第2話 掌のオルゴール
壊れたものは、なぜか重い。
誠はそう思いながら、紙袋をかばんの中に入れ直した。
オルゴールはもともと小さな木箱で、重さで言えば大したことはない。
でも電車の中でずっと抱えていると、なぜか疲れた。
壊れていることの重さ、と言えばいいのか。
使えないものを持ち歩くことの、どこか後ろめたいような感覚。
祖母が死んで、三ヶ月が経った。
享年八十二歳。
大往生、と親戚たちは言った。
誠もそう思う。
苦しまずに逝けたと医者は言ったし、最後まで頭もしっかりしていた。
葬儀は滞りなく済んで、四十九日も終わった。
泣いた。
悲しかった。
でも泣き終わった後に、どこかすうっと抜けたような感覚があって、それが正しいのか正しくないのか、誠にはわからなかった。
遺品の整理をしたのは母で、誠は手伝いに行っただけだった。
タンスの奥から出てきたとき、母が「これ知ってる?」と言って差し出した。
小さな木箱。
蓋に薔薇の彫刻が入っていて、金色の留め具がついている。
誠は知らなかった。
「開けてみたら壊れてた」と母が言った。
蓋を開けると、動かなかった。
音が出なかった。
バネが伸びきっているのか、それとも別のどこかが傷んでいるのか、誠には判断できなかった。
「捨てる?」と母が聞いた。
誠は「持っていく」と答えた。
なぜそう答えたのかは、よくわからない。
その日から三ヶ月、誠の部屋の棚の上に、オルゴールは置かれたままだった。
海辺の街を訪れたのは、別の用事のついでだった。
大学の友人が引っ越したので、餞別を渡しに来た。
それだけのつもりだったのに、友人の家が思ったより遠くて、帰り道に乗り換えを間違えて、気づいたら聞いたことのない駅で降りていた。
改札を出たら、潮の匂いがした。
海が近いのか、と思って空を見上げると、夕暮れが橙色だった。
こういう色を久しぶりに見た気がした。
都内では空が狭くて、夕焼けを意識することがない。
誠は立ち止まって、しばらく空を眺めた。
駅前の小さな商店街を抜けると、古い時計塔があった。
高さはそれほどでもないが、煉瓦造りで、年季が入っている。
塔の上の時計が午後五時四十分を示している。
鐘はまだ鳴らない。
でも鳴る前の、少し張り詰めたような空気があった。
時計塔の脇の路地を覗くと、小さな看板が目に入った。
「時枝修理工房」
木の板に、墨で書いたような文字だった。
矢印が路地の奥を指している。
誠は立ち止まった。
かばんの中のオルゴールを思った。
三ヶ月、棚の上に置いたままにしていた。
持ち歩いてきたのは、今日が初めてだった。
なぜ今日持ってきたのかも、正確には言えない。
友人への餞別を包んでいるとき、なんとなく思い出して、一緒に鞄に入れた。
それだけだった。
路地に入った。
石畳だった。
昔のままの石畳で、少し凸凹している。
両側に古い建物が並んでいて、夕陽が届きにくい。
薄暗い路地の奥に、明かりが見えた。
工房の扉は、古い木の引き戸だった。
すりガラスが嵌まっていて、内側から明かりが滲んでいる。
扉の上に小さな鈴がついていて、引くと「ちりん」と鳴った。
中に入ると、時間が違った。
誠はそう感じた。
外の夕暮れとは別の時間が、この部屋の中には流れている。
天井が低くて、古い木の匂いがする。
棚という棚に、時計が並んでいた。
置き時計、掛け時計、懐中時計。
動いているものも、止まっているものも。
全部が静かに、そこにある。
奥の作業台に、老人がいた。
紺色の作業着を着ている。
白髪を短く刈り込んで、顔の皺が深い。
ルーペを目に当てて、小さな時計の内部を覗き込んでいた。
誠が入ってきても、顔を上げなかった。
誠は入り口の近くに立ったまま、部屋を見回した。
棚の隙間に、時計以外のものも混じっている。
壊れたオルゴール、古いラジオ、蓄音機の部品らしきもの。
共通しているのは、全部が「時間や記憶に関わるもの」だと誠は思った。
音楽、時刻、声。
どれも形がなくて、でも確かにあったもの。
それらが壊れた状態で、この棚に並んでいる。
「何をお持ちですか」
老人がルーペを外して、顔を上げた。
