第5話 画面の向こうの相棒
兄のゲーム機を捨てられないまま、八ヶ月が経った。
健人は押し入れの奥から引っ張り出したそれを、机の上に置いて眺めた。
黒いゲーム機だった。
メーカーのロゴが、光の当たり方で浮かび上がる。
側面に小さな傷がある。
兄の拓が落とした傷で、落とした瞬間に「あ」と言って、それから「まあいいか」と言ったのを健人は覚えている。
拓は何に対しても「まあいいか」と言った。
それが長所でもあり、短所でもあった。
事故は去年の三月だった。
バイクで帰宅途中、交差点で車と衝突した。
即死だった。
二十二歳だった。
健人が高校一年生の春で、拓は大学三年生だった。
葬儀が終わって、部屋の片付けをしていた時、母がゲーム機を「どうする?」と聞いた。
健人は「俺が使う」と言った。
使うつもりがあったわけではない。
捨てることができなかっただけだ。
でも「捨てられない」とは言えなかった。
八ヶ月、押し入れに入ったままだった。
今日、机の上に出したのは、特別な理由があったからではない。
土曜日の午後で、宿題も終わっていて、何をする気にもなれなかった。
スマートフォンを見ても、SNSを開いても、何も入ってこなかった。
ぼんやりしているうちに、押し入れのことを思った。
出してみようと思った。
動くかどうか確かめて、動かなかったら捨てよう、と思った。
それが理由だった。
コードをテレビに繋いだ。
電源を入れた。
起動音がした。
拓が何百回と聞いた起動音が、健人の部屋で鳴った。
健人は少し、息を止めた。
画面にメニューが出た。
拓のアカウントが残っていた。
セーブデータが、いくつかある。
拓がクリアしかけたまま止まっているゲームが、そのまま残っていた。
健人はメニューを眺めた。
触っていいかどうか、わからなかった。
拓のデータを開くことが、何かを侵す行為のように思えた。
でも消すことも、できなかった。
しばらくそのまま画面を見ていた。
拓はゲームが好きだった。
健人が物心ついた頃から、拓は何かしらのゲームをしていた。
テレビの前に座って、コントローラーを握って、真剣な顔をして。
負けると「くそ」と言って、すぐにもう一回始めた。
勝つと小さく拳を握って、それだけだった。
派手に喜ばなかった。
健人は最初、ゲームに興味がなかった。
でも中学に上がった頃、拓に誘われて一緒にやるようになった。
協力プレイができるゲームだった。
二人で同じ敵を倒していく。
拓が前に出て、健人がサポートする。
うまくいくと拓が「よし」と言った。
失敗すると拓が「俺がカバーするから前に出てみ」と言った。
その頃から、健人はゲームが好きになった。
正確には、拓と一緒にゲームをすることが好きになった。
拓のプレイには癖があった。
ピンチになると必ず先に動く。
待つことをしない。
それから弾を右から迂回させる。
正面から打たずに、必ず右回りで回り込む。
理由を聞いたら「なんとなく」と言った。
なんとなく、で十年その癖を持ち続けた。
健人には真似できない感覚だった。
メニューを眺めているうちに、オンラインの表示が目に入った。
拓がよくやっていた協力プレイのゲームだった。
健人も知っているゲームだ。
オンラインで見知らぬプレイヤーとチームを組んで、ステージをクリアしていく。
拓は「知らない人とやる方が緊張感があっていい」と言っていた。
健人はそのゲームを選んだ。
拓のアカウントではなく、新しくゲストアカウントで入った。
拓のデータには触れたくなかった。
でもそのゲームはやりたかった。
理由は、うまく言えない。
マッチングを開始した。
しばらくして、一人のプレイヤーが入ってきた。
名前は「T」だった。それだけだった。
アイコンは、デフォルトの無地だった。
ゲームが始まった。
健人はいつも通りプレイした。
拓と二人でやっていた頃より腕は落ちている。
八ヶ月、ゲームをほとんどしていなかった。
操作がぎこちなかった。
最初のステージで、すぐにピンチになった。
敵に囲まれて、体力が減っていく。
健人が後退しようとした瞬間、「T」が動いた。
先に動いた。
待たずに、前に出た。
敵の注意を引いて、健人の包囲を崩した。
健人はその隙に回復した。
健人は少し、手が止まった。
「T」が弾を撃ち始めた。
正面ではなかった。
右から回り込んだ。
弾の軌道が、右回りで敵の側面に入っていった。
健人の手が、止まった。
画面を見た。
「T」の動きを、目で追った。
ピンチになると先に動く。
弾を右から迂回させる。
そのままゲームが続いた。
健人は動けていなかったが、「T」が前を引いてくれていた。
ステージが終わった。クリアの表示が出た。
健人は画面を見たまま、動かなかった。
次のステージが始まった。
今度は健人も動いた。
拓と一緒にやっていた頃のことを思い出しながら、動いた。
サポートに回って、「T」の後ろから援護した。
うまくいった。「T」の動きに合わせると、自然に動ける気がした。
