第12話 踏切の手前
限界というのは、来る前にわかるものだと思っていた。
由佳はそう思っていた。
疲れが溜まれば体が重くなる。
眠れなくなる。
食欲が落ちる。
そういう段階を経て、最後に「限界」が来るものだと思っていた。
だから事前に気づいて、手を打てるものだと思っていた。
でも実際は、そうではなかった。
限界は、静かに来た。
気づいたら、もうそこにいた。
由佳、三十四歳。
中規模の広告会社で、営業職をしている。
クライアントとの折衝、社内調整、プレゼン資料の作成。
仕事の範囲が広くて、誰かの仕事を拾うことも多かった。
頼まれると断れなかった。
断ると、何かが壊れる気がした。
いつからそうなったか、自分でも正確にはわからない。
入社してしばらくは、仕事が好きだった。
できることが増えるのが嬉しくて、認められることが嬉しくて、忙しいことが充実に見えた。
でもその「忙しい」が、少しずつ性質を変えていった。
充実から消耗へ、いつの間にか変わっていた。
でも止まれなかった。
止まると、取り残される気がした。
今まで走ってきた分だけ、止まった時の落差が怖かった。
だから走り続けた。
走り続けながら、少しずつ何かを削っていった。
削っているものが何かを、由佳は途中から考えないようにしていた。
その日は、六月の平日だった。
梅雨の時期で、朝から空が重かった。
雨は降っていなかったが、降りそうな空だった。
湿気が体にまとわりついた。
由佳は朝から三件の打ち合わせをこなして、昼を食べずに午後の資料を作って、夕方にクライアントからのクレームの電話を一時間受けた。
電話を切った時、窓の外はもう暗かった。
同僚はほとんど帰っていた。
オフィスに残っているのは、数人だった。
由佳はパソコンを閉じて、鞄を持って立ち上がった。
体が重かった。
重い、というより、輪郭がぼやけるような感覚だった。
自分の手足がどこにあるか、少しわからなくなるような。
エレベーターに乗った。
一階に降りた。
自動ドアをくぐって、外に出た。
夜の空気だった。
湿っていて、重かった。
由佳は歩いた。
駅に向かって歩いた。
いつもの道だった。
オフィスから駅まで、徒歩で十分。
三年間、毎日歩いた道だった。
どこに段差があって、どこに自販機があって、どこを曲がればいいか、考えなくてもわかった。
だから気づかなかったのかもしれない。
考えていなかったから、気づかなかった。
踏切の前に来た時、由佳の足が止まった。
なぜ止まったのか、わからなかった。
踏切は開いていた。
遮断機が上がっていて、渡れる状態だった。
でも由佳の足が、勝手に止まった。
踏切の手前に立って、線路を見た。
レールが二本、左右に伸びている。
街灯の光を反射して、鈍く光っていた。
遠くに信号の灯りが見えた。
由佳は、何を思っていたのか。
後から思い返しても、はっきりしなかった。
何も考えていなかった、というのが正確かもしれない。
ただ立っていた。足が動かなかった。
頭の中が、静かだった。
うるさくなかった。
一日中うるさかった頭の中が、踏切の前に来て、急に静かになった。
その静けさが、由佳にはどういうわけか、心地よかった。
良くない心地よさだ、とどこかでわかっていた。
でもその「どこか」は、今の由佳にはずいぶん遠い場所にあった。
遮断機が、動いた。
踏切が鳴り始めた。
カンカンカンカン、という音が、夜の道に響いた。
遮断機が下りてきた。
由佳はまだ、動かなかった。
その時、後ろから強い力で、服を引っ張られた。
突然だった。
由佳の体が、後ろに引かれた。
踏切から離れた。一歩、二歩、後退した。
電車が来た。
風が来た。
轟音が来た。
由佳の目の前を、電車が通り過ぎた。
何秒か、それだけのことが起きた。
電車が過ぎた。
轟音が遠ざかった。
風が止んだ。
由佳はそこに立っていた。
鼓動が速かった。
さっきまで輪郭がぼやけていた体に、急に感覚が戻ってきた。
手が震えていた。
足が震えていた。
服を引っ張った何かを確かめようと、由佳は振り返った。
犬だった。
雑種の老犬だった。
毛並みが茶色と白の混じった、中型犬だった。
耳が少し垂れていて、目の周りに白い毛が混じっていた。
