第3話 レモンドロップの赦し
白衣のポケットに、缶が入っている。
田中はそれを知りながら、今日も廊下を歩く。
小児科病棟の廊下は明るい。
壁に子どもたちが描いた絵が貼ってある。
ゾウ、ライオン、丸い太陽。
どれも線がはみ出していて、色が塗りきれていない。
でも堂々としている。
余白を恐れていない絵だ、と田中はいつも思う。
缶は、レモンドロップの缶だ。
黄色い丸い缶で、蓋に英語でレモンの絵が描いてある。
中は空だ。
もう十年、空のまま持ち歩いている。
捨てることができなかった。
捨てようとしたことは、何度もある。
そのたびに手が止まった。
十年前のことを、田中はまだ毎日考える。
毎日、というのは正確ではないかもしれない。
でも思い出さない日はない、というのは正確だ。
何かの拍子に、必ず戻ってくる。
点滴のチューブを替えるとき。
処方箋を書くとき。
廊下の端の処置室の前を通るとき。
りんちゃんのことが、戻ってくる。
田中が小児科医になって四年目の春だった。
急性白血病の診断が下りたとき、りんちゃんは六歳だった。
入院してきた日のことを、田中は今でも細部まで覚えている。
母親に手を引かれて病棟に入ってきた。
ランドセルと同じくらいの大きさのリュックを背負っていた。
水色のリュックに、うさぎのキーホルダーがついていた。
「先生、よろしくお願いします」とりんちゃんは言った。
六歳が、よろしくお願いします、と言った。
大人みたいな言葉が、小さな体から出てきた。
田中は少し驚いて、しゃがんで目線を合わせた。
「こちらこそ、よろしく」と言った。
りんちゃんは笑った。
前歯が一本抜けていた。
抗がん剤治療が始まった。
吐き気が続いた。
髪が抜けた。
それでもりんちゃんは病室で折り紙を折った。
千羽鶴ではなく、毎回違う動物を折った。
田中が病室に入ると、ベッドのそばのテーブルに新しい動物が増えていた。
カエル、ネコ、クジャク。
「これ作った」と、りんちゃんは毎回言った。
自慢ではなく、報告するように。
三ヶ月で、いったん寛解した。
田中は正直ほっとした。
まだ四年目だった。
経験が浅かった。
寛解したことに安心して、次のことを考えた。
定期的な検査を続けながら、りんちゃんは自宅に帰った。
半年後に、再発した。
今度は進行が早かった。
骨髄移植の適合ドナーが見つかるまでの時間が、足りなかった。
田中は毎日病室に通った。
できることはすべてやった。
でも「できること」の限界が、田中には見えていた。
見えていながら、りんちゃんの前ではそれを出さなかった。
出さないようにした。
りんちゃんは最後まで、折り紙を折った。
指が動きにくくなってからも、折った。
完成しない鶴が、枕元に積まれていた。
田中が夜勤明けに病室を訪れた朝、りんちゃんは眠っていた。
そのまま、目を覚まさなかった・・。
田中は廊下に出て、壁に背をつけて、しばらく動けなかった。
泣かなかった。
泣けなかった、というより、泣く前に何かが固まったような感覚だった。
自分のどこかが石になったような。
その石は十年経った今も、溶けていない。
りんちゃんが最後に田中に言った言葉は、「先生が来てくれて、よかった」だった。
レモンドロップの缶と一緒に。
「先生にあげる」と言って、ベッドの脇の引き出しから出した。
「もう食べちゃったけど、缶がかわいいから」と言って笑った。
前歯はもう生え揃っていた。
でも笑い方は、初日と変わらなかった。
田中はその缶を、今日もポケットに入れている。
颯太が入院してきたのは、梅雨の始まりの頃だった。
九歳。
急性虫垂炎で手術をして、経過観察のため一週間の入院。
命に関わる病気ではない。
処置も標準的なものだ。
田中のような経験を積んだ医者が担当するような症例ではなかったが、病棟の都合で田中が担当になった。
最初の顔合わせで、颯太は言った。
「先生、若くないね」
田中は少し間を置いた。「そうだな」と答えた。
「いくつ?」
「四十二」
「おじさんじゃん」
「そうだな」
颯太は田中の白衣を上から下まで眺めてから「まあいいや」と言って、ゲーム機に目を戻した。
手術の傷の経過は良好だった。
