↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/21

第10話 波打ち際の即興曲

 海の音は、止まらない。

 波が来て、返して、また来る。

 その繰り返しが、永遠に続く。

 昼も夜も、雨の日も、誰かが泣いている夜も、誰かが笑っている朝も、海はただ波を打ち続ける。

 蓮はそのことを、慰めとして受け取るか、それとも無関心として受け取るか、まだ決めていなかった。

 海辺の施設に来て、三ヶ月が経った。


 施設の名前は「海の家 なぎさ」といった。

 障害のある子どもたちが通う、小さなデイサービス施設だった。

 海から歩いて五分の場所に建っていて、大きな窓から砂浜が見えた。

 蓮はここで週三回、音楽の時間を担当していた。

 ピアノを弾いて、子どもたちと歌って、時々一緒にリズムを叩く。

 それだけの仕事だったが、蓮には合っていた。

 というより、ここ以外に行く場所がなかった。


 蓮、二十四歳。

 音楽大学を中退して、二年が経つ。

 専攻はピアノだった。

 高校までは「才能がある」と言われ続けた。

 コンクールで賞も取った。

 音大に入って、もっと上手い人間がたくさんいることを知った。

 それだけならよかった。

 でも同時に、兄を失った。


 兄の隼人は、蓮が音大一年の夏に死んだ。

 海難事故だった。

 隼人は音楽が好きだった。

 ピアノではなく、声楽を専攻していた。

 蓮より三歳上で、同じ音大の三年生だった。

 夏休みに仲間と海に出かけて、戻らなかった。

 二十一歳だった。

 蓮はその夏以降、ピアノが弾けなくなった。


 弾けない、というのは指が動かないわけではない。

 指は動く。

 音も出る。

 でも弾き終わった後に、何も残らなかった。

 音が出て、消えて、それだけだった。

 誰かに届いている感覚がなかった。

 隼人に届かない音を出し続けることが、だんだん耐えられなくなった。

 休学して、そのまま退学した。

 この施設に来たのは、知人の紹介だった。

「子どもたちのために弾くだけでいい」と言われた。

 上手く弾かなくていい、と言われた。

 その言葉が、かろうじて蓮を動かした。


 施設のピアノは、古かった。

 アップライトピアノで、白鍵が少し黄ばんでいた。

 調律は定期的にされているが、それでも音に癖があった。

 低音が少し籠もって、高音が少し金属的になる。

 音大で使っていたピアノとは、比べ物にならない。

 でも蓮はこのピアノが、嫌いではなかった。

 癖があるから、誤魔化せない。

 きれいな音を出そうとすると、逆に粗が目立つ。

 丁寧に弾くしかない。

 一音一音、確かめながら弾くしかない。

 そういう弾き方が、今の蓮には合っていた。


 子どもたちの時間が終わった夕方、施設が静かになる頃、蓮は一人でピアノを弾いた。

 曲を決めずに弾いた。

 楽譜を広げない。

 何かを再現しようとしない。

 指が動きたい方向に動かせた。

 それを蓮は「即興」と呼んでいたが、正確には即興でもなかった。

 ただ、音を出していた。

 考えずに音を出していると、どこかへ行ける気がした。

 どこへ、とは言えない。

 でもそこへ行っている間だけ、隼人を失った後の自分ではなくなれる気がした。


 ひかりが来るようになったのは、蓮がここに来て一ヶ月が経った頃だった。

 砂浜の方から、施設の窓越しに聞こえてくるピアノの音が気になって来た、と後で聞いた。

 ひかりは施設の利用者ではなかった。

 近所に住んでいて、夕方になると砂浜を散歩する習慣があった。

 最初に蓮が気づいたのは、窓の外だった。

 砂浜に、一人で立っている人影があった。

 夕暮れの逆光で、顔はよく見えなかった。

 ただ、こちらの方を向いて、じっとしていた。

 蓮は気づいたが、弾き続けた。

 翌日も、人影がいた。

 三日目も、いた。

