↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/21

第4話 ひだまりのシマエナガ

 雪は、音を消す。

 義雄はそれを、三十年かけて覚えた。

 最初の冬は、その静けさが怖かった。

 窓の外が白くなるたびに、世界から切り離されるような感覚があった。

 でも三十回の冬を過ごすうちに、義雄は雪の静けさを怖いとは思わなくなった。


 今は、むしろ待っている。

 最初の雪が降る朝の、あの静けさを。

 山小屋は、標高八百メートルほどの中腹にある。

 麓の村から車で四十分、冬になると道が凍って、慣れた運転でも気を遣う。

 義雄は今年七十三歳になった。

 免許は持っているが、ここ数年は冬になると麓には下りない。

 必要なものは秋のうちに揃えて、雪解けまでここで過ごす。

 不便だとは思わない。

 不便と感じるには、比べる先が必要だ。

 義雄にとっての「普通」は、もうここになっていた。


 朝は五時に目が覚める。

 目覚ましは使わない。

 体が勝手に起きる。

 カーテンを開けると、まだ暗い。

 冬の夜明けは遅い。

 義雄は台所でやかんを火にかけて、白湯を一杯飲む。

 それから窓の外を見る。


 庭は、昨日と同じように雪に覆われている。

 あるいは、昨日より少し深くなっている。

 義雄は雪の深さを目で測る。

 一センチ増えたか、二センチか。

 長年の習慣。

 大雪になりそうなら薪を多めに運んでおく。

 そうでなければ、いつも通り過ごす。

 今朝は、昨日と変わらない深さだった。


 義雄は椅子を窓際に引いて、座った。

 湯呑みを両手で包んで、外を見た。

 夜明けがゆっくり来る。

 空の端が、少しずつ白くなっていく。

 その白さが山の輪郭を浮かび上がらせる。

 木々が、雪を載せたまま静止している。

 何も起きない朝だった。

 義雄はそれでいいと思っていた。


 義雄がここへ来たのは、四十三歳の冬だった。

 妻と離婚して、勤めていた会社も辞めた。

 どちらが先だったか、今となってははっきりしない。

 どちらかが原因でどちらかが結果、という単純な話でもなかった。

 義雄と妻の間には、長い年月をかけてゆっくりと積み重なったものがあって、それがある日、静かに崩れた。

 崩れる音も、崩れる瞬間も、どちらも気づかなかった。

 気づいたら、崩れていた。


 子どもはいなかった。

 親戚は数人いるが、連絡を取っていない。

 友人と呼べる人も、いつの間にかいなくなっていた。

 義雄が遠ざけたのか、向こうが離れたのか、それも今はわからない。


 山小屋は、もともと父親が持っていたものだった。

 父は狩猟が好きで、週末になるとここへ来た。

 義雄は子どもの頃、何度か連れてきてもらった。

 父が死んで、山小屋は義雄のものになった。

 何年もそのままにしていたが、四十三歳の冬に、義雄はここへ来た。

 一週間のつもりだった。

 気づいたら、三十年が経っていた。


 義雄が人と関わることをやめたのは、意識的な決断ではなかった。

 自然にそうなった。

 最初の冬は、時々麓に下りた。

 村の食料品店で買い物をして、店の人と少し話した。

 それが翌年は月に一度になり、その翌年は雪解け後だけになり、いつからか必要なとき以外は下りなくなった。

 名前を呼ばれることが、なくなった。

 人間が名前を呼ばれなくなると、どうなるか。

 義雄は自分で確かめた。

 最初は少し寂しかった。

 でもその寂しさにも慣れた。

 慣れた後は、何も感じなくなった。

 感じなくなったことを、義雄はどちらでもいいと思った。

 良くも悪くもなかった。

 ただ、続いていた。


 シマエナガが最初に庭に来たのは、十一月の終わりだった。

 義雄が窓の外を見ていると、梅の木の枝に白い塊が止まった。

 丸い。

 綿毛のように丸くて、小さい。

 シマエナガだとわかった。