熱も下がって、食欲も戻った。
颯太は回復が早かった。
それに比例するように、口も達者になっていった。
回診のたびに、颯太は何か言った。
「先生の聴診器、冷たい」
「説明が長い」
「もう退院できる気がする、なんで先生はそう思わないの」。
文句というより、観察に近かった。
この子は物事をよく見ている、と田中は思った。
大人が「気にしない」と流しているものを、颯太はいちいち口に出す。
それが時々、鋭く当たった。
四日目の回診のとき、颯太が言った。
「先生、いつもポケットに何か入ってるね」
田中は動きを止めた。
「丸いやつ。缶?」
田中は答えなかった。
颯太は「秘密?」と聞いた。
田中は「そうだな」と言った。
颯太は一秒考えて「じゃあいい」と言って、また別の話を始めた。
それだけだった。
でもその夜、田中は当直室でしばらく天井を見ていた。
颯太に見えているとは思っていなかった。
白衣のポケットの膨らみを、子どもが気にするとは思っていなかった。
十年間、誰にも指摘されなかった。
同僚にも、患者の親にも。
それを、九歳が四日で見つけた。
りんちゃんも、そういう子だった。
大人が見落とすものを、静かに見ていた。
退院の日は、晴れた朝だった。
颯太の母親が荷物をまとめている間、颯太は病室のベッドの端に座って、田中と向き合っていた。
着替えを済ませて、私服だった。
学校のロゴが入ったパーカーを着ている。
病院着ではない颯太を見るのは初めてで、田中は少し驚いた。
同じ子どもなのに、違う子に見えた。
「元気でな」と田中は言った。
颯太は「うん」と言った。それから少し考える顔をした。
何かを言おうとして、やめた。
また考えた。
田中はそれを待った。
「あのさ」と颯太は言った。
「うん」
「ありがとな。先生が来てくれて、よかった」
田中の体が、固まった。
廊下の音が、遠くなった。
颯太はまっすぐ田中を見ていた。
照れている様子はなかった。
感謝の言葉を言い慣れていない子どもが、それでも言おうと決めて、言った、という顔だった。
「先生が来てくれて、よかった」
同じ言葉だった。
言い方も、声の高さも、りんちゃんとは違う。
颯太の声は少し低くて、りんちゃんの声は高かった。
でも言葉は同じだった。
一言一句、同じだった。
颯太はリュックを持って立ち上がった。
黄色いリュックだった。
田中はそれを見た。
黄色いリュックを見た。
りんちゃんのリュックは水色だった。
違う。
違うのに、田中の胸の中で何かが動いた。
動いて、どこかへ向かった。
「颯太」と田中は呼んだ。
颯太が振り向いた。
「何か、手に持ってるか」と田中は聞いた。
颯太は首を傾げた。それから「あ」と言って、パーカーのポケットをまさぐった。
丸い缶が出てきた。
オレンジ色の缶だった。
蓋に英語でオレンジの絵が描いてある。
レモンドロップではなく、オレンジキャンディの缶だった。
「これ、あげる」と颯太は言った。
「もう食べちゃったけど、缶がかわいいから」
田中は動けなかった。
「もう食べちゃったけど、缶がかわいいから」
颯太は何も知らない。
田中のポケットの缶のことも、りんちゃんのことも、十年前のことも。
この子は何も知らないはずだった。
でもその言葉は、あの朝と同じだった。
田中はゆっくり手を伸ばして、缶を受け取った。
「ありがとう」と言った。
声が少し、かすれた。
颯太は気づかなかったのか、気づかないふりをしたのか、「じゃあな」と言って母親の方へ歩いていった。
田中は缶を、白衣のポケットに入れた。
右のポケットには、十年前の黄色い缶。
左のポケットに、今日のオレンジの缶。
廊下を歩いていく颯太の背中を見た。
黄色いリュックが揺れていた。
その日の昼休み、田中は屋上に出た。
病院の屋上は使われていない。
立入禁止でもないが、わざわざ来る人もいない。
田中は時々ひとりでここへ来る。
空が広いから。
屋内にいると空が見えないから。
フェンスの際に立って、街を見下ろした。
晴れた日だった。
梅雨の合間の、珍しい晴れだった。
遠くに海が光っている。
どこかで子どもの声がする。
