↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/21

第1話 雨宿りの黒猫

 雨は、予告なく降り始める。

 天気予報が外れたのか、それとも加奈が確認を怠ったのか。

 どちらでもよかった。


 駅からの帰り道、かばんの中に折り畳み傘があることは知っていたのに、取り出す気力がどこかに抜けていて、加奈は気づいたら軒先に立っていた。

 古いバス停だった。

 屋根はあるが壁はない。

 正面に時計塔が見える。

 夕暮れの橙に塗られていたはずの空が、今は一面、灰色の布で覆われている。

 時計の針は午後七時を過ぎようとしていた。


 三十二歳、独身、営業事務。

 自分を一言で説明しようとするとこうなる、と加奈はぼんやり思う。

 趣味の欄に書けるものも、最近はなかった。

 好きだったカフェ巡りも、もう半年は行っていない。

 休日は家で横になりながら、何かを見ているようで何も見ていない時間を過ごす。

 それが「休息」なのか「消耗」なのか、区別がつかなくなっていた。


 雨脚が強くなった。

 バス停のベンチに、誰もいない。

 加奈は荷物を置かずに立ったまま、雨の匂いを嗅いだ。

 アスファルトが濡れるときの、土っぽくて少し甘い、あの匂い。

 子どもの頃は好きだったのに、いつ頃からか気にならなくなっていた。


 気づくと、隣にいた。

 黒猫だった。

 いつから来ていたのかわからない。

 ベンチの端に丸まっていて、しかし完全には丸まりきれていない・・全身がびしょ濡れで、毛が束になって張り付いている。

 耳の先まで雨水が滴って、小さな顎が震えていた。

 加奈は猫を見た。

 猫は加奈を見た。

 黄緑色の目だった。

 光の具合で、翡翠のようにも見える。


 加奈はかばんを下ろし、ベンチに腰を下ろした。

 猫との距離は、大人が一人座れるくらい。

 近づきもしない。

 遠ざかりもしない。

 ただそこにいた。

 猫も、動かなかった。

 しばらく、二人で・・と言っていいのかわからないけれど・・雨を眺めた。

 バス停の屋根を叩く音が、思ったより大きい。

 雨の夜はうるさい、と加奈は思う。

 だから好きじゃなかった。

 静かにしたいのに、音が来る。


 猫がくしゃみをした。

 小さな、情けない音だった。

 加奈は思わず笑いそうになって、笑わなかった。

 笑ったら負ける気がした。

 何に負けるのかは、わからない。

 猫はくしゃみの後、少しだけ加奈の方を向いた。

 加奈はポーチを探った。

 ティッシュしか出てこなかった。

 猫に何かしてやれるものは何もない。

 でも手ぶらでいるのも落ち着かなくて、加奈はティッシュを一枚出して、自分の手を拭いた。

 意味のない行動だったが、何もしないよりはよかった。


 猫がベンチを降りた。

 四つ足で着地して、そのまま加奈の方へ歩いてくる。

 ゆっくりした歩みだった。

 びしょ濡れの足が、コンクリートに水の跡をつける。

 加奈は体を固くした。近づいてくる生き物に対して、どう構えていいかわからなかった。

 猫は加奈の足元で止まった。

 見上げてくる。

 翡翠の目で、まっすぐに。

 加奈はとっさに視線を逸らした。

 目が合うと何か言わなければならない気がして、でも何も言えなくて、加奈は宙を見た。

 猫が加奈の左手に鼻先を寄せた。

 かばんの取っ手を握っていた手だった。

 冷えていた。

 猫の鼻は、もっと冷たかった。

 小さな冷たさが手の甲に当たった瞬間、加奈は息をのんだ。

 猫が舐め始めた。

 左の手の甲を、ゆっくりと。


 加奈の左手には古傷がある。

 小学五年生の頃、転んで縁石で切った傷だ。

 今はほとんど目立たないが、指でなぞると少しだけ硬くなっているのがわかる。

 猫の舌はそこに当たって、左から右へ、ゆっくりと動いた。

 もう一度。

 また左から右へ。

 加奈の頭の中で、何かが引っかかった。

 引っかかったのに、そのまま流れていきそうになって・・加奈は無意識に息を止めた。

 左から右へ。

 二度だけ。


 ムギが、そうだった。

 喉の奥が、きゅっと締まった。

 十年前に死んだ黒い柴犬。

 加奈が小学校に入る前から家にいて、加奈が大学を卒業する年に死んだ。

 十五年、一緒にいた。

 最後の二年間は病気で、食欲が落ちて、でも加奈が帰宅するといつも玄関まで来た。

 よたよたと、尻尾を振って。

 ムギは加奈の左手が好きだった。

 理由はわからない。

 右手ではなく、左手。

 特に古傷のあたりを、なぜか念入りに舐めた。

 左から右へ、二度だけ。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 おかしな癖だと家族で笑っていた。