 北海道の鳥だが、この山でも見かけることがある。

 冬になると、餌を求めて行動範囲が広がる。

 義雄は白湯を飲みながら、見ていた。


 シマエナガは枝から枝へ移りながら、何かをついばんでいた。

 虫の卵か、木の実の残りか。

 小さなくちばしが、枝を叩く。

 一分ほどで飛んでいった。

 義雄は湯呑みを置いて、また外を見た。

 鳥のいなくなった梅の木が、静かに揺れた。


 翌日も来た。

 同じ梅の木に、同じように止まった。

 同じシマエナガかどうかはわからないが、義雄には同じに見えた。

 丸さが、同じだった。

 その翌日も来た。

 義雄は少し驚いた。

 野鳥が同じ場所に三日続けて来ることは、珍しくはない。

 でも義雄が驚いたのは鳥の習性ではなく、自分が「また来た」と思ったことだった。

 誰かが来ることを、三十年ぶりに待っていた。


 一週間が経った頃、義雄は口笛を吹いてみた。

 理由はなかった。

 強いて言えば、気まぐれだった。

 シマエナガが梅の木にいるのを見ながら、窓を少し開けて、口笛を吹いた。

 なんの曲でもなかった。

 ただ音が出た。

 冬の空気の中に、小さな音が出た。

 シマエナガが止まった。

 枝の上で動きを止めて、こちらを向いた。

 義雄は続けた。

 音を伸ばしたり、短く切ったりしながら、でたらめに吹いた。


 シマエナガが首を傾げた。

 右へ。

 それから左へ。

 また右へ。

 義雄の手から、湯呑みが落ちそうになった。

 落ちなかった。

 でも指が震えた。

 口笛が途切れた。


 右へ、左へ、また右へ。

 夏子がそうだった。

 夏子、義雄の妹だった。

 三つ下の妹で、小さい頃は義雄の後をいつもついてきた。

 口笛を吹くと、夏子は首を傾けた。

 右へ、左へ、また右へ。

 リズムに合わせて、音楽に合わせて。

 夏子が好きだった手遊び歌のリズムと、同じ動きだった。


 夏子は義雄が十二歳のとき、川で溺れて死んだ。

 九歳だった。

 義雄は川にいなかった。

 友人と遊びに行っていた。

 夏子は一人で川へ行った。

 なぜ一人で行ったのか、今でもわからない。

 義雄が家にいれば、一緒に行った。

 一緒に行けば、何かが違ったかもしれない。

 かもしれない、というのは、確かめられない言葉だ。

 義雄はその「かもしれない」を、六十年以上持ち歩いてきた。


 口笛が途切れると、シマエナガは少し首を戻した。

 それからまた、枝をついばみ始めた。

 何事もなかったように。

 義雄は窓の縁を両手でつかんでいた。

 指が白くなるほど、力が入っていた。

「ゆきちゃん」と、義雄は言った。


 夏子のことを、家族は「ゆき」と呼んでいた。

 夏子の「夏」と「雪」は反対の字だが、冬に生まれたから、という理由で父がつけた。

 夏子は自分の名前が好きだと言っていた。

 夏の子なのに雪みたいで、おもしろいと言っていた。

「ゆきちゃん、ここにいたのか」

 言葉が出ていた。


 自分で驚いた。

 三十年、誰かに呼びかける声を出していなかった。

 名前を呼ぶことも、呼ばれることも、なかった。

 その声が、今朝出た。

 シマエナガは梅の木の枝で、じっとしていた。

 飛んでいかなかった。

 義雄は窓枠をつかんだまま、鳥を見た。

 鳥も、こちらを見ていた。

 白い丸い体が、雪の中で光を返している。

 泣くかと思ったが、泣かなかった。

 それより先に、胸の中で何かが、長年固まっていたものが、少しだけ動いた。

 動いて、居場所を変えた。

 溶けたのではなく、動いた。

 それだけだったが、義雄にはそれがわかった。


 口笛を、また吹いた。

 今度は、曲を吹こうとした。

 夏子が好きだった手遊び歌の旋律を。

 うろ覚えだった。

 メロディが途中でわからなくなって、でたらめが混じった。

 シマエナガが、また首を傾げた。

 右へ、左へ、また右へ。

 義雄は笑った。