学校の体育の時間だろうか、笛の音がした。
田中は右のポケットの缶に触れた。
十年間、ここにあった。
捨てられなかったのではなく、捨てなかったのかもしれない、と田中は今日初めて思った。
捨てる理由がなかった。
持っていることが、田中には必要だったのかもしれない。
「先生が来てくれて、よかった」
りんちゃんはあの朝、本当にそう思って言ったのだろうか。
田中はずっと、それを疑っていた。
六歳の子どもが、自分が死にかけているとわかっていたはずがない。
あの言葉は、りんちゃんが誰かに教えられた言葉なのではないか。
または、子どもがよく使う決まり文句なのではないか。
田中はそう思うことで、言葉の重さを半分にしようとしていた。
でも今日、颯太が同じ言葉を言った。
颯太は誰にも教わっていない。
颯太は決まり文句として言ったのではない。
颯太は、自分で考えて、言おうと決めて、言った。
田中にはそれがわかった。
だとしたら。
りんちゃんも、同じように言ったのかもしれない。
自分で考えて、言おうと決めて。
先生が来てくれて、よかった。
田中は目を閉じた。
屋上の風が吹いた。
梅雨の合間の風で、少しだけ湿っていた。
フェンスが小さく鳴った。
田中の目から、涙が出た。
泣くつもりはなかった。
でも目を閉じたら、出てきた。
りんちゃんが死んだ朝、廊下で固まった時には出なかった涙が、十年経って今日、屋上で出た。
一度出たら、止まらなかった。
白衣の袖で拭いながら、田中は笑った。
笑いながら泣くというのは、子どもみたいだと思った。
でも止められなかった。
泣きながら笑って、笑いながら泣いた。
フェンスを握って、しばらくそうしていた。
遠くで、笛の音がまた鳴った。
その夜、田中は家に帰って机に向かった。
引き出しを開けた。
一番奥に、便箋が入っている。
何年も前に買って、使わないままだった。
薄い水色の便箋で、端に小さな花の模様がある。
一枚取り出して、ペンを持った。
「りんちゃんへ」と書いた。
それから、止まった。
何を書くべきか、わからなかった。
謝りたいのか、礼を言いたいのか、ただ話しかけたいのか。
整理がつかなかった。
整理しなくていいかもしれない、と思った。
「あの日、間に合わなくてごめん」と書いた。
「でも今日、あなたの言葉をまた聞いた気がした」と書いた。
「先生が来てくれて、よかった、というあなたの言葉を」と書いた。
「ありがとう」と書いた。
それだけ書いて、ペンを置いた。
封をしなかった。
封をする必要を感じなかった。
届けるものではなくて、田中が書いたかったものだから。
書いて、ここに置いておく。
それでいい。
右のポケットの缶と、左のポケットの缶を、机の上に並べて置いた。
黄色と、オレンジ。
どちらも空だった。
でも空だから、軽かった。
田中は便箋を引き出しに戻して、電気を消した。
眠る前に、今日のことを一度だけ振り返った。
颯太の顔を、言葉を、黄色いリュックの揺れ方を。
それからりんちゃんの折り鶴を、前歯の抜けた笑顔を。
どちらも、消えなかった。
消えなくていい、と田中は思った。
消えないまま、持っていく。
それだけのことだ、と思えた。
初めて、そう思えた。
翌週の月曜日。
田中は出勤して、白衣を着た。
ポケットに缶を入れた。
二つとも。
黄色と、オレンジ。
少し重くなった気がしたが、悪い重さではなかった。
廊下を歩いた。
壁の絵が目に入った。
ゾウ、ライオン、丸い太陽。
線がはみ出して、色が塗りきれていない。
でも堂々としている。
田中はその絵の前で、少し足を止めた。
今まで「余白を恐れていない絵だ」と思っていた。
今日もそう思ったが、もう少し先まで考えた。
はみ出しているのではなく、そこまで描いたのだ、と思った。
線の外側まで、ちゃんと行こうとした跡だ。
田中は歩き始めた。
処置室の前を通った。
いつもと同じ廊下だった。
でも今日は、少しだけ歩幅が違った気がした。
田中自身には、わからなかった。
でも廊下を歩いていく田中の背中は、どこか違った。
ポケットの中で、二つの缶が小さく当たった。
それだけの音だったが、田中には聞こえた。




