第1話 雨宿りの黒猫
雨は、予告なく降り始める。
天気予報が外れたのか、それとも加奈が確認を怠ったのか。
どちらでもよかった。
駅からの帰り道、かばんの中に折り畳み傘があることは知っていたのに、取り出す気力がどこかに抜けていて、加奈は気づいたら軒先に立っていた。
古いバス停だった。
屋根はあるが壁はない。
正面に時計塔が見える。
夕暮れの橙に塗られていたはずの空が、今は一面、灰色の布で覆われている。
時計の針は午後七時を過ぎようとしていた。
三十二歳、独身、営業事務。
自分を一言で説明しようとするとこうなる、と加奈はぼんやり思う。
趣味の欄に書けるものも、最近はなかった。
好きだったカフェ巡りも、もう半年は行っていない。
休日は家で横になりながら、何かを見ているようで何も見ていない時間を過ごす。
それが「休息」なのか「消耗」なのか、区別がつかなくなっていた。
雨脚が強くなった。
バス停のベンチに、誰もいない。
加奈は荷物を置かずに立ったまま、雨の匂いを嗅いだ。
アスファルトが濡れるときの、土っぽくて少し甘い、あの匂い。
子どもの頃は好きだったのに、いつ頃からか気にならなくなっていた。
気づくと、隣にいた。
黒猫だった。
いつから来ていたのかわからない。
ベンチの端に丸まっていて、しかし完全には丸まりきれていない・・全身がびしょ濡れで、毛が束になって張り付いている。
耳の先まで雨水が滴って、小さな顎が震えていた。
加奈は猫を見た。
猫は加奈を見た。
黄緑色の目だった。
光の具合で、翡翠のようにも見える。
加奈はかばんを下ろし、ベンチに腰を下ろした。
猫との距離は、大人が一人座れるくらい。
近づきもしない。
遠ざかりもしない。
ただそこにいた。
猫も、動かなかった。
しばらく、二人で・・と言っていいのかわからないけれど・・雨を眺めた。
バス停の屋根を叩く音が、思ったより大きい。
雨の夜はうるさい、と加奈は思う。
だから好きじゃなかった。
静かにしたいのに、音が来る。
猫がくしゃみをした。
小さな、情けない音だった。
加奈は思わず笑いそうになって、笑わなかった。
笑ったら負ける気がした。
何に負けるのかは、わからない。
猫はくしゃみの後、少しだけ加奈の方を向いた。
加奈はポーチを探った。
ティッシュしか出てこなかった。
猫に何かしてやれるものは何もない。
でも手ぶらでいるのも落ち着かなくて、加奈はティッシュを一枚出して、自分の手を拭いた。
意味のない行動だったが、何もしないよりはよかった。
猫がベンチを降りた。
四つ足で着地して、そのまま加奈の方へ歩いてくる。
ゆっくりした歩みだった。
びしょ濡れの足が、コンクリートに水の跡をつける。
加奈は体を固くした。近づいてくる生き物に対して、どう構えていいかわからなかった。
猫は加奈の足元で止まった。
見上げてくる。
翡翠の目で、まっすぐに。
加奈はとっさに視線を逸らした。
目が合うと何か言わなければならない気がして、でも何も言えなくて、加奈は宙を見た。
猫が加奈の左手に鼻先を寄せた。
かばんの取っ手を握っていた手だった。
冷えていた。
猫の鼻は、もっと冷たかった。
小さな冷たさが手の甲に当たった瞬間、加奈は息をのんだ。
猫が舐め始めた。
左の手の甲を、ゆっくりと。
加奈の左手には古傷がある。
小学五年生の頃、転んで縁石で切った傷だ。
今はほとんど目立たないが、指でなぞると少しだけ硬くなっているのがわかる。
猫の舌はそこに当たって、左から右へ、ゆっくりと動いた。
もう一度。
また左から右へ。
加奈の頭の中で、何かが引っかかった。
引っかかったのに、そのまま流れていきそうになって・・加奈は無意識に息を止めた。
左から右へ。
二度だけ。
ムギが、そうだった。
喉の奥が、きゅっと締まった。
十年前に死んだ黒い柴犬。
加奈が小学校に入る前から家にいて、加奈が大学を卒業する年に死んだ。
十五年、一緒にいた。
最後の二年間は病気で、食欲が落ちて、でも加奈が帰宅するといつも玄関まで来た。
よたよたと、尻尾を振って。
ムギは加奈の左手が好きだった。
理由はわからない。
右手ではなく、左手。
特に古傷のあたりを、なぜか念入りに舐めた。
左から右へ、二度だけ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
おかしな癖だと家族で笑っていた。
加奈だけの、ムギだけの、何かだった。
黒猫が舐めている。
左から右へ、二度だけ。
加奈は声が出なかった。
泣くつもりは、なかった。
泣くものがないと思っていた。
十年も経てば悲しみは薄れると聞いていたし、実際に薄れていた。
ムギのことを一日中考えるような日は、もうない。
でも今、左手が濡れていた。
猫の舌の濡れと、自分の涙の濡れが、加奈の手の甲で混ざった。
加奈はそれに気づいても、拭かなかった。