 加奈だけの、ムギだけの、何かだった。


 黒猫が舐めている。

 左から右へ、二度だけ。

 加奈は声が出なかった。

 泣くつもりは、なかった。

 泣くものがないと思っていた。

 十年も経てば悲しみは薄れると聞いていたし、実際に薄れていた。

 ムギのことを一日中考えるような日は、もうない。


 でも今、左手が濡れていた。

 猫の舌の濡れと、自分の涙の濡れが、加奈の手の甲で混ざった。

 加奈はそれに気づいても、拭かなかった。

 拭いたら、消えてしまう気がした。

 ムギじゃない、とわかっていた。

 この黒猫はムギじゃない。

 ムギは死んで、もういない。

 仕草が似ているだけだ。

 偶然というのはある。

 世界はそういう偶然に満ちている。

 理屈ではそう思える。

 でも今この瞬間だけ、理屈を使いたくなかった。


 泣いた。

 音を立てずに、ただ涙が出た。

 雨の音がうるさくてよかったと初めて思った。

 泣き声があっても、雨にまぎれる。

 猫は舐めるのをやめて、加奈の膝の上に乗った。

 体重がかかった。

 びしょ濡れの、小さくて冷たい体重。

 加奈のスカートが湿った。

 どうでもよかった。

 加奈は猫の背中にそっと手を当てた。

 骨がわかるくらい細かった。

 震えていた。

 加奈も、震えていた。

 どちらが温めているのか、わからなかった。


 どのくらい経ったか。

 雨脚が少し緩んだ頃、気配を感じた。

 加奈が顔を上げると、バス停の端に老人が立っていた。

 七十を過ぎているだろうか。

 紺色の作業着を着て、白髪を短く刈り込んでいる。

 顔の彫りが深くて、皺が多いが、目だけは澄んでいる。

 雨の中を歩いてきたのか、肩が少し濡れていた。

 老人は加奈を見て、猫を見て、それから何も言わなかった。


 かばんから取り出したのは、黒い傘だった。

 折り畳みではない、しっかりした長傘。

 それをバス停のベンチの端に、そっと立てかけた。

 加奈のかばんのすぐ隣に。

「あの」と加奈が言いかけた時には、老人はもう背を向けていた。

「お返しは結構ですよ」と、老人は振り返らずに言った。

 声が低くて、よく通った。

「必要な時に、必要な場所にあればいい」

 それだけ言って、雨の中を歩いていった。


 加奈は傘を見た。

 黒い傘だった。

 柄の部分が木でできている。

 古いが、丁寧に手入れされているのがわかった。

 時計塔の方向へ、老人の背中が小さくなっていった。

 加奈は老人が何者か、わからなかった。

 なぜ傘を置いていったのかも、わからなかった。

 でも不思議と怖くなかった。

 怖くない理由も、わからなかった。

 膝の上の猫が、一度だけ鼻を鳴らした。


 雨が止んだのは、八時を過ぎた頃だった。

 加奈は傘を手に持って、立ち上がった。

 猫がベンチに残った。

 行かないのかと見ると、猫は舌で前足を舐め始めた。

 もう加奈には興味がないらしかった。

 加奈はしばらく猫を見た。

「また来るね」と言いそうになって、言わなかった。

 来るかどうかわからないし、来ても猫がここにいる保証はない。

 野良猫に約束はできない。

 大人だから、それくらいわかる。

 でも心の中でだけ、言った。

 また来るね。


 傘を開いて、歩き始めた。

 雨の後の空気は冷えていて、でも嫌じゃなかった。

 アスファルトが濡れている。

 街灯の光が路面に映って、揺れている。

 加奈は左手を見た。

 涙の跡も、猫の舌の跡も、もう乾いていた。

 古傷だけが、いつも通りそこにあった。

 指でなぞると、少し硬い。

 十年前からずっと、変わらない。

 変わらないものが、ここにあった。

 それだけで、なぜか、今夜は帰れる気がした。


 翌週の月曜日。

 仕事帰りに、加奈はまたあのバス停を通った。

 回り道になるとわかっていた。

 それでも、気づいたらそっちに向かって歩いていた。

 バス停には誰もいなかった。

 猫もいなかった。

 加奈はベンチに座って、少しだけ待った。

 来なかった。

 雨も降らなかった。


 時計塔の針が、午後七時半を指した。

 帰ろうとして、立ち上がったとき。

 ベンチの下に、黒いものが丸まっていた。

 猫だった。

 さっきまでいなかった。

 いつ来たのかわからない。

 ベンチの下で、完全に丸まって、目を閉じていた。

 加奈が来たことに気づいているのか、いないのか、まったく動かない。


 加奈はしゃがんで、猫の顔を覗いた。

 翡翠の目が、細く開いた。

 加奈は笑った。

「また来たよ」と、今度は声に出して言った。

 猫は目を閉じた。

 返事はしなかった。

 でも丸まったまま動かなかった。

 帰れ、とも言わなかった。


 加奈はその場にしばらく座り込んで、時計塔を見上げた。

 動物と一緒に暮らしたことが、もうずいぶん長い間ない。

 ペット可の物件を探すのは面倒だ。

 何かあったときのことを考えると、一人では不安もある。

 毎日世話をする体力が、今の自分にあるかどうか。

 考えることはたくさんあった。

 でも今夜は、考えるのをやめた。


「引き取れるかどうか、確かめてみるね」と加奈は猫に言った。

 猫は眠ったままだった。

 加奈は立ち上がって、スマートフォンを取り出した。

「猫 引き取り 手続き」と検索しかけて、一度止めた。

 それから「ペット可 賃貸」と打ち直した。

 画面に物件の一覧が出てきた。

 加奈は歩きながら、スクロールした。

 時計塔が、夜空に浮かんでいた。


 その夜、加奈は久しぶりにちゃんと眠れた。

 夢は見なかった。

 でも眠る直前、左手の古傷をそっと触った。

 指の腹に、いつも通りの硬さがあった。

 加奈はそのまま、目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。