第11話 最後の一膳
雨の夜に、一人で飯を食う。
それが正二の日常だった。
正確に言えば、雨の夜に限ったことではない。
晴れた夜も、曇った夜も、正二は一人で飯を食う。
でも雨の夜は、一人であることが、少し音を立てる。
雨が窓を叩く音と、自分が箸を置く音だけが部屋に満ちる。
その二つの音の間にあるものが、静けさではなく、空白に聞こえる夜がある。
正二、七十一歳。
元は建設会社の現場監督をしていた。
三十年以上、現場に出た。
定年で退いてから、もう六年が経つ。
息子が一人いるが、遠方に住んでいて、盆と正月に顔を見せるくらいだった。
孫が二人いる。
名前は覚えているが、顔がぼやける。
妻の幸子が死んで、十年が経った。
六十一歳だった。
癌だった。
発見が遅れて、わかってから一年も経たずに逝った。
早かった。
あまりに早くて、正二は実感が追いつかないまま葬儀をして、四十九日をして、一周忌をした。
その頃になってようやく、幸子がいないことが体に染みてきた。
染みてきてから、飯が食えなくなった。
食えなくなった、というのは、味がしなくなった、ということだ。
空腹にはなる。
食べれば飲み込める。
でも食べながら、何かが薄かった。
塩気も、甘みも、出汁の香りも、全部が遠い場所から届いてくるような感覚だった。
料理は、幸子がしていた。
正二は台所に立ったことがほとんどなかった。
三十年以上、幸子が台所に立って、正二が食卓で待った。
それが当たり前だったから、幸子が逝った後、正二は台所の何がどこにあるかも知らなかった。
最初の一年は、息子の家族が時々来てくれた。
次の一年は、近所の人がおかずを持ってきてくれた。
それ以降は、一人だった。
スーパーの惣菜を買うか、近所の定食屋に入るか。
どちらかだった。
どちらも、腹は満ちた。
でも食べながら、何かが満ちなかった。
何が足りないのかは、正二にはうまく言えなかった。
幸子の飯が食いたい、と言えばそれだけのことかもしれない。
でも正二はその言葉を、誰にも言わなかった。
言えなかった、というより、言う相手がいなかった。
その夜、雨が降っていた。
正二は夕方から、用事で出かけていた。
用事というほどのことでもない。
銀行と、薬局と、散髪。
それだけのことに半日かかった。
年を取ると、一つ一つが時間を食う。
帰り道、雨が強くなった。
傘は持っていた。
でも風が出てきて、横から吹きつけてきた。
ズボンの裾が濡れた。
体が冷えた。
家まで、あと十分。
正二は歩きながら、今夜の飯のことを考えた。
スーパーに寄ろうかと思っていたが、雨が強くて寄る気になれなかった。
家に帰っても、冷蔵庫に大したものはない。
軒先に、灯りがあった。
小さな店だった。
暖簾が出ていた。
「定食」と書いてある。
見たことのない店だった。
このあたりを通ることはあったはずだが、気づいていなかった。
路地の少し奥に入ったところにあって、看板も小さかった。
正二は立ち止まった。
雨を避けるつもりで、暖簾をくぐった。
中は、小さかった。
カウンターが六席と、小さなテーブルが二つ。
壁に品書きが貼ってある。
定食三種と、単品がいくつか。
値段は高くなかった。
先客はいなかった。
カウンターの一番端に座った。
厨房の奥に、人の気配があった。
しばらくして、若い店主が出てきた。
二十代の後半か、三十前後か。
エプロンをして、タオルを肩にかけていた。
背が高くて、少し痩せている。
顔に愛嬌があった。
愛嬌というより、人懐っこさ、とでも言うか。
初めての客に対して、構えていない顔をしていた。
「いらっしゃいませ」と店主は言った。
「今夜は雨がひどいですね」
「そうだな」と正二は言った。
「温かいものはいかがですか。今日は豚汁が出来てます」
「定食を頼む」と正二は言った。
「少しお待ちを」と店主は厨房に引っ込んだ。
正二はカウンターに肘をついて、店の中を見た。
壁に小さな額が飾ってある。
海の写真だった。
このあたりの海か、どこかの海か、正二にはわからなかった。
カウンターの端に、小さな花が一輪、コップに挿してあった。
菊だった。
雨の音が、外から聞こえていた。
定食が運ばれてきた。
ご飯、焼き魚、小鉢、漬物。
そして豚汁だった。
大きな椀だった。
湯気が立っていた。
出汁の匂いが漂ってきた。
正二は箸を取った。
豚汁から食べることにした。
寒かったから、まず温まりたかった。
椀を持ち上げた。
覗いた。
大根が、不揃いだった。
厚さが違う。
切り方が、一定ではない。
薄いものと、厚いもの。
斜めに切れているものと、まっすぐなもの。
豚肉は柔らかく煮えていて、ごぼうの香りがした。
正二の手が、止まった。
幸子の豚汁も、そうだった。
大根が、いつも不揃いだった。
三十年以上、幸子の豚汁を食べた。
正二は一度だけ「なぜ不揃いなんだ」と言ったことがある。