ステージが終わるたびに、健人の動きが戻ってきた。
五つ目のステージで、大きなピンチが来た。
強い敵が三方向から来た。
健人は判断が遅れた。
囲まれた。体力が一気に削られた。
「T」が来た。
正面から来た。
囮になった。
敵の三方向のうち二方向がそちらに向いた。
健人は残りの一方向を処理して、「T」の援護に回った。
なんとかクリアした。
ぎりぎりだった。
健人はコントローラーを握ったまま、少し息をついた。
昔、拓と一緒にやっていた時、こういう場面が何度もあった。
ぎりぎりでクリアして、二人で「やばかった」と言い合った。
拓が「俺が囮になるから後ろ取れ」と言って、健人が「わかった」と言って、それでうまくいった。
今日と、同じだった。
七つ目のステージをクリアした時、「T」からメッセージが来た。
ゲーム内のテキストチャットだった。
「強くなったな」
健人は画面を見た。
六文字だった。
ただの六文字だった。
知らないプレイヤーからの、ただの六文字だった。
でも健人は、コントローラーを置いた。
「強くなったな」
拓がよく言った言葉だった。
ゲームがうまくいった時、健人が成長した時、拓は必ずこう言った。
褒め方が不器用で、他の言葉を知らないんじゃないか、と健人はずっと思っていた。
でも拓はいつも「強くなったな」と言った。
それだけ言って、また次のゲームを始めた。
画面を見ると、「T」の接続が切れていた。
マッチング画面に戻っていた。「T」の名前は、もうなかった。
健人はしばらく、マッチング画面を見ていた。
別のプレイヤーを待つ表示が出ている。
でも健人はマッチングを始めなかった。
画面を見たまま、動かなかった。
窓の外が暗くなっていた。
ゲームを始めた時は昼だった。
気づいたら夕方を過ぎていた。
母が「夕飯できたよ」と廊下から声をかけた。
健人は「わかった」と答えた。
ゲーム機の電源を切った。
画面が黒くなった。
自分の顔が映った。
高校一年生の顔が、黒い画面に映っている。
拓が十六歳の時、どんな顔をしていたか、健人は思い出そうとした。
思い出せなかった。
昔の写真はあるが、記憶の中の拓はいつも大学生の顔をしている。
健人は机の引き出しを開けた。
奥に、写真が一枚入っている。
中学二年の時に撮った、拓と健人の写真だった。
二人でゲームをしている後ろ姿。
背中しか映っていない。
誰が撮ったか覚えていない。
でもこれだけが、二人でゲームをしている証拠だった。
健人はその写真を出して、机の上に置いた。
ゲーム機のそばに、立てかけた。
「強くなったな」と、誰かに言われた気がした。
言われた気がしただけで、確認する方法はない。
「T」が誰なのか、どこにいるのか、なぜあのプレイスタイルだったのか、健人にはわからない。
わからないまま、ただそう思った。
思っただけで、それでよかった。
夕飯を食べながら、健人は母に何も言わなかった。
ゲームをしていた話も、「T」の話も。
言えないのではなく、言う言葉が見つからなかった。
言葉にすると、何かが崩れる気がした。
言葉にしない方が、確かなままでいられる気がした。
母が「最近、どう?」と聞いた。
健人は少し考えてから「まあまあ」と答えた。
母が笑った。「拓が言いそうな答えね」と言った。
健人は黙った。
まあまあ、というのは健人の言葉ではなかった。
拓がよく使った言葉だった。
「調子どう?」と聞くと「まあまあ」と言った。
「ゲームどうだった?」と聞いても「まあまあ」と言った。
今日、健人は自然にその言葉を使っていた。
自分でも気づかないうちに。
翌日の朝。
健人は起きて、机の上を見た。
ゲーム機と、写真が並んでいた。
健人は写真を手に取った。
背中しか映っていない二人を見た。
どちらが自分でどちらが拓か、背中だけではわかりにくい。
でも健人にはわかった。
画面に少し近い方が、拓だった。
いつもそうだった。
拓が前に出て、健人がそこについていく。
健人は写真を引き出しに戻した。
それから、制服に着替えた。
日曜日だったが、友人と会う約束があった。
同じクラスの、ゲーム好きの友人だった。
前に誘われていたが、気が乗らなくてずっと断っていた。
今日は、行こうと思った。
玄関で靴を履きながら、健人は自分でも少し驚いた。
行こうと思ったことに。
気が乗らないままずっとそうしてきたのに、今日は行こうと思った。
理由を考えたが、うまく言えなかった。
ただ、昨日「強くなったな」と言われた気がして、それで充分な気がした。
その週末。
健人は友人の家で、一緒にゲームをした。
友人がピンチになった時、健人は先に動いた。
囮になって、友人の包囲を崩した。
友人が「お前、うまいな」と言った。
健人は少し笑って「教えてもらったから」と言った。
「誰に?」と友人が聞いた。
健人は少し考えてから「兄に」と答えた。
それだけ言った。
友人は「そうか」と言って、ゲームに戻った。
健人も画面を見た。
右から弾を迂回させた。
なんとなく、そうしたくなった。