 声に出して笑ったのが、いつぶりかわからなかった。

 笑い方を忘れていたかもしれないと思っていたが、笑えた。

 少し不格好だったが、笑えた。


 その日の午後、義雄は物置を開けた。

 奥の方に、古い木箱があった。

 引っ越してきた時に持ってきたもので、三十年間開けていなかった。

 埃が積もっていた。

 義雄は箱を出して、蓋を開けた。

 中に、手遊び歌の本があった。

 夏子が持っていたものだった。

 表紙が色褪せて、角が丸くなっている。

 開くと、夏子の字で書き込みがあった。

 好きな歌のところに丸がついている。

 いくつかの歌の横に「あそびかた」と書いてある。

 小学生の字で、少し歪んでいる。


 義雄は本を手に持って、窓際の椅子に戻った。

 ページをめくった。

 夏子が丸をつけた歌を、一つ一つ確かめた。

「なべなべそこぬけ」に丸がある。

「あんたがたどこさ」に丸がある。

「いちじくにんじん」に丸がある。

 どれも義雄が子どもの頃に知っていた歌だった。

 夏子と一緒に遊んだことのある歌も、ある。


 一番大きな丸がついていたのは、「ひとりでできた」という歌だった。

 義雄は知らなかった。

 知らない歌だった。

 楽譜が載っている。

 歌詞が載っている。

 ひとりで何かができた時に歌う歌らしかった。

 単純な歌詞で、明るい旋律で、子ども向けの歌だった。


 義雄はその楽譜を見ながら、口笛で吹いてみた。

 うまくいかなかった。

 何度かやり直した。

 三回目で、最後まで吹けた。

 窓の外を見た。

 シマエナガはもういなかった。

 梅の木の枝に、鳥の重さの分だけ雪が残っていた。

 義雄はそれを見て、また明日来るかもしれない、と思った。

 来なくてもいい、とも思った。

 今日、ここに来てくれた。

 それで充分だった。


 夜、義雄は炉に薪をくべながら、久しぶりに昔のことを思い返した。

 夏子が死んで、義雄は誰かを失うことが怖くなった。

 怖いから近づかなかった。

 近づかなければ、失わない。

 そう思っていた。

 でも失わないために近づかなかった結果、義雄はここで一人になった。

 どちらが良かったか、今もわからない。

 でも今日、シマエナガが来た。


 義雄は「ゆきちゃん」と呼んだ。

 呼んで、笑った。

 呼んだことと、笑えたことが、義雄には意外だった。

 六十年分の「かもしれない」を持ちながら、それでも笑えた。

 笑えるのなら、もう少し続けられる気がした。

 何を続けるのか、具体的にはわからない。

 でも「もう少し」と思えたことが、義雄には久しぶりの感覚だった。

 炉の火が、揺れた。


 翌月のこと。

 麓の村の掲示板に、一枚の紙が貼られた。

「月一回の寄り合いをします。どなたでもどうぞ。場所は公民館、毎月第二土曜日の午後二時から」

 幹事の名前の欄に、「時枝」とあった。


 その寄り合いに、雪解けが来た四月の第二土曜日、山から降りてきた老人がいた。

 紺色のジャンパーを着て、白髪を短く刈り込んだ老人だった。

 公民館の入口で少し立ち止まって、それから引き戸を開けた。

 中にいた人たちが顔を上げた。

 老人は少し迷ってから、「橘です」と言った。

 それだけ言って、一番端の席に座った。

 名前を言ったのが、いつぶりかわからなかった。

 でも言えた。

 窓の外、雪解けの空が広がっていた。


 その日の朝、山小屋の庭の梅の木に、シマエナガが来ていた。

 義雄はもう出かける準備をしていたから、窓から少しだけ見た。

 白い丸い体が、枝の上にいた。

 義雄は口笛を短く一回だけ吹いた。

 シマエナガが、首を傾げた。

 右へ、左へ、また右へ。

 義雄は頷いて、玄関へ向かった。

「行ってくる」と、小さく言った。

 返事はなかった。

 でもそれで、充分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。