幸子は「なんとなくそうなるの」と言って、笑った。
それだけだった。
以来、正二は何も言わなかった。
不揃いな大根が、当たり前になった。
スーパーの惣菜の豚汁は、揃っている。
よそで食べる豚汁は、揃っている。
揃っていることが、普通なんだと正二は思っていた。
この椀の中の大根は、不揃いだった。
正二は箸を置いた。
椀を持ったまま、置いた。
奥の厨房で、店主が何かを切る音がした。
包丁の音だった。
リズムが一定ではなかった。
上手い料理人の包丁の音ではなかった。
でも丁寧だった。
一回一回、確かめながら切っているような音だった。
正二はその音を聞きながら、幸子のことを思った。
幸子も、包丁が上手くなかった。
器用な人ではなかった。
料理は好きだったが、手際がよかったわけではない。
台所からいつも、丁寧すぎる包丁の音がしていた。
時間がかかった。
でも出来上がったものは、ちゃんと美味かった。
不揃いな大根の豚汁が、ちゃんと美味かった。
正二はもう一度、椀を持ち上げた。
一口、飲んだ。
出汁が、喉を通った。
ごぼうの香りが、鼻に抜けた。
豚肉の脂が、舌の上で溶けた。
味がした。
ちゃんと、味がした。
十年ぶりに、飯の味がした・・と正二は思った。
正確には十年ぶりではないかもしれない。
でも今この瞬間、そう感じた。
何かが届いてきた。
遠い場所からではなく、ちゃんとここに届いてきた。
正二の目が、熱くなった。
七十一歳の男が、定食屋のカウンターで、豚汁を飲みながら目が熱くなった。
誰も見ていなかった。
それでも正二は、下を向いた。
しばらくして、顔を上げた。
椀の中の大根が、まだ半分以上残っていた。
正二は箸を持ち直して、大根を一切れ取った。
口に入れた。
柔らかく煮えていた。
味が染みていた。
不揃いだから、厚みによって煮え方が少し違う。
薄い方は味が濃くて、厚い方は中がほんのり硬い。
その違いが、食べながらわかった。
悪くない、と正二は思った。
いや、悪くないではない。
美味い。
店主が厨房から出てきた。
水を継ぎに来た。
「お口に合いましたか」と聞いた。
「美味い」と正二は言った。
「豚汁が、特に」
店主は少し照れた顔をした。
「ありがとうございます。豚汁は自信があるんですよ」と言った。
「大根が不揃いだな」と正二は言った。
店主は一瞬、すまなそうな顔をした。
「すみません、不揃いで・・」
「いや」と正二は遮った。
「そういう意味じゃない」
店主は正二を見た。
「なんとなく、そうなるのか」と正二は言った。
店主は少し首を傾げてから「そうなんですよ」と言った。
「均等に切ろうとするんですけど、なんとなくこうなっちゃって。直した方がいいですかね」
「直さなくていい」と正二は言った。
「そのままがいい」
店主はまだ少し不思議そうな顔をしていたが「わかりました」と言って、厨房に戻った。
正二は椀を見た。
また一口、飲んだ。
飯を食い終えた。
ご飯を全部食べた。
魚も、小鉢も、漬物も。
豚汁は最後まで飲んだ。
椀の底まで、全部飲んだ。
いつから、こんなに食えなくなっていたか。
正二は自分でもわからなかった。
十年の間に、少しずつ減っていったのだと思う。
食欲が落ちたのか、食べる理由が薄くなったのか。
食べることが、義務のようになっていた時期があった。
今夜は、違った。
食べながら、幸子のことを思っていた。
でも悲しくはなかった。
悲しいのとは、少し違った。
懐かしかった。
懐かしい、という感情は、失ったものに対して向かう感情だと思っていた。
でも今夜感じたのは、もう少し温かい何かだった。
懐かしいのに、温かい。
失ったのに、ここにある。
そういう感覚だった。
うまく言葉にならなかった。
でも、飯が美味かった。
それだけは確かだった。
勘定を払う時、正二は店主に聞いた。
「この店、いつからやってる」
「三年になります」と店主は言った。
「もともとこの場所で別の店をやってたんですが、引き継いだんです」
「一人でやってるのか」
「はい。まあ、小さい店なんで」と店主は笑った。
人懐っこい笑い方だった。
「美味かった」と正二はもう一度言った。
「ありがとうございます」と店主は言った。
「また来てください」
「来る」と正二は言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
「また来る」と言ったのが、いつぶりか。
どこかの店に対して「また来る」と思ったのが、いつぶりか。
正二には思い出せなかった。
でも今夜は、自然に出た。
来る。
暖簾をくぐって、外に出た。
雨は小降りになっていた。
傘を開いて、歩き出した。
家に帰って、台所に立った。
台所には、古い鍋がある。
幸子が使っていた鍋だった。
正二はこの十年、その鍋を使ったことがなかった。