老いている犬だった。
でも体はしっかりしていて、由佳の服の裾を口に咥えたまま、そこに立っていた。
リードはついていなかった。
首輪がある。
でもリードはない。
由佳は犬を見た。
犬は由佳を見た。
服の裾を放して、由佳の目を見た。
目が、静かだった。
老いた犬の目は、若い犬の目とは違う。
黒くて深くて、長い時間を見てきた目をしている。
その目が、由佳を見ていた。
「ありがとう」と由佳は言った。
声が、かすれた。
犬は動かなかった。
由佳の目を、見続けた。
由佳には、犬のことを思い出した。
小学校の四年生の時に、由佳は車道に飛び出しそうになったことがある。
ボールを追いかけて、道路に出た。
車が来ていた。
その瞬間、何かに突き飛ばされた。
由佳は歩道の方に弾き飛ばされて、転んだ。
膝を擦った。
痛かった。
でも車は通り過ぎた。
何が突き飛ばしたのか、振り返った。
ゴンだった。
実家で飼っていた柴犬だった。
ゴン、という名前だった。
茶色と白の混じった毛並みで、耳が垂れていた。
由佳が小学校に入る前からいた、家族の犬だった。
その日、ゴンがなぜ外にいたのかわからない。
庭にいたはずだった。
でも由佳が車道に出た瞬間、どこかからゴンが来て、由佳を突き飛ばした。
ゴンは車に当たった。
軽傷だったが、それ以来、後ろ足が不自由になった。
引きずるように歩いた。
でも由佳の顔を見ると、しっぽを振った。
いつまでも、振った。
ゴンは由佳が中学二年の時に死んだ。
後ろ足が利かなくなって、そのまま逝った。
由佳は泣いた。
声を上げて泣いた。
あんなに泣いたのは、後にも先にもその時だけだった。
踏切の前の老犬が、鼻を一度鳴らした。
「ふ」という、短い音だった。
由佳はその音を聞いた瞬間、体が固まった。
ゴンが、よくした。
由佳の顔を見て、「ふ」と鼻を鳴らした。
それが「大丈夫か」という意味なのか、「やれやれ」という意味なのか、由佳にはわからなかった。
でもゴンは必ず、その音を出した。
今、同じ音が聞こえた。
由佳は犬の前にしゃがんだ。
膝をついて、犬と目を合わせた。
老犬は由佳を見た。
静かな目で、まっすぐ見た。
「ゴン」と、由佳は呼んだ。
声に出して呼んだ。
呼んでから、違う、とわかっていた。
この犬はゴンではない。
ゴンは二十年以上前に死んだ。
この犬はどこかの誰かの犬か、野良犬か。
ゴンとは別の犬だ。
でも呼んだ。
呼ばずにいられなかった。
老犬は「ゴン」と呼ばれて、動かなかった。
逃げなかった。
由佳の目を、見続けた。
由佳の目から、涙が出た。
踏切の前で、しゃがんで、泣いた。
声は出なかった。
ただ涙が出た。
さっきまで頭の中が静かだったのに、今は何かが崩れていくような感覚があった。
崩れることが、恐ろしくなかった。
崩れた方が、まだ良かった。
どのくらいそうしていたか。
老犬が、少し動いた。
由佳の膝に、頭を乗せた。
重さがかかった。
温かかった。
老犬の頭の重さが、由佳の膝に確かにあった。
由佳は犬の頭に手を置いた。
白い毛が混じった、柔らかい毛並みだった。
ゴンの晩年の毛並みが、こんな感じだった。
若い頃は艶があったが、年を取ると少し柔らかくなった。
この犬も、同じような柔らかさだった。
由佳は犬の頭を、そっと撫でた。
犬は動かなかった。
踏切の遮断機がまた上がった。
人が渡っていった。
誰かが由佳の横を通った。
由佳は気にしなかった。
ただ、犬を撫でていた。
しばらくして、由佳は立ち上がった。
犬も立ち上がった。
二人で、踏切の前に立った。
遮断機は上がっていた。
渡れた。
「行こう」と由佳は言った。
犬に言った。
犬は由佳の横を歩いた。
踏切を渡った。
向こう側に出た。
そこで犬が止まった。
由佳も止まった。
犬は由佳を一度だけ見た。
それから、路地の方へ歩き始めた。
由佳の方を向かなかった。
ゆっくりとした、老犬の歩き方で、路地の暗がりへ消えていった。
由佳は犬が消えた路地を、しばらく見ていた。
呼び止めなかった。
追いかけなかった。
その犬がどこへ行くのか、どこから来たのか、由佳には知る方法がなかった。
ただ、来てくれた。
ただ、引っ張ってくれた。
ただ、膝に頭を置いてくれた。
