少しかすれた。

「うん」と陽翔は言って、歩き始めた。


 廊下を並んで歩いた。

 陽翔の裸足が、廊下を叩く音がした。

 小さな足音だった。

 病室に戻ると、陽翔はベッドに上がった。

 毛布を引き寄せて、横になった。

「おやすみ、ひさこさん」と言った。

「おやすみ」と三田は言った。

 陽翔はすぐに目を閉じた。

 三田は病室の引き戸をそっと閉めた。

 廊下に出て、壁に背をもたせた。


 天井を見た。

 泣くつもりはなかった。

 夜勤中に泣いたのは、二十五年で初めてだった。

 でも泣いてよかった、と思った。

 二十年間、夜中に急変したこうたのそばにいられなかった。

 間に合わなかった。

 その罪悪感を、三田はずっと仕事の中に押し込めてきた。

 押し込めて、動き続けてきた。

 今夜、真夜中の病棟で、誰かに背中をさすってもらった。

 こうたじゃない、とわかっていた。

 陽翔と、こうたは別の人間だ。

 三田にはそれがわかっている。

 二十五年の経験があれば、感傷と事実の区別くらいはつく。

 でも今夜だけは、その区別を脇に置いた。

 背中をさすった小さな手の温もりを、ただ受け取った。


 夜勤が明けた朝、三田は更衣室で着替えながら、白衣のポケットからこうたの写真を出した。

 三歳の丸い顔が、こちらを見ている。

 三田はその写真を見て、久しぶりに声に出して話しかけた。

「会えてよかった」と言った。

 会えたかどうかは、わからない。

 確認する方法はない。

 でも三田には、そう言いたかった。

 言って、ポケットに戻した。

 更衣室を出た。


 病院の外に出ると、朝の空気が冷たかった。

 梅雨明けの朝で、空が高かった。

 駅に向かいながら、三田は花屋の前を通った。

 立ち止まった。

 小さなひまわりの束が、入口に出ていた。

 三田はそれを買った。


 家に帰って、こうたの写真の前に置いた。

 いつも花を置く棚に、今日は花があった。

 三田はしばらく、それを見た。

 こうたの写真が、花の向こうにある。

 丸い顔が、えくぼのある顔が、こちらを見ている。

「ただいま」と、三田は言った。

 言ってから、少し笑った。

 泣きながら笑えたのは、これで二度目だった。


 翌週、陽翔が退院した。

 母親と一緒に荷物をまとめて、廊下に出てきた。

 三田はちょうど日勤で、廊下ですれ違った。

「ひさこさん、またね」と陽翔は言った。

「元気でいてね」と三田は言った。

 陽翔はにっと笑って、母親と一緒に歩き始めた。

 廊下を曲がって、見えなくなった。

 三田はその背中を見送って、ステーションに戻った。

 カルテを開いた。

 仕事を続けた。

 いつもと同じ病棟で、いつもと同じ仕事を続けた。

 でもポケットの中の写真が、今日は少し違う重さだった。

 軽くなったわけではない。

 でも、柔らかくなった気がした。

 ずっと張り詰めていたものが、少しだけほどけた。

 それだけのことだったが、三田には充分だった。


   その夜、三田は珍しく定時に帰れた。

   駅のホームで電車を待ちながら、スマートフォンを開いた。

 母からのメッセージが一件入っていた。

「元気? 久しぶりに電話して」とあった。

 三田はそのメッセージを見て、電話することにした。


 ホームのベンチに座って、母の番号を押した。

 呼び出し音が三回鳴って、繋がった。

「久子、珍しいね」と母の声がした。

「うん。今日、なんとなく話したくて」と三田は言った。

「どうかした?」

「なんでもない。ただ話したかっただけ」

 母がしばらく黙って、それから「そう」と言った。

「じゃあ話そうか」と言った。


 三田は電車が来るまで、母と話した。

 大した話ではなかった。

 母の体のこと、近所のこと、昔の話が少し。

 こうたの話は出なかった。

 でも三田には、それでよかった。

 電車が来た。

「また電話する」と言って、通話を切った。


 ドアが閉まって、電車が動き始めた。

 車窓に、夜の街が流れた。

 三田はガラスに映った自分の顔を見た。

 疲れた顔だったが、陽翔に言われた「しんどそうな顔」とは少し違った。

 違いがどこにあるか、三田にはうまく言えなかった。

 でも違う、と思えた。

 それだけで、今夜は眠れる気がした。

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