使い方がわからなかったというより、使う気になれなかった。
正二は棚からその鍋を出した。
長い間使っていなかったのに、きれいだった。
幸子がいつもきれいにしていたから、そのままの状態で残っていた。
正二は鍋を手に持って、眺めた。
幸子がこれで豚汁を作った。
何百回、作ったか。
冬になると、週に一度は出た。
正二が「また豚汁か」と言ったことが、何度あったか。
また豚汁か、と言った。
食べながら、そう言ったことが、何度もあった。
幸子は「嫌い?」と聞いた。
「嫌いじゃない」と正二は言った。
「でも同じものが続くと」
幸子は「じゃあ来週は別のものにする」と言って、でも来週もやっぱり豚汁だったりした。
正二はまた「また豚汁か」と言った。
そのやり取りを、正二は今夜、懐かしく思い出した。
あの頃は、当たり前だと思っていた。
当たり前でなくなってから、初めてわかることがある。
その当たり前の重さを、失ってから初めて量ることができる。
正二は鍋を、台所に置いた。
棚に戻さなかった。
すぐ使える場所に、置いた。
翌朝、正二は早く目が覚めた。
五時だった。
いつもより一時間早い。
なぜ目が覚めたかわからなかったが、二度寝する気にもなれなかった。
台所に立った。
冷蔵庫を開けた。
大根があった。
昨日の帰りに、雨の中でも寄っていたらしく、買っていた記憶がなかったが、あった。
正二は大根を取り出した。
豚肉を探したが、なかった。
豚汁を作るつもりだったのか、と気づいて、自分で少し笑った。
正二は豚肉を買いに行くことにした。
五時に起きて、スーパーが開く前に出るのは早すぎる。
それでも正二は着替えて、近所を少し歩くことにした。
開店を待ってから、豚肉を買えばいい。
外に出ると、朝の空気が冷たかった。
雨上がりの朝だった。
地面がまだ濡れていて、街灯の光を反射していた。
静かだった。
車も人もまだほとんどない。
遠くで、鳥が鳴いた。
正二は歩いた。
昨夜の定食屋の前を、通った。
当然まだ閉まっていた。
暖簾は出ていない。
灯りも消えている。
でも扉の向こうに、昨夜の台所の気配が残っているような気がした。
包丁の音、出汁の香り、不揃いな大根。
正二は少し立ち止まってから、また歩き出した。
スーパーが開くまで、あと二時間あった。
正二はゆっくり歩いた。
急がなくていい。
今日は、急ぐ理由がなかった。
その日の昼、正二は豚汁を作った。
不器用だった。
大根の切り方が、揃わなかった。
厚さがばらばらで、斜めになった。
幸子と同じになったのか、ただ下手なだけなのか、
正二には判断できなかった。
でも、なんとなくそれでよかった。
ごぼうの切り方もわからなかった。
調べながら切った。
スマートフォンで「豚汁 作り方」と検索した。
七十一歳が、豚汁の作り方を検索した。
出汁の取り方も、調べた。
幸子はこれを、毎回手で作っていたのか。
正二には今まで、知る機会がなかった。
台所に入ることがなかったから。
煮えるまで、時間がかかった。
正二は台所に立ちながら、鍋を見ていた。
煮えていく音がした。
出汁の匂いが、台所に満ちた。
正二はその匂いを、深く吸い込んだ。
幸子の台所の匂いだった。
同じ匂いかどうかは、わからない。
でも正二にはそう感じた。
出来上がった豚汁を、椀によそった。
大根が、不揃いだった。
正二は一人、台所の椅子に腰を下ろして、椀を持った。
一口、飲んだ。
味は、昨夜の定食屋の方が、断然美味かった。
当たり前だった。
初めて作ったのだから。
でも正二には、それで充分だった。
また飲んだ。
不揃いな大根を、箸で一切れ取った。
口に入れた。
硬かった。
煮え方が足りなかった。
でも、味がした。
ちゃんと、味がした。
正二は椀を両手で包んで、しばらくそのままでいた。
窓の外、雨上がりの午後の光が、台所に差し込んでいた。
幸子が立っていた台所に、今日は正二が立った。
それだけのことだったが、正二にはそれが、とても大きなことのように思えた。
椀の中の豚汁が、少しずつ冷めていった。
正二は、急がずに飲んだ。
翌月から、正二はあの定食屋に、月に一度通うようになった。
特に理由は言わなかった。
行くと、店主が「いらっしゃいませ」と言った。
それだけだった。
でも二度目に行った時、店主が何も言わずに豚汁を出した。
注文していなかった。
「豚汁、頼んでないぞ」と正二は言った。
「先月、美味いって言ってくれたので」と店主は少し照れながら言った。
「また作っておきました」
正二は何も言わなかった。
椀を持って、一口飲んだ。
大根は、今日も不揃いだった。
正二は少し、口角が上がった。
笑った、と言えるかどうかわからない。
でも、上がった。
店主は気づかなかったか、気づいても何も言わなかった。
それでよかった。
正二は黙って、飯を食った。
全部、食った。