拭いたら、消えてしまう気がした。
ムギじゃない、とわかっていた。
この黒猫はムギじゃない。
ムギは死んで、もういない。
仕草が似ているだけだ。
偶然というのはある。
世界はそういう偶然に満ちている。
理屈ではそう思える。
でも今この瞬間だけ、理屈を使いたくなかった。
泣いた。
音を立てずに、ただ涙が出た。
雨の音がうるさくてよかったと初めて思った。
泣き声があっても、雨にまぎれる。
猫は舐めるのをやめて、加奈の膝の上に乗った。
体重がかかった。
びしょ濡れの、小さくて冷たい体重。
加奈のスカートが湿った。
どうでもよかった。
加奈は猫の背中にそっと手を当てた。
骨がわかるくらい細かった。
震えていた。
加奈も、震えていた。
どちらが温めているのか、わからなかった。
どのくらい経ったか。
雨脚が少し緩んだ頃、気配を感じた。
加奈が顔を上げると、バス停の端に老人が立っていた。
七十を過ぎているだろうか。
紺色の作業着を着て、白髪を短く刈り込んでいる。
顔の彫りが深くて、皺が多いが、目だけは澄んでいる。
雨の中を歩いてきたのか、肩が少し濡れていた。
老人は加奈を見て、猫を見て、それから何も言わなかった。
かばんから取り出したのは、黒い傘だった。
折り畳みではない、しっかりした長傘。
それをバス停のベンチの端に、そっと立てかけた。
加奈のかばんのすぐ隣に。
「あの」と加奈が言いかけた時には、老人はもう背を向けていた。
「お返しは結構ですよ」と、老人は振り返らずに言った。
声が低くて、よく通った。
「必要な時に、必要な場所にあればいい」
それだけ言って、雨の中を歩いていった。
加奈は傘を見た。
黒い傘だった。
柄の部分が木でできている。
古いが、丁寧に手入れされているのがわかった。
時計塔の方向へ、老人の背中が小さくなっていった。
加奈は老人が何者か、わからなかった。
なぜ傘を置いていったのかも、わからなかった。
でも不思議と怖くなかった。
怖くない理由も、わからなかった。
膝の上の猫が、一度だけ鼻を鳴らした。
雨が止んだのは、八時を過ぎた頃だった。
加奈は傘を手に持って、立ち上がった。
猫がベンチに残った。
行かないのかと見ると、猫は舌で前足を舐め始めた。
もう加奈には興味がないらしかった。
加奈はしばらく猫を見た。
「また来るね」と言いそうになって、言わなかった。
来るかどうかわからないし、来ても猫がここにいる保証はない。
野良猫に約束はできない。
大人だから、それくらいわかる。
でも心の中でだけ、言った。
また来るね。
傘を開いて、歩き始めた。
雨の後の空気は冷えていて、でも嫌じゃなかった。
アスファルトが濡れている。
街灯の光が路面に映って、揺れている。
加奈は左手を見た。
涙の跡も、猫の舌の跡も、もう乾いていた。
古傷だけが、いつも通りそこにあった。
指でなぞると、少し硬い。
十年前からずっと、変わらない。
変わらないものが、ここにあった。
それだけで、なぜか、今夜は帰れる気がした。
翌週の月曜日。
仕事帰りに、加奈はまたあのバス停を通った。
回り道になるとわかっていた。
それでも、気づいたらそっちに向かって歩いていた。
バス停には誰もいなかった。
猫もいなかった。
加奈はベンチに座って、少しだけ待った。
来なかった。
雨も降らなかった。
時計塔の針が、午後七時半を指した。
帰ろうとして、立ち上がったとき。
ベンチの下に、黒いものが丸まっていた。
猫だった。
さっきまでいなかった。
いつ来たのかわからない。
ベンチの下で、完全に丸まって、目を閉じていた。
加奈が来たことに気づいているのか、いないのか、まったく動かない。
加奈はしゃがんで、猫の顔を覗いた。
翡翠の目が、細く開いた。
加奈は笑った。
「また来たよ」と、今度は声に出して言った。
猫は目を閉じた。
返事はしなかった。
でも丸まったまま動かなかった。
帰れ、とも言わなかった。
加奈はその場にしばらく座り込んで、時計塔を見上げた。
動物と一緒に暮らしたことが、もうずいぶん長い間ない。
ペット可の物件を探すのは面倒だ。
何かあったときのことを考えると、一人では不安もある。
毎日世話をする体力が、今の自分にあるかどうか。
考えることはたくさんあった。
でも今夜は、考えるのをやめた。
「引き取れるかどうか、確かめてみるね」と加奈は猫に言った。
猫は眠ったままだった。
加奈は立ち上がって、スマートフォンを取り出した。
「猫 引き取り 手続き」と検索しかけて、一度止めた。
それから「ペット可 賃貸」と打ち直した。
画面に物件の一覧が出てきた。
加奈は歩きながら、スクロールした。
時計塔が、夜空に浮かんでいた。
その夜、加奈は久しぶりにちゃんと眠れた。
夢は見なかった。
でも眠る直前、左手の古傷をそっと触った。
指の腹に、いつも通りの硬さがあった。
加奈はそのまま、目を閉じた。