声が低くて、よく通った。
目が澄んでいる。
年齢の割に、目だけが若い。
「あの」と誠は言いながら、かばんから紙袋を出した。
「オルゴールなんですが。祖母の遺品で。壊れていて、音が出ないんです。直りますか」
老人は無言で立ち上がった。
歩いてくる動作が、ゆっくりだった。
急いでいないというより、急ぐことが最初からないような歩き方だった。
誠の前まで来て、両手を差し出した。
誠は紙袋を渡した。
老人は袋を開けずに、外から形を確かめた。
それから中を開けて、木箱を取り出した。
蓋の薔薇の彫刻を、指先でそっとなぞる。
何かを確認しているようにも、懐かしんでいるようにも見えた。
「開けてみてよいですか」
誠が頷くと、老人は留め具をそっと外した。
蓋を開ける。
内側に金属のシリンダーが見えた。
バネが一本、外れているのが誠にも見えた。
老人はしばらく、内側を覗いていた。
何も言わなかった。
誠も何も言わなかった。
時計が刻む音だけが、部屋に満ちていた。
数十個の時計が、それぞれ少しずつずれたリズムで刻んでいる。
全部が揃うことはない。
でも全部が確かに動いている。
「三日いただけますか」と老人は言った。
「あ、はい。お願いします」
「お名前は」
「橋本誠です」
老人は作業台の引き出しから、小さな紙切れを出した。
「橋本誠様 オルゴール一点」と万年筆で書いて、誠に渡した。
受取票だった。
「いくらになりますか」と誠は聞いた。
「直ってから決めます」と老人は答えた。
それだけ言って、オルゴールを持って作業台に戻っていった。
もうルーペを目に当てていた。
誠は受取票を財布にしまって、工房を出た。
引き戸を閉めると、鈴が鳴った。
三日後。
誠が工房を再び訪れたのは、仕事帰りの夜だった。
時計塔の鐘が七時を打つのを聞きながら路地を歩いた。
石畳の凸凹を、今度は知っていた。
すりガラスの明かりも、同じように滲んでいた。
鈴を鳴らして引き戸を開けると、老人は同じ場所にいた。
今日は別の時計を分解している。
誠に気づいて、顔を上げた。
「お待ちしていました」
老人は立ち上がって、棚の一角からオルゴールを取り出した。
誠の前の小さなカウンターに置いた。
「開けてみてください」
誠は留め具に手をかけた。
一瞬、躊躇した。
なぜ躊躇したのか、自分でもわからない。
直っているとわかっているのに、開ける前に少し間を置いた。
開けたら何かが変わるような、開ける前の静けさをもう少し持っていたいような。
うまく言えない感覚だった。
蓋を開けた。
音が出た。
最初の一音が鳴った瞬間、誠の体が動きを止めた。
知らない曲だった。
少なくとも、誠は知らなかった。
でも聴いた瞬間に、どこか遠くで誰かが口笛を吹いているような既視感があった。
曲ではなく、その曲の空気を、誠は知っていた。
曲は、単純だった。
難しい技巧はない。
繰り返しが多くて、でもその繰り返しが単調ではなかった。
一周するたびに、少しだけ違う顔をして戻ってくる。
誠はカウンターに両手をついて、音を聴いた。
工房の時計たちが、それぞれのリズムで刻み続けている。
オルゴールの音は、その中に溶け込んで、でも沈まなかった。
曲が一周して、また戻ってきた。
誠の頭の中に、突然、祖父の後ろ姿が浮かんだ。
台所に立っている。
エプロンをしている。
肩幅が広くて、首の後ろがいつも日焼けしていた。
祖父は料理が得意ではなかった。
祖母が入院しているとき、誠が手伝いに行くと、祖父が台所に立っていた。
不器用そうに野菜を切りながら、口笛を吹いていた。
あの口笛だ、と誠は思った。
祖父が台所で吹いていた、あの曲だ。
誠は祖父に一度だけ「その曲、何?」と聞いたことがある。
小学生の頃だったと思う。
祖父は振り向いて、少し照れたように「知らん。自然に出てくるやつや」と言った。
それだけだった。
曲名も知らないまま、祖父は逝った。
五年前のこと。
オルゴールが鳴っている。
誠は自分の目が熱くなっているのに気づいて、瞬きをした。
泣くつもりはなかった。
でも熱は引かなかった。
「知ってる曲ですか」と老人が聞いた。