それだけのことが、今夜の由佳には、とても大きなことだった。
由佳は駅に向かった。
歩きながら、さっきのことを考えた。
踏切の手前で、足が止まったこと。
静けさが来たこと。
その静けさが心地よかったこと。
良くない静けさだった、と今は思えた。
さっきまでは、思えなかった。
でも今は、少し遠くから見られる気がした。
ゴンが、あの犬が、引き戻してくれた場所から。
由佳は鞄の中のスマートフォンを取り出した。
上司の名前を出した。
メッセージを打った。
「明日、少し相談させてください。仕事のことで」と打った。
送信した。
それだけだった。
でも打つ前と、打った後では、何かが違った。
抱えていたものが、一グラムだけ、軽くなった気がした。
一グラムだけだったが、確かに軽くなった。
電車に乗った。
座席に座って、窓の外を見た。
夜の景色が流れた。
街灯、ビル、踏切。
踏切が見えた時、由佳は目を逸らさなかった。
見た。
踏切を、ちゃんと見た。
電車が通り過ぎた。踏切が後ろへ消えた。
由佳は前を向いた。
膝の上に手を置いた。
まだ少し、震えていた。
でもそれでいい、と思った。
震えているくらいでいい。
震えているということは、まだここにいる、ということだから。
電車が走った。
由佳は目を閉じた。
ゴンのことを思った。
小学四年生の時、車道に飛び出しそうになった自分を突き飛ばしたゴンのことを。
後ろ足が利かなくなっても、しっぽを振り続けたゴンのことを。
今夜、また来てくれた。
そう思うことが、正しいかどうかわからない。
あの老犬がゴンかどうか、確かめる方法はない。
でも由佳には、来てくれた、と思えた。
それだけで、今夜は充分だった。
翌朝、由佳は上司に声をかけた。
「昨日、メッセージしました。少し話せますか」
上司は「もちろん」と言って、会議室に連れて行ってくれた。
由佳は話した。
うまく話せなかった。
言葉が途中で止まった。
でも止まりながら、続けた。
疲れていること、限界が近いこと、一人で抱えすぎていたこと。
話しながら、声が震えた。
震えながら、続けた。
上司は黙って聞いていた。
話し終えた後、上司は「もっと早く言ってほしかった」と言った。
怒っているのではなく、心配していた。
「少し仕事を減らそう。来週から調整する」と言った。
「すみません」と由佳は言った。
「謝らなくていい」と上司は言った。
「ちゃんと言えた方がいい」
由佳は頷いた。
ゴンが、「ちゃんと言え」と言った気がした。
あの踏切の前で、服を引っ張った時から、そう言っていた気がした。
その夜、由佳は早く帰れた。
家に帰って、鞄を置いて、靴を脱いだ。
玄関で、しばらく立ち止まった。
いつもの玄関だった。
何も変わっていない。
でも今夜の玄関は、少し違って見えた。
帰ってきた場所、という感じがした。
いつもは通り過ぎる場所なのに、今夜は「帰ってきた」と感じた。
由佳は台所に行って、お湯を沸かした。
麦茶ではなく、温かいものが飲みたかった。
ティーバッグのほうじ茶を入れた。
湯呑みを両手で包んで、窓の外を見た。
夜だった。
普通の夜だった。
でも由佳には、普通の夜が、今夜は充分に思えた。
ほうじ茶を飲んだ。
温かかった。
それだけのことが、今夜は、ちゃんと温かかった。
眠る前に、由佳は古いアルバムを出した。
実家から持ってきていた、子どもの頃のアルバムだった。
ページをめくると、ゴンの写真が何枚かあった。
庭で寝ているゴン。
由佳に寄りかかっているゴン。
縁側で日向ぼっこをしているゴン。
一枚、由佳とゴンが並んで写っている写真があった。
小学生の由佳が、ゴンを抱きしめている写真だった。
ゴンは抵抗せずに、由佳の腕の中にいた。
目が細くなっていた。
嫌がっていないのが、わかった。
由佳はその写真を見た。
しばらく見た。
「ありがとう」と言った。
写真に向かって言った。
それから、アルバムを閉じた。
電気を消した。
布団に入った。
今夜は眠れる気がした。
昨日の夜は眠れなかった。
その前の夜も。
でも今夜は、眠れる気がした。
目を閉じた。
踏切の手前で、服を引っ張られた感触が、まだ残っていた。
由佳はその感触を確かめながら、少しずつ眠りに落ちた。