 四日目に、蓮は弾き終えてから外に出てみた。


 砂浜に出ると、人影がまだそこにいた。

 白い杖を持った、若い女性だった。

 二十歳前後に見えた。

 髪が長くて、風に揺れていた。

 白い杖の先が、砂浜の砂を静かに押していた。

 目が見えないことは、すぐにわかった。

 でも顔はこちらを向いていた。

 音の方向を、正確に向いていた。

「聴いていてくれたんですか」と蓮は言った。

「はい」と女性は答えた。

 声が静かだった。

 波の音に混じっても、消えなかった。


「邪魔でしたか」

「邪魔じゃないです」と蓮は言った。

「ただ気になって」

「毎日聴いてました」と女性は言った。

「ここを通るたびに、聞こえてきて」

「下手ですよ」と蓮は言った。

「そうは聞こえません」と女性は言った。

 蓮は何も言えなかった。

「また聴いてもいいですか」と女性は言った。

「どうぞ」と蓮は言った。

 それだけだった。


 女性の名前は、木村ひかり、といった。

 二十一歳で、先天性の視覚障害があった。

 近くにある福祉施設に通いながら、この海辺の町に住んでいた。

 音楽が好きで、ピアノを子どもの頃から習っていた。

 今も時々弾くと言った。

「どんな曲を弾くんですか」と蓮は聞いた。

「決まった曲は弾かないです」とひかりは言った。

「その日の気分で」

「即興、ですか」

「即興というより・・音を探してる、という感じです」と言って、ひかりは少し考えてから「うまく言えないですけど」と付け足した。

 蓮はその言葉を聞いて、少し驚いた。

 音を探している。

 自分がここで一人でやっていたことと、同じ言い方だったから。


 それから、ひかりは毎夕砂浜に来た。

 蓮が弾いていると、砂浜の端に立って聴いていた。

 施設の窓越しに、外から聴いていた。

 蓮は気にしなかった。

 気にしないようにしたというより、ひかりがそこにいることが、自然になっていた。


 一週間ほど経った日の夕方。

 蓮はいつものように、曲を決めずに弾いていた。

 低音から始めた。

 ゆっくりとした、どこへも向かわない音だった。

 それが少しずつ動いた。

 右手が旋律を探し始めた。

 旋律と呼べるほどのものではなかったが、音が連なっていった。

 その時、外から声が聞こえた。

 歌声だった。

 最初、蓮は気づかなかった。

 波の音に混じって、かすかに聞こえた。

 何かと思って手を止めようとして、止めなかった。

 止めると消えてしまう気がした。


 弾き続けた。

 歌声が、大きくなった。

 ひかりだった。

 砂浜で、ひかりが歌っていた。

 歌詞はなかった。

 声だけだった。「ああ」とも「うう」ともつかない、言葉のない声だった。

 でもその声が、蓮のピアノに寄り添っていた。

 寄り添う、というのも正確ではないかもしれない。

 絡み合っていた。

 蓮の音とひかりの声が、お互いを探すようにして動いていた。

 蓮が上に行くと、ひかりは下で支えた。

 蓮が途切れると、ひかりの声が橋をかけた。

 ひかりが高く伸びると、蓮は低音でその根を作った。

 打ち合わせは、一切なかった。

 どこへ向かうかも、決めていなかった。

 それでも、二つの音は一緒に動いていた。


 蓮は弾きながら、泣いていた。

 気づいた時には、泣いていた。

 いつから泣いていたのか、わからなかった。

 音を出すことに集中していたら、いつの間にか頬が濡れていた。

 でも手は止まらなかった。

 止める理由がなかった。


 隼人が、声楽の人間だった。

 隼人の歌声を思い出した。

 蓮が部屋でピアノを弾いていると、隼人が廊下から歌声で返してきた。

 言葉はなかった。

 蓮が弾いた旋律に、隼人が声を重ねた。

 喧嘩している時でも、そうした。

 言葉では言えないことを、音でやり取りした。

 あの感覚が、今ここにあった。

 