静かな声だった。
誠は少し考えてから「祖父が口笛で吹いていた曲です」と答えた。
「でも、曲名は知らなくて。このオルゴールが最初からこの曲だったんですか?」
老人は頷いた。
「バネを直して、シリンダーを調整しただけです。もともとこの曲が入っていました」
誠はもう一度、オルゴールの内側を見た。
金属のシリンダーに、小さな突起が並んでいる。
この小さな凹凸が、あの口笛になる。
祖父が台所で吹いていた、曲名も知らないあの旋律が、この小さな金属の中に刻まれていた。
祖父は知っていたのだろうか。
このオルゴールの存在を。
祖母が持っていることを。
この曲が入っていることを。
わからない。
誠には確かめる術がない。
祖父も祖母も、もういない。
でも何かが、つながっている気がした。
つながっている、というより・・最初からつながっていた、という感じ。
誠が生まれるずっと前から、このオルゴールと祖父の口笛はどこかで結ばれていて、誠はただその端を今日、引いただけのような。
代金を払おうとすると、老人は首を横に振った。
「今日はいいです」と言った。
「え、でも」
「また困ったものがあれば、持っておいでなさい」
誠は少し戸惑ったが、老人の目を見て、それ以上言うのをやめた。
何かを言うより、受け取った方がいい時がある。
そういう空気だった。
「あの」と誠は言った。
「このオルゴール、祖母の遺品で。祖父が祖母に贈ったものだと思うんですが・・どうして祖父はこの曲を選んだんでしょうね」
老人は少しの間、黙っていた。
「聴いていたかったんでしょう」と、老人は言った。
「え?」
「贈った相手が、この曲を持っていれば、どこにいても鳴らせる。自分がいなくても」
誠はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
祖父は不器用な人だった。
誠の知る限り、口数が少なくて、愛情表現が下手で、祖母に「ありがとう」を言うのを誠は一度も聞いたことがなかった。
でも祖母が入院したとき、毎日お見舞いに行った。
料理が苦手なのに台所に立って、口笛を吹きながら野菜を切った。
祖母が先に逝って、祖父が後を追うように二年後に逝った。
自分がいなくても。
老人の言葉が、胸の中でゆっくりと沈んでいった。
水に石を落とすように、沈みながら波紋を広げていった。
誠はオルゴールの蓋を、そっと閉めた。
「ありがとうございます」と言った。
老人は小さく頷いた。それだけだった。
工房を出ると、夜になっていた。
時計塔に明かりが灯っている。
石畳の路地を抜けると、商店街の灯りが戻ってくる。
誠はオルゴールをかばんに入れて、駅へ向かいながら歩いた。
歩きながら、祖父母のことを考えた。
二人が出会ったのは戦後すぐだと聞いていた。
祖父は職人で、祖母は近所の縫製工場で働いていた。
どうやって仲良くなったのか、誠は詳しく知らない。
聞いたことがなかった。
子どもの頃から当たり前にそこにいたから、「二人がどうやって二人になったか」を誠は考えたことがなかった。
不器用な祖父が、どこかでオルゴールを選んで、買って、祖母に渡した。
曲を選んだのか、店に並んでいたものを買ったのか、それもわからない。
でも祖父が何十年もその曲を口笛で吹き続けたということは・・オルゴールの音を、ずっと覚えていたということだ。
祖母のタンスの奥に、そのオルゴールがあった。
壊れていても、捨てなかった。
誠は駅のホームで電車を待ちながら、かばんを胸に抱えた。
中のオルゴールが、硬くて重かった。
さっきより重い気がしたが、今度の重さは違う種類だった。
壊れていることの重さではなくて、入っているものの重さだった。
電車が来た。
誠は乗り込んで、空いた席に座った。
かばんを膝の上に置いた。
向かいの席に、老いた夫婦が座っていた。
どちらも無言で、でも肩が触れていた。
窓の外を見ているようで、どこも見ていないような顔をしている。
夫の方が眠っているのか、目が細くなっていた。
妻の方が、そっと夫の手に自分の手を重ねた。
夫は目を開けなかった。
でも指が、妻の手を包むように動いた。
それだけだった。
誠はしばらく、その二人の手を見ていた。
見ていることに気づかれたくなくて、目線を窓の外に移したが、窓ガラスに反射した二人の手が、まだ見えた。
家に帰って、誠は部屋の棚にオルゴールを置いた。
さっきまで置いていた場所と同じ場所だったが、なんとなく違う気がした。
同じ棚の、同じ位置なのに。
誠はベッドに座って、オルゴールを見た。
蓋を開けてもいいし、開けなくてもいい。
どちらでもよかった。
ただ、そこにあることが、今日は違って見えた。
壊れていた頃は「どうしようもないもの」に見えた。
今は「何かを持っているもの」に見える。
誠は部屋着に着替えて、台所に立った。
冷蔵庫を開けると、昨日の残りの野菜があった。
人参、大根、じゃがいも。
誠は料理があまり得意ではない。
でも今夜は、なんとなく切りたかった。
包丁を出して、まな板を出した。
人参を切り始めた。
不揃いだった。
太さがばらばらで、斜めになっているものもある。
祖父が切った野菜も、いつもこうだった。
不器用な人の切り方だと思っていたが、今となっては・・不揃いでも、ちゃんと食べられる。
それだけのことだ、とも思える。
切りながら、口笛を吹こうとした。
あの曲を。
でも誠はあの曲を正確には覚えていなくて、最初の数音だけ出て、後が続かなかった。
少し笑って、やめた。
オルゴールを鳴らせばいい、と思った。
包丁を置いて、部屋に戻った。
蓋を開けると、音が出た。
最初の一音が鳴った。
台所まで持っていって、作業台の端に置いた。
音が台所に流れた。
誠は人参の続きを切った。
不揃いに、でもちゃんと切れた。
オルゴールが一周して、また戻ってきた。
誠はそれを聴きながら、大根に包丁を当てた。
その夜、誠はずっと後回しにしていたことを思い出した。
去年の春から付き合っている人がいる。
麻衣という。
誠より一歳年下で、図書館で働いている。
真面目で、本が好きで、笑うと目が細くなる。
誠は彼女に、ちゃんと気持ちを言ったことがなかった。
付き合っているのだから、当然好きなのだが・・言葉にしたことがなかった。
言おうとするたびに、タイミングを逃した。
そのうち言えばいい、と思っているうちに、一年が過ぎた。
自分がいなくても。
老人の言葉が、また頭の中に戻ってきた。
祖父はオルゴールを渡した。
言葉ではなく、音で。
自分がいない時間にも、祖母の手元に残るものを選んだ。
不器用な人の、不器用な愛情の形だった。
でも祖母はタンスの奥に、ずっとそれを持っていた。
誠はスマートフォンを手に取った。
麻衣の名前を出して、通話ボタンを押した。
呼び出し音が三回鳴って、繋がった。
「どうしたの、急に」と麻衣の声がした。
誠は一瞬、何と言うか迷った。
迷ってから「今夜、ちょっと話したいことがあって」と言った。
「え、何?」
「うまく言えるかわからないけど」
「言えないことは言わなくていいよ」と麻衣は笑いながら言った。
誠は少し考えた。
「いや、言う。うまくなくていいから」
麻衣が黙った。
待っていた。
誠は台所のオルゴールを見た。
一周して、また戻ってきたところだった。
「好きだよ」と、誠は言った。
「ずっと言いそびれてたけど、好きだ」
麻衣がしばらく黙っていた。
「知ってた」と言って、また笑った。
「でも、ありがとう」
通話を終えた後、誠はオルゴールの蓋を閉めた。
部屋に戻って、棚に置いた。
今度こそさっきと違う場所に見えた。
ずっとそこにあったのに、今日からここにある、という感じ。
誠はベッドに横になって、天井を見た。
祖父と祖母が出会ってから、六十年以上が経つ。
その間にどれだけの言葉を言い損ねて、どれだけのことを伝えられなかったか、誠には知る方法がない。
でも二人の間には、あのオルゴールがあった。
曲名も知らない、小さな旋律が。
祖父が選んで、祖母が持っていた。
それだけのことが、六十年分の何かを、言っていたのかもしれない。
誠は目を閉じた。
眠る前に、あの曲の最初の数音を、頭の中でもう一度鳴らしてみた。
今度は、少し先まで続いた。