 ひかりの声が、隼人の声ではないことは、わかっていた。

 声質も、音域も、違う。

 でも音の動き方が、似ていた。

 相手の音を聴いて、その先を予測して、少し前に出る。

 その動き方が、隼人がいつもやっていたことだった。


 蓮は弾き続けた。

 ひかりは歌い続けた。

 波が来て、返して、また来た。

 夕陽が、水平線に近づいていた。

 空が橙から赤に変わって、砂浜に長い影を作った。

 ひかりの影が、砂浜に伸びていた。

 白い杖が、砂の上に静止していた。

 蓮にはその景色が、窓越しに見えた。

 音を出しながら、その景色を見た。

 言葉にならないまま、見た。


 音が、自然に収まっていった。

 終わらせようとしたわけではなかった。

 ただ、そこへ辿り着いた。

 最後の音が伸びて、消えた。

 ひかりの声も、波の音に溶けていった。

 静けさが来た。

 波の音だけが残った。


 蓮はしばらく、鍵盤の上に手を置いたまま、動かなかった。

 涙が顎を伝って、鍵盤に落ちた。

 白鍵の上に、小さな染みができた。

 蓮はそれを見た。

 見ながら、何も考えなかった。

 考える前に、感じていた。

 胸の中に何かが満ちていた。

 悲しいのか嬉しいのか、区別がつかなかった。

 ただ、満ちていた。

 二年間、空洞だったところに、何かが入ってきた。

 その感触が、確かにあった。


 外に出た。

 砂浜に下りると、ひかりがまだそこにいた。

 白い杖を持って、波打ち際の方を向いていた。

 風が髪を揺らしていた。

「ひかりさん」と蓮は呼んだ。

 ひかりが振り向いた。

 音の方向に、正確に向いた。

「今日は、ありがとうございました」と蓮は言った。

「私が言うことじゃないと思いますけど」とひかりは言った。

「あなたのピアノが好きです」

 蓮は何も言えなかった。

「決まった曲じゃないから」とひかりは続けた。

「どこへ行くかわからないから、一緒に行きたくなる」


 一緒に行きたくなる。

 その言葉が、蓮の胸の中で転がった。

「一緒に行けましたか」と蓮は聞いた。

 ひかりは少し考えてから「行けたと思います」と言った。

「あなたは?」

 蓮は少し間を置いた。

「行けました」と言った。

「久しぶりに」

 ひかりは少し笑った。

 口元だけの、小さな笑いだった。

「よかった」と言った。

 それだけだった。

 でも蓮には、それだけで充分だった。


 二人は砂浜に並んで、しばらく海を見た。

 ひかりは海を「見て」いないが、向いていた。

 波の音を聴いていた。

 蓮はその隣で、水平線を見ていた。

 夕陽が沈んでいくところだった。

「ずっとここに住んでいるんですか」と蓮は聞いた。

「三年前から」とひかりは言った。

「海の音が好きで」

「海の音が好き?」

「止まらないから」とひかりは言った。

「何があっても続いてるから、落ち着きます」


 蓮は海を見た。

 波が来て、返して、また来た。

 慰めとして受け取るか、無関心として受け取るか、まだ決めていない、と思っていた。

 今は、少し違う気がした。

 止まらないこと、それ自体が、何かかもしれない。

 悲しみも、時間も、音楽も・・止まらないから、続いていける。

 うまく言葉にはならなかった。

 でも何かが、少し動いた。


「あなたは、なぜここで弾いてるんですか」とひかりが聞いた。

 蓮は少し考えた。

「ここしかなかった、というのが正直なところです」と言った。

「でも今は、ここでよかったと思っています」

「今日から?」とひかりは聞いた。

「今日から」と蓮は言った。

 ひかりはまた、口元だけで笑った。


 夕陽が沈んだ。

 空が、橙から紫に変わった。

 水平線のあたりだけ、まだ赤みが残っていた。

 砂浜が、暗くなり始めた。

「そろそろ帰ります」とひかりは言った。

 白い杖を前に出した。

「気をつけて」と蓮は言った。

「また聴かせてもらえますか」とひかりは言った。

「また来てください」と蓮は言った。

「一緒に行きましょう」


 ひかりは頷いて、歩き始めた。

 砂浜を、白い杖で確かめながら歩いていく。

 足元が砂から石畳に変わるところで、少し立ち止まった。

 それからまた歩き始めた。

 蓮はその背中を見送った。

 見えなくなってから、また海を向いた。

 波が来た。

 返した。

 また来た。


 蓮は砂浜にしゃがんだ。

 砂の上に手をついた。

 冷たかった。

 夕方の砂浜は、思ったより冷える。

 隼人のことを思った。

 海難事故で逝った兄のこと。

 声楽を専攻していた、音楽が好きだった兄のこと。

 廊下から歌声で返してきた兄のこと。

 ひかりの声が、隼人の声ではないことは、わかっている。

 でも今日、あの音の動き方を感じた。

 相手を聴いて、先を読んで、少し前に出る。

 あの動き方を、蓮はひかりの声の中に感じた。

 確かめる方法は、ない。

 確かめなくていい、と蓮は思った。

 あの時間は、確かにあった。

 隼人と音でやり取りしていたあの感覚が、今日の砂浜にあった。

 それだけで充分だった。

 蓮は立ち上がった。

 砂を払って、施設の方へ歩いた。


 施設に戻って、ピアノの前に座った。

 鍵盤を見た。

 白鍵に、さっきの涙の染みがまだ残っていた。

 乾きかけていた。

 蓮は人差し指で、その染みにそっと触れた。

 鍵盤に指を置いた。

 今度は、曲を弾こうとした。

 何か決まった曲を。

 ずっと弾けなくなっていた、決まった曲を。

 シューベルトの「セレナーデ」。

 隼人が好きだった曲。

 蓮が音大に入った最初の夏、隼人が「これを声楽で歌いたい」と言っていた曲だった。

「お前はピアノで弾け、俺が歌う」と言っていた。

 でもその夏は来なかった。

 蓮は弾いた。

 最初の一音が、静かな施設に響いた。

 下手だった。

 二年弾いていなかった分、指がもたついた。

 でも弾き続けた。

 止まらなかった。

 旋律が流れた。


 窓の外、砂浜はもう暗くなっていた。

 でも蓮には、砂浜のどこかにひかりの声の残像があった。

 波の音の中に、あの声が混じっている気がした。

 弾き終えた。

 最後の音が、天井に吸われていった。

 蓮はしばらく、鍵盤を見ていた。

「聴こえたか」と、声に出さずに思った。

 誰に向けた言葉かは、言わなかった。

 言わなくても、わかっていた。


 翌週の夕方。

 蓮が弾き始めると、砂浜にひかりの人影があった。

 白い杖を持って、施設の方を向いていた。

 蓮は窓越しにその姿を見て、鍵盤に指を置いた。

 今日は何を弾こうか、と少し考えた。

 考えて、やめた。

 また音を探すことにした。どこへ行くかわからない音を、出してみることにした。


 最初の一音を、静かに弾いた。

 砂浜のひかりが、少し顔を上げた。

 次の音を弾いた。

 波が来た。

 ひかりの口が、少し動いた。

 蓮は弾き続